第47話 選ばれなかった幸福
残された光の粒は、ミーナの掌の中で微かに震えていた。
フェリクスとともに“無記録区”を後にし、ふたりは静かに小高い丘へと出ていた。辺り一帯は風が吹き抜ける荒野だが、そこには一つだけ、風化せずに残った小さな石碑が立っていた。
《エルフィナ・クローディア——幸福演算第零号 被験体》
「……やっぱり、彼女は……」
「“実験体”だったんだ」
フェリクスが呟く。
「幸福演算の起源。それを人に適用する最初の試みとして、彼女が選ばれた。王国の中枢機構は、彼女の脳と感情をもとに“幸福値”を構築した……すべての始まりだ」
ミーナは、握ったままの光の粒を見つめる。温かく、優しい。けれどその中に含まれているのは、痛みだった。千の喜びを演算するために、万の悲しみを背負った者の痛み。
「エルフィナは、自分の意思でそれを選んだんじゃない。きっと、最初は“与えられた役割”だったのよね」
フェリクスは無言でうなずいた。
彼の記憶にも、かつて王都の裏側で進行していた幸福演算の初期プロジェクトがあった。だが、その記録は国家機密として消去され、関係者も姿を消したとされていた。
「……そして今なお、彼女は“記録されぬ存在”として生きている」
「自分を消すことで、幸福という呪縛から世界を解き放とうとした」
「でも、それじゃあ彼女自身の幸福は、誰にも記録されない」
ミーナの声が震える。
「幸福って……誰かに測ってもらうものじゃない。けど……“誰かに知ってもらう”ことは、きっと必要なのよ」
フェリクスが視線を落とす。
「じゃあ……君はどうする? このまま“幸福値なき世界”を残すのか? それとも再び、数値化された幸福を望む人々に従って、演算を再起動させるのか?」
ミーナは答えられなかった。
いま、レヴェリウスでは“記録が失われた生活”を前向きに受け入れようとする者と、“もう一度幸福を可視化してほしい”と願う者が拮抗していた。
人々の中には不安もあった。
感情を記録されないことで、愛が誤解される。信頼が崩れる。怒りや悲しみが孤立する。
「たしかに、記録された幸福は、ときに支えになる。孤独な誰かが“誰かに幸福を気にかけてもらっている”と感じるための、唯一の数字になることもある」
「でも、それを管理する演算塔はもうない。数値は再構築できても、それを運用する“意志”がなければ、また同じことが起きるだけだ」
ミーナは目を伏せる。
「幸福を記録してはいけない、とは思わない。でも……誰かのために記録された数字が、誰かを縛るなら、それはもう“幸福”じゃない」
フェリクスが、ゆっくりと石碑の裏に回った。
そこには、削られた文字の断片が残っていた。風化しかけたその一節には、かすかに読める言葉がある。
——幸福とは、名乗られなかった感情の総和である。
「名乗られなかった……?」
ミーナが言い直した。
「つまり、誰にも言葉にされなかった感情のこと。記録に載らなかった幸せ、声にならなかった愛、振り返られなかった想い……」
「……それが、演算では捉えられない“幸福”ということだ」
二人はしばし、黙って風を聞いた。遠くで崩れかけた塔の影が揺れている。
「じゃあ、私たちはどうすればいいの?」
ミーナの問いに、フェリクスは穏やかに笑った。
「君は、何を願う? 数値に戻すのでもなく、完全に手放すのでもなく。君自身が、選んだ答えを世界に問えばいい。——幸福演算第零号が、名を捨ててまで君に託したように」
ミーナは掌を見た。
光の粒は、次第に淡く、霧のように溶けはじめていた。
「ありがとう、エルフィナ。あなたがくれた、この“名を持たない想い”を——私は、記録ではなく、語ることで残したい」
ミーナは立ち上がった。
「幸福を“語る”。誰かが誰かに、自分の言葉で、思い出で、残すもの。数値じゃなく、演算じゃなく。——声と、まなざしで」
フェリクスが、彼女の隣に立つ。
「じゃあ、向かおう。最後の地へ。《エイデン・ノード》……幸福演算の原初が眠る場所へ」
ミーナは頷いた。
その足取りにはもう迷いはなかった。
彼女の中にある光は、もう“数字”ではなかった。
それは名前のない幸福。誰かに届くことを願って託された想い。
それを伝える者として、彼女は今、歩き出した。
《選ばれなかった幸福》を、選び直すために。




