第35話 風を読む者たち
塔の天辺から吹き降ろす風が、広場の空気を撫でるように冷やしていた。ミーナの眼前では、男の装置が風の塔と融合しようとしていた。まるで塔そのものが“装置の一部”へと変化しつつあるように、音もなく、しかし確実に侵食が進んでいた。
リィナがミーナの背に手を添えた。
「この風、変だ……まるで、心の奥を覗かれているみたい」
「そう……感じる」
幸福を測るという行為。それはいつだって“心の奥”を暴こうとする。
ミーナは記録帳を強く握りしめた。この手の中にあるのは、記録ではない。記録しようとする“意志”そのものだった。
男の名はクラウス・ネフィル。かつて中央神殿の研究局に所属していた科学者で、エルフィナと同時代に神機理論を学んだ者だという。
「幸福は数値化されるべきだ。それが人を迷わせず、間違いを犯させない唯一の手段だ。自由意思? 自我? そんな不確かなものに導かれた人類がどれだけ争い、苦しんできたと思っている!」
彼の声が風を裂くように広場に響く。人々は動けずにいた。
「私は“幸福再演算機構”《エクス・アナリュシス》の第一稼働者だ。この装置によって幸福値を再定義し、あらゆる社会構造を最適化する。神の失敗を、人が引き継ぐ時代が来たのだ」
塔の先端から伸びたコードのような結晶体が、広場の記憶水晶へと接続されていく。
——これは、情報の上書きだ。
ミーナは立ち上がった。
「やめて……あなたの“最適化”は、誰かの心を切り捨てることになる!」
「切り捨てる? いや、救済だ。誤った幸福にすがる者たちに、真の方向性を示すんだ!」
クラウスは装置を操作する。風が音を帯びてうねる。空気が、硬くなっていく。
——数値の網が張り巡らされる前に。
ミーナは自分の幸福を、声にすることを選んだ。
「私は……記録者として生きる。数値じゃなく、言葉で、感情で、誰かと向き合う道を選ぶ。あなたがそれを否定しても、私は、諦めない!」
クラウスがにやりと笑った。
「ならば、証明しろ。お前の“非効率”な幸福が、いかにして人を導けるかを」
その瞬間、塔の光が放たれた。
街の上空に光輪が現れ、幸福値演算が再び起動する。
だが——今回は違った。
ミーナの目に映ったのは、数値ではなかった。
“感情の揺らぎ”だった。
幸福が、数字ではなく“波形”として視えたのだ。
まるで、心音のように。
「これは……」
クラウスの顔に、初めて動揺の色が走る。
「これは……想定外だ。幸福値は定量化されるはず……!」
ミーナはそれを見て気づく。
「記録帳……私が記したものが、幸福の演算に干渉してる?」
記録とは、見たもの、感じたことを“固定”する行為だ。
だが、それは同時に、変化を受け入れた証でもある。
——“揺らぎ”として残る幸福。
その波形が塔の装置に干渉し始めた。数値化プロセスが不安定になり、風が乱れ、クラウスがバランスを崩す。
「やめろ! やめろ……!」
塔から火花が散り、装置の一部が破損する。
そこに現れたのは、かつての仲間たちだった。
ジャレッド、オルステン、マリア、そして——エルフィナ。
「遅れてごめん、ミーナ」
エルフィナの声に、ミーナは顔をあげた。
「生きて……たんだね」
「ずっと“観測”してた。君が“記録者”になれるように。今度こそ、私たちは過去を超えられる」
エルフィナの手が装置に触れる。かつて神機を眠らせた彼女の意志が、今再び風の装置に干渉する。
「幸福は、記録されるものじゃない。けれど、記録しようとする心は、次の誰かに届く」
クラウスの装置は停止した。塔の光は風に溶けるように消えていく。
そして、広場には再び静かな風が戻った。
だが、戦いは終わっていない。
クラウスは拘束される直前、こう言い残した。
「お前たちは……新たな神機の起動を阻めない。あれはすでに——」
その言葉を最後に、彼は連行された。
ミーナは空を仰いだ。風が優しく、髪を撫でた。
(新たな神機……)
次に記すべき“幸福”は、まだ先にある。
——新章《レヴェリウス編》、開幕。




