第36話 幸福という嘘
村を出てから三日目の朝、ミーナは夢を見た。
風の塔——あの記録水晶が揺らめいていた塔の上で、誰かが笑っている。
「数値に縛られない幸福? そんなもの、最初から幻想なんだよ」
声の主は見えない。 ただ、かすかな冷気が背筋を撫でた。
目を覚ましたミーナは、テントの中で小さく息を吐いた。まだ暗い。夜明け前の空には、星が瞬いている。
「……レヴェリウスが壊れてた理由、わかった気がする」
ぼそりと呟いた彼女の横で、焚き火番をしていたフェリクスが振り向いた。
「また夢? ずいぶんうなされてた」
「うん。あの装置……たぶん“答え”を出そうとして壊れたの。幸福って何かを、人間の脳じゃなく、あれが“定義”しようとした結果」
「……計算できない感情に、数値を与えようとしたってことか」
「それが“嘘”だって、誰かが言ってた」
フェリクスはしばらく黙って火を見ていた。
「なあ、ミーナ。お前はまだ、幸福値が見えてた頃のことを覚えてるか?」
ミーナは少しだけ笑った。
「うん。みんなが数字で笑って、数字で泣いてた頃。でも……そのほうが、ラクだったかもしれない」
「……俺もそう思ったこと、ある」
焚き火の薪がぱちんとはぜた。
「でもさ。レヴェリウスが壊れたってことは、“それじゃ足りない”って、どこかで誰かが気づいたってことじゃない?」
「気づいて、諦めたかもしれないけどな」
その会話を最後に、二人は言葉を交わさなくなった。 それぞれの思いを、ただ火の音に溶かしていた。
夜が明ける頃、一行は再び旅を再開した。 目的地は、記録の残らない村“イシュラン”を抜けた先、神機管理圏を逃れた旧自由都市の一つ“レヴァレイ”だった。
そこには、かつてエルフィナが出会った“幸福に依らない自治”を試みた人々が住んでいたと言われていた。
だが、辿り着いたレヴァレイの地には、町はなかった。
建物の基礎跡、土に埋もれた広場、そして所々に残る風車の破片。 そこにいたはずの人々の姿はどこにもなかった。
「ここ……誰かが壊したんだ」
ルカが、倒れた石碑に手を添えて言った。
「焼き払われてる。しかも、最近だ」
焼け焦げた地面と、散乱する生活用品。 ここには確かに人の営みがあったのだ。それを、誰かが消した。
そのとき、ジャレッドが地面の一部に膝をついた。
「これは……神機型の足跡。大型の補助歩行型、最新型の……」
彼は手を震わせながら、足跡を辿っていく。
「“デア・マキナ”。幸福演算の“再実装体”だ」
「再実装体……?」
ミーナが聞き返すと、ジャレッドは硬い声で答えた。
「神機リュカオンの再構成体。人間型ではなく、領域構築型。 かつての《幸福値演算》を再現するために、外部から世界に“演算場”を設置していく個体……」
「それって……また、世界を数値で塗り替えるってこと?」
「そうだ。そして、それはエルフィナの“最終記録”を無効化する試みでもある」
——エルフィナが残した幸福。 それは、“記録できない幸福こそ真実である”という、最後の宣言だった。
「つまり、誰かがそれを“嘘”にしようとしてる……」
ミーナは唇を噛みしめた。
「許さない」
その言葉に、皆が目を向けた。
「幸福は、数字じゃない。記録できないものこそ、私たちの心に残る。誰かのためを思った温度、言葉、涙、それを“偽物”にするなんて——許せない」
フェリクスが立ち上がり、剣の柄を握りしめた。
「俺たちで、止めよう。デア・マキナの進行を」
ルカも、静かに頷いた。
「今度は、俺たちが記録者になる番だな」
ジャレッドが微笑んだ。
「いい言葉だ。始めよう、記されざる幸福の旅を」
ミーナはもう一度、空を見上げた。 風が吹いていた。
数字では測れない、優しく、あたたかな風が——




