第33話 記されざる風
セレスティアの地平が見えてきたのは、旅に出てから十日目のことだった。
石造りの門が空高くそびえ、その周囲に無数の風車が回っている。 だが、ただの風力発電装置ではなかった。風車の一つひとつが“音”を奏でている。 回転するたび、低く、あるいは高く、風に溶ける旋律。
「音で……歓迎されてる?」
ユリが小声でつぶやいた。
「風の街、ってほんとなんだね」
ラティが頷く。
街の門を抜けると、まず目につくのは“掲示のない掲示板”だった。 何も書かれていない木製の板が広場の中央に立ち、人々がその前で立ち止まり、手をかざし、微笑んでいる。
「なにしてるんだろ……?」
グリフが首をかしげると、近くにいた少女が答えた。
「それ、思いを映す板なの。読みたいことが、読めるの」
「読みたい……こと?」
ミーナが近づいて、そっと手をかざす。 すると——
《ようこそ、新しい旅人。風と共に、幸福を探しに来た君へ》
淡い光で、文字が浮かび上がる。 けれどそれは、周囲の誰にも見えていないようだった。
「……これ、私だけに見えてる?」
「うん。それが、“読みたいこと”ってこと。言葉じゃなくて、気持ちが反応してるの」
少女はくるりと踵を返し、また風の街へと溶けていった。
セレスティアは不思議な街だった。 看板もなければ、価格表もない。 店主と目を合わせれば、笑顔で頷き、必要なだけを手渡してくれる。 その代わり、誰もが“何かを返す”。それは労働かもしれないし、演奏や絵、物語かもしれない。
「ここって……“価値”が数値じゃない世界だ」
ラティの言葉に、ミーナは静かに頷いた。
宿はなく、空き家の玄関に「旅人、どうぞ」とだけ書かれた札がかかっている。 夜、焚き火を囲んで住民と話すと、こんな言葉が返ってきた。
「幸福ってのは、交換じゃなくて“応答”なんだよ」
「応答……」
「受け取ったものに、なにかを“返したい”と思う心。それが幸せの循環ってやつさ」
その夜、ミーナは一冊の書物を手に入れた。 表紙に名前はない。 けれど、開いた瞬間——彼女は確信する。
(これ……《記録者の書》だ)
エルフィナが記していたはずの、幸福の軌跡。 しかし中は空白だった。 ただ一行だけ、文字が刻まれている。
《この書に幸福を記す者は、未来の選定者となる》
ミーナは震える手で本を閉じた。 幸福値が消えた今、世界は新たな記録者を必要としている。
その翌朝。
セレスティアの中心にある“風の議堂”にて、彼女たちは招かれる。 そこにいたのは、“風の執政官”と呼ばれる老婆だった。
「見えておるな、君には……“視えぬ値”が」
「……あなたは、幸福値を……?」
「昔、見えたことがある。けれど捨てた。数字では、人は救えぬと知ったからな」
老婆はミーナの手元の書物に目をやる。
「それは、君に託された未来の鍵だ。だが使い方を間違えれば、また同じ轍を踏む」
「数値化、ですか」
「いや。“幸せを強制すること”だ」
ミーナは静かに息をのんだ。
「君の幸福が、他者を裁く基準になってはならぬ。それを守れるか?」
彼女は真っ直ぐに頷いた。
「……私は、まだ自分の幸福さえも見えていない。でも、だからこそ、誰かを型にはめるような真似はしません」
執政官は笑った。
「よい返事だ。ではこの街に、君の“章”を書いていけ。幸福の定義を、他でもない君自身の手で」
新章《風を継ぐ者たち》——始動。
ミーナは筆を執り、白紙の《記録者の書》に、こう書き記した。
《旅に出た。幸せとは何かを、知りたくて——》




