第48話 境界にて
エイデン・ノードへと続く最後の峡谷は、荒れた岩壁と深い霧の中にあった。
かつて王都の最奥に設置された幸福演算の始原装置——すべての記録の核を支えた“演算中枢”の残骸が、そこに眠っている。ミーナとフェリクスは、ただ風の音だけが響く道を、ゆっくりと進んでいた。
「ここが……幸福演算の起源」
ミーナが立ち止まり、目の前の岩壁に刻まれた古い印を見つめる。かすかに浮かび上がる紋章は、今では誰も使っていない古王国の印。演算塔が建造される以前、幸福を数値化するという概念すら存在しなかった時代に設計された、最初の“記録機構”の証だった。
「ここが、エルフィナが最初に封じられた場所……?」
「そのはずだ」
フェリクスは背負っていた封書の束を取り出す。その中には、かつて王都で抹消された計画の記録と、エルフィナに関わった研究者たちの遺言が含まれていた。
「彼女はここで、演算に自分の感情を提供した。そして——自分の存在ごと、記録から消された。『幸福』という概念の裏に、“誰かが苦しんだ記憶”があることを、誰も知らないままで」
ミーナはそっと目を閉じる。遠く、風が唸る音が岩肌に反響して、まるで誰かの声のように響いた。
「……けど、彼女は最後まで記録のことを否定しなかった」
「そうだな。“幸福を記録すること”は、誰かを支える術にもなり得る。ただし、それは——“誰かが勝手に測るもの”ではなく、“誰かが誰かのために、記録して残す”ものじゃなければならない」
ミーナは、記憶の中でエルフィナの姿を探す。
あの光の粒に込められていたもの——それは、名前のない優しさだった。どこにも残されないまま、ただ人の心を支える力。
そのとき、不意に背後から声がかかった。
「ようやく見つけたぞ」
ミーナとフェリクスが振り返ると、霧の中から姿を現したのはルカだった。彼の服は砂にまみれ、左肩には深い傷の痕が残っていた。だがその瞳は、揺るぎなくまっすぐだった。
「レヴェリウスで、議論が始まった。“もう一度、幸福を測ってほしい”って声が増えてきてる。失うことを恐れた人たちが、“数字で安心したい”って、言い出してる」
「……ルカ」
「でも、違うんだ。俺は、もう一度確かめたかった。幸福って本当に“測れる”ものなのかって。だから来た。……ミーナ、お前が選ぼうとしてる道を、見届けるために」
ルカの背後には、さらに数名の人影があった。ジャレッド、アリシア、そしてラティ——かつて光祭りでミーナとともに未来を描いた仲間たちだった。
「みんな……」
ラティが前に出る。
「ミーナ。私たち、最初は“数字”が希望だった。でも、あなたが見せてくれた。幸福は記録じゃなくて、人の言葉や、行動や、思い出で作れるって」
アリシアも頷いた。
「だけど、全部を記憶に頼るのは難しいわ。“残す方法”が、必要なの。私、あの花をまた束ねたい。あなたがくれた言葉を、他の誰かに伝えるために」
ミーナは深く息を吸った。
「——幸福演算を、再起動するつもりはありません。でも、幸福を“語る”仕組みは作れるはずです」
フェリクスが補足する。
「人が、誰かの幸せを感じたとき、それを言葉で残す。書き記す。——“演算”ではなく、“記憶を共有する場”を構築する。それが……新しい“記録”の形だ」
「記録は、罪じゃない。でも、支配のために使えば罪になる」
「記録は、武器じゃない。でも、使い方次第で誰かを傷つける」
「ならば、記録を“贈り物”にしよう」
ミーナは地面に膝をつき、そっと岩の前に手を当てた。
「——ここに、名を刻ませてください。エルフィナの名前を。彼女が生きた証を、ようやく記録として残すために」
そして、指先から淡い光が滲む。
“幸福記録初源——その微笑みは数値にならずとも、人々の記憶に在り続けるだろう”
霧の中に刻まれた言葉は、誰かの祈りのように、静かに輝いた。
それは数値ではなかった。
けれど、誰もが見上げるその文字は、まぎれもない“証”だった。
その後、ミーナたちは《語り継ぐための記録所》を建設する構想を練り始めた。数字ではなく、言葉と声で、人の感情を残す場所。幸福を“定義する”のではなく、“描写する”場所。
フェリクスは新しい魔道技術を導入し、ルカは“感情を記録する鍛冶具”を発明した。ラティは子どもたちにその意義を教え、ジャレッドは語り部として最初の“幸福物語”を書き上げた。
ミーナは、そのすべての中心にいた。
語る者として。
伝える者として。
そして——選び続ける者として。
幸福は、もう数えられない。
だが、それは確かに語られている。
今日もまた、誰かが誰かに言った——
「ありがとう。あなたがいて、よかった」




