第49話 幸せのありか
乾いた大地を踏みしめる音が、やけに遠くまで響いた。
ミーナは光の差し込まぬ地下空洞の奥へ、ひとり進んでいた。
ここは、かつてレヴェリウス中枢に接続されていた“原記録層”──
すべての幸福データの源であり、幸福値という概念の始まりとも言える場所だった。
「幸福の演算を放棄した今、私がここに来る理由なんて……本当はないのかもしれないけれど」
ミーナは自分にそう語りかけるように呟いた。
それでも、彼女には確かに分かっていた。
この奥に、“答え”があるのだと。
いや、“答えがあった”のだと。
フェリクスやルカ、ジャレッドが、都市の修復と再構築にあたっている今、ミーナだけがかつての“仕組み”の奥深くへと向かっていた。
なぜか。
それは、レヴェリウスの演算機構を破壊し、自由と選択を取り戻したこの世界で、「幸福という概念そのもの」が今なお揺らぎ続けているからだ。
数字が消えても、信じる心がなければ、人はまた「別の軸」を欲しがってしまう。
「数値の代わりに“神”を作っても、それは同じこと。私たちは、答えを外に求めすぎてしまった……」
ミーナは重い扉を押し開いた。
その先に広がる空間は、信じられないほど静かで、そして美しかった。
半透明の結晶群が幾重にも並び、空気中に残響のような光の波を漂わせている。
まるでここだけ、幸福値が数えられていた世界の“余韻”が染み込んでいるようだった。
「……これは、最後の“記録”……?」
ミーナが一歩踏み出すたびに、足元の床が微かに震え、淡く光る。
中央には一つの大きな結晶体──
かつて“原初の聖女”と呼ばれた存在の精神が転写された、最古の演算核の残骸があった。
「あなたが……最初の、“幸福”を記録した人……?」
ミーナは結晶に触れようとして、ふとためらった。
触れてしまえば、再び“記録”が始まるのではないかという怖さがあったのだ。
けれどそのとき、結晶が自ら微かに光を放ち、彼女の意識に語りかけてきた。
『ようこそ。後継の聖女よ。』
「……私は、もう聖女じゃない。幸福を数えることをやめた、ただの一人の人間です」
『それでも、ここまで来たということは……あなたは知りたかったのでしょう。なぜ、私が“記録”を始めたのか。なぜ、幸福値というものが生まれたのかを』
ミーナは黙ってうなずいた。
結晶の光が増し、過去の映像が空間全体に再生される。
そこには、今よりもさらに荒廃した世界があった。
人々が互いを疑い、裏切り、笑顔すら失った時代。
「……これは、希望が消えた時代……?」
『そう。私たちは幸福を“実感”する術を忘れていた。だから私は、幸福を可視化しようと考えた。数字に置き換えれば、誰かが微笑んだ証になると思った』
それが、始まりだった。
善意だった。
願いだった。
けれどそれが、やがて管理に変わり、強制に変わり、支配へと転じていった。
『だから、私は願う。あなたには、数字を超えて、“幸せを信じる心”を受け継いでほしい』
映像が消えると同時に、結晶の光もゆっくりと収束していった。
「……わたし、きっと、怖かったんだ」
ミーナはその場に膝をつき、そっと顔を伏せた。
「数字にすがったことも、信じて裏切られたことも、幸福という言葉が、偽善に見える日も……全部、あった。でも、」
ゆっくりと立ち上がり、ミーナは空を仰ぐように、上方の天井を見つめた。
「でも、誰かの“幸せそうな顔”は、やっぱり本物だった。あの笑顔を、私は疑えない」
その瞬間、原記録核の中心から微細な光粒子が舞い上がり、ミーナの胸にふわりと触れた。
それは、消えたはずの幸福値でも、過去の記録でもなかった。
ただ、ひとりの人間の“願い”だった。
──誰かを笑顔にしたい。
──誰かと共に、幸せになりたい。
そんな、言葉にならない光の粒。
「ありがとう、初代の聖女さん。あなたが見た未来、引き継ぎます」
ミーナは静かにその場を後にし、地上へと向かった。
都市では、修復と再建が進んでいた。
瓦礫の下から掘り出された旧時代の文書を解読する者、耕作可能な土地を調査する者、仲間と新しいルールを話し合う者──
それぞれが、それぞれの“幸せの形”を探していた。
ラティが子どもたちと灯火を作っていた。
ルカが鍛冶炉に新たな火を灯していた。
フェリクスが教育用の魔道書を手書きで編んでいた。
「みんな……自分の道を、歩いてる」
ミーナはその光景を見ながら、小さく息を吐いた。
──もう、幸福は記録しない。
──けれど、確かに“ここにある”。
そのことを、彼女は心から信じていた。
夕暮れの空に、ひとすじの風が吹き抜ける。
ミーナは空を見上げてつぶやいた。
「あと2話分で終わりそうだな……なんてね」
ふふ、と小さく笑って、ミーナは再び歩き出した。
その背中は、かつての“聖女”よりも、ずっと自由で、ずっとまっすぐだった。




