第46話 記録なき追跡者
黄昏の街道を抜け、ミーナとフェリクスはレヴェリウスの外縁に広がる荒野へと足を踏み入れていた。
風は冷たく、地平線の向こうには、崩れ落ちた演算塔の残骸が影のように浮かんでいる。
「この先が、“無記録区”だ」
フェリクスが低くつぶやいた。
「幸福値を完全に消去された区域。ここでは何も“測れない”。風の流れも、時間の進み方さえも曖昧になる」
「……それでも、行く」
ミーナは迷いなく言った。
「エルフィナはそこにいる。記録を失って生き続けることを選んだ人なら、ここにしか居場所はないはずだから」
二人は歩を進めた。草一本生えぬ大地を越え、やがて見えてきたのは、白い霧のような壁。
その向こうには、音が消えた世界が広がっていた。
「フェリクス、聞こえる?」
ミーナの声が震える。
彼は耳を澄ませたが、風の音さえしなかった。
まるで世界そのものが“記録されていない”空白に呑み込まれたかのようだった。
「……これが、無記録区か」
一歩足を踏み入れた瞬間、視界がぐらりと歪んだ。
記憶が混線する。昨日と今日の境界が曖昧になり、遠い昔の声が耳の奥で囁いた。
——『エルフィナは消えたんじゃない。消されたの』
——『幸福を数えない世界を望んだ、ただそれだけで』
ミーナは額を押さえた。
「……エルフィナ、あなたは……本当に、ここに?」
足元の地面が脈打った。
フェリクスが剣の柄に手をかける。
「何か、いる——!」
突如、霧の中から人影が現れた。
ボロの外套に包まれ、顔は布で覆われている。だが、その動きは人間離れしていた。
指先から薄い光が散り、空気が軋む。
「侵入者……幸福を持ち込む者は、立ち入りを禁ず」
機械のような声。それでも、どこかに“人”の響きが残っていた。
「私たちは敵じゃない」
ミーナが声を張る。
「エルフィナを探しているの。彼女に会いたいの!」
「……エルフィナ?」
人影が反応を見せた。
「その名を……まだ、覚えている者がいるのか」
布の下の瞳がわずかに光った。青白く、冷たい光。
「彼女はもう、“名を棄てた”。幸福も、記録も、光さえも」
「嘘よ。彼女は生きてる」
ミーナの言葉に、男はゆっくりと布を外した。
その顔に刻まれた傷と、かつての記録兵の装備が露わになる。
「お前たちは……幸福の亡霊だ。あの女を探すことが、何になる?」
フェリクスが前に出た。
「幸福を数えない世界を作ったのは、彼女じゃない。だが、彼女の“選択”が世界を変えた。確かめたいんだ、それが間違いじゃなかったかどうか」
男は沈黙したのち、静かに背を向けた。
「……ついてこい。お前たちが何者か、エルフィナが見ればわかるだろう」
霧の奥へ導かれるようにして、二人は進んだ。
やがて霧の向こうに現れたのは、古びた研究施設の跡地だった。
崩れた壁の一部に、かつての幸福演算機の部品が積まれている。
その中央に、彼女はいた。
銀色の髪が風に流れ、瞳は閉じられている。
だが、その姿は眠っているようで、どこか神聖さを宿していた。
「エルフィナ……!」
ミーナは駆け寄った。
だが、フェリクスが彼女の腕を掴む。
「待て。——何かが、違う」
エルフィナの身体は、透明に透けていた。
その輪郭の内側を、淡い光が流れている。
「……データの残滓? まさか、彼女は——」
「意識だけが残されたの」
背後から声がした。
先ほどの男がゆっくりと口を開く。
「彼女は幸福演算の最終実験で、“記録されない存在”としてこの世界に刻まれた。肉体はもうない。だが、彼女はまだ生きている。心の中で、記録を拒み続けている」
ミーナの喉が詰まった。
「そんな……彼女が望んだのは、自由だったのに」
「自由を得た代償だ」
男の声が低く響く。
「幸福を失った人々の記録を一身に背負い、今もこの場所に縛られている」
ミーナは、エルフィナの顔を見つめた。
その唇が、かすかに動く。
「……ミーナ……?」
風の音が戻った。
彼女の声が、確かに響いた。
「あなた……ここまで来たのね」
「エルフィナ……!」
ミーナは膝をつき、震える手を伸ばした。
「どうして、こんなところに。あなたが、あの時——」
「私が世界を閉じた。幸福を記録から解き放つために」
彼女の声は淡く、しかし確信に満ちていた。
「けれどね、ミーナ。幸福は記録を失っても、痛みを忘れられない。人は、記録ではなく“想い”に縛られるの」
「そんなの、あなた一人が背負うことじゃない!」
「いいえ、私が始めたことだから」
彼女の姿が風に溶けていく。
「でも——あなたなら、終わらせられる。幸福の記録も、幸福の罪も」
「待って! あなたを助けたい!」
ミーナは叫んだが、彼女の声は届かなかった。
エルフィナの姿は光に包まれ、霧の中に消えていった。
残されたのは、手のひらほどの小さな光の粒。
ミーナはそれをそっと掬い上げた。
温かい。まるで、彼女の想いが宿っているかのようだった。
フェリクスが肩に手を置いた。
「行こう。まだ、終わりじゃない」
ミーナはうなずく。
「ええ。彼女が託したこの光を、次の場所へ——」
霧が晴れ、遠くに薄青い空が見えた。
その向こうには、崩れかけたもう一つの塔が見える。
あれが最後の地、《エイデン・ノード》。幸福演算の原初が眠る場所。
彼女は光を胸に抱き、静かに誓った。
「必ず行くわ、エルフィナ。あなたが願った“記録のない幸福”を、この世界に届けるために——」
風が吹いた。霧の海が波のように揺れ、遠くで誰かの笑い声が聞こえた。
それは、記録されない幸福の音だった。




