第30話 風の果て、幸福の在処
それは、あの日と同じ朝だった。
澄み渡る空気、遠くで鶏が鳴き、焚き火の煙が揺れている。だが、あの日とは決定的に違っていた。幸福値は、もう、視えない。
エルフィナは、小さな畑の畝に腰を下ろし、土の温もりを指で確かめた。子どもたちの笑い声が村のあちこちに響き渡っている。リュカオンはもういない。だが、エルフィナの胸の奥には、静かに灯る“選んだ幸福”が根づいていた。
「おーい、エルフィナー!」
振り向くと、ラティが両手にパンの籠を抱えて駆けてきた。
「焼きたてよ! ちょっと焦がしたけど、そこが香ばしくて美味しいの」
エルフィナはふっと微笑む。彼女の幸福は、こうした小さな朝に宿っているのかもしれない。
「ありがとう、ラティ」
マリアが診療所から顔を出し、笑顔で手を振る。ジャレッドは工房で機械の調整をしている。幸福を数値で測る時代は終わった。だが、人々は日々、確かに幸福を“感じて”いる。
——そして、その感覚は、次の世代へ受け継がれていく。
「演劇、またやろうよ!」
ミーナが叫ぶ。前回の“幸福劇”が村で評判を呼び、今や子どもたちの恒例行事になっていた。脚本も衣装も、子どもたちが自分で考え、自分で作る。そこには“幸福の数値”などない。けれど、誰もが「楽しい」と笑っていた。
「劇のタイトルはどうするの?」 「『風の中の神様』なんてどう?」 「いいね、それ!」
子どもたちの声が、風に乗って広がっていく。
エルフィナは空を見上げる。
リュカオンは、今や静かに眠っている。神の影も、幸福値の影も、もう彼女の視界には映らない。ただ、“見ようとする気持ち”だけが、世界を染めていた。
彼女は、そっと手を胸に当てた。
(私の幸福は——今、ここにある)
そう、はっきりと思えた。
その夜、村では祝祭が開かれた。劇の初演に、収穫の祝い、そして新たに立ち上がる“幸福の学校”の設立記念として。子どもたちが村の広場で踊り、大人たちが手を取り合い、歌い、笑う。
焚き火の光が、空を焦がす。
「次の章は……」
エルフィナの横で、ジャレッドが言った。
「子どもたちが描くんだろうな」
彼女は頷いた。
「そうね。私たちが残した“物語”を、彼らが未来へ連れて行く」
祝福のない世界。 だがそこには、“選ぶ自由”がある。 “感じる幸福”がある。
誰かに与えられた答えではなく、自分で見つけ出す物語が——確かに、そこにあった。
夜空を、ひとひらの風が撫でる。
幸福は、いつも、そこにある。




