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追放聖女は“幸福値”しか視えません  作者: 東野あさひ


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第38話 ノルミアの門を越えて

湿った土の匂いが鼻を掠めた。草の露に濡れた足元を踏みしめ、ミーナたちはノルミア演算塔の麓へと辿り着いた。


塔は思いのほか低かった。


かつて幸福演算の中枢とされたこの場所も、今では忘れ去られた廃墟のように静まり返っていた。天を衝くような白亜の塔ではない。苔むした石の建造物がぽつねんと、森の中に埋もれるように建っている。


「ここが……」


ミーナが呟く。


「幸福を“数値化する前の演算”が最初に行われた場所」


かつてこの塔は《記録以前の幸福》を再現しようとする最後の試みに使われた。数値化される前の“感覚”を記録しようとした、最初で最後のプロジェクト《プロト・アフェクト》。


ジャレッドが塔の扉に手をかけた。


「鍵は……壊れてるな」


重い音を立てて開いた扉の先には、無数の記録端末と、灰になった紙束の残骸。そして、中心に据えられた透明なカプセルがあった。


「誰かいたの?」


ルカが問いかけると、ジャレッドが微かに頷く。


「データ上では、この塔での最終実験時、記録者がひとり残っていた。名前は……エルフィナ」


全員が息を呑んだ。


「でも、あの人は——」


「この塔で《幸福の記録放棄》を宣言した。演算から外れた幸福を、人々が“選び取る”ことを信じて、塔を封印して……姿を消した」


ミーナは震える手でカプセルの縁に触れた。


中には何も残されていなかった。ただ、カプセルの内壁に指で書かれたような文字の痕跡が一つ。


《風は、まだ吹いている》


「……ここから、始まったんだ」


ミーナはカプセルの中を覗き込んだまま、そっと言った。


「この世界を、“選び直す”旅が」


塔の地下区画には、今も稼働を続ける旧型の記録装置が残っていた。フェリクスが慎重に操作盤を開き、ジャレッドが解析を始める。


「……データの一部は欠損してるが、読める部分もある」


「どんな内容?」


ルカが身を乗り出す。


「《再演算指令》……? いや、違う。“幸福という概念を、共鳴として保存せよ”とある」


「共鳴?」


「数値じゃなく、感覚の“パターン”を保存しようとした痕跡。これが、レヴェリウスの原型か……」


ミーナの胸に、ざわりと風が吹いたような感覚が広がる。


——私の見ていた幸福は、たったひとりの感情じゃない。


——誰かと共に感じた“音”、その振動。


「だから私たちは……まだ、続けなきゃいけない」


塔の奥、壁の向こうに繋がる通路を見つけたのはルカだった。


「地下のさらに奥に、もう一つの区画がある。……もしかすると、記録者の“主観記録”が眠ってるかも」


石の階段を降りた先、ひんやりとした空気の中に、それはあった。


薄暗い空間の中央に浮かぶ球体。古代語で《ノードスフィア》と刻まれたその装置は、記録者たちの“主観”を断片的に記憶し、再生するためのものだった。


「再生しますか?」という文字が、空中に浮かぶ。


ミーナが頷くと、球体から音が溢れ出した。


『私は幸福だった。だから記録しないと決めた。だって、幸福は……壊れやすいから』


エルフィナの声だった。


『でももし、これを誰かが聞いているのなら……お願い。あなたの幸福を、どうか信じて』


『たとえそれが誰かに“嘘”だと言われても——それでも、あなたがそうだと感じたなら、それが本当の幸福だから』


音声はそこで途切れた。


ミーナの頬に、一筋の涙が伝っていた。


「……信じる」


彼女は拳を握った。


「誰かがまた、世界を“演算”で覆おうとしても。幸福を取り戻すたびに、誰かが“正しさ”で塗りつぶそうとしても……私は、自分の感じたものを信じる」


ジャレッドが、少しだけ目を細めた。


「その言葉が、新しい記録の始まりになるかもしれない」


ミーナは仲間たちを見回した。


「行こう。次の記録を探しに」


外に出ると、風が吹いていた。


レヴェリウスが示した“幸福の共鳴”——それは、確かにまだ、世界のどこかで響いていた。

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