第29話 幸福という名の未来
「エルフィナ、少し手伝ってくれるかい?」
朝の光が差し込む村の広場で、ラティが笑顔で声をかけてくる。彼女の手には数枚の紙と木の枝があり、今日は“幸福学校”の授業で使う工作の準備をしているらしい。エルフィナは頷いて近づくと、紙を一枚受け取った。
そこには「あなたのしあわせな一日を描いてみよう」と書かれていた。
「すてきなテーマだね」
「うん。でも、最初は“未来の幸福”って題にしてたの。でもみんな、うまく描けなくてね」
エルフィナは小さく息をのんだ。未来の幸福——それは、この世界にとっても、彼女にとっても最も難しい問いだったから。
「いまを感じることが、きっと第一歩だよ」
そう言ってエルフィナは地面にしゃがみ、木の枝で紙の端を押さえながら子どもたちの席を準備する。広場の端にはマリアが立っていて、医療講習を終えたばかりの青年たちに簡単な体操を教えていた。
幸福の定義は、村ごとに変わる。いや、ひとりひとりによって違っていい——それが今の村の信条だった。
そしてその信条は、静かに、しかし確実に世界へと広がり始めていた。
リュカオンを巡る騒動のあと、各地の“神機依存圏”は急速に崩れつつあった。数値管理が形骸化し、神族が人間世界へ直接干渉することも減っていった。
ジャレッドは各地を巡り、幸福値に頼らない新たな自治の形を伝えていた。
「人々に共通する幸福は、案外シンプルだったよ」
そう彼は語った。
「誰かと食事をすること、誰かに感謝を伝えること、そして——誰かを愛すること」
ジャレッドは村に戻るたびに、子どもたちに旅の土産話をしてくれるようになった。
その日も、広場の真ん中で地図を広げ、各地の村や都市の“幸福のかたち”を語っていた。
「砂漠の町では“涼しさ”が幸福だったよ。だから噴水の前にみんなが集まってね、夜には音楽とダンスが始まるんだ」
「森の奥の部族では、毎晩“火の前で静かに座る時間”が幸福なんだって」
子どもたちは目を輝かせてその話を聞いていた。
エルフィナはその様子を見守りながら、ふと考える。
(わたしの、幸福は……)
あの日、リュカオンの演算が停止し、彼女は“記録者”としての役割を手放した。もう誰の幸福も、数値で視ることはできない。だがそれは、かえって彼女の世界を“広く”した。
幸福が視えないからこそ、誰かの言葉を、仕草を、涙を、深く感じることができた。
(たぶん、それが答えなんだ)
世界は変わった。けれど、まだ道半ばだ。幸福を取り戻した村があれば、幸福を失ったままの都市もある。古い神機の残骸から“再演算”の兆候が見つかる場所もあった。
それでもエルフィナは、焦らなかった。
焦らなくてもいいと思えたからだ。
なぜなら、彼女が歩くこの道が、いつか誰かの光になると知っているから。
「エルフィナ、ねえ見て! わたしの描いた“しあわせな一日”!」
小さな女の子が、紙を広げて走ってくる。そこには、エルフィナがパンを焼いてくれる様子、ラティが絵本を読んでいる姿、マリアが手当てをしている場面が並んでいた。
「うわあ……これ、すごく嬉しい」
「ふふーん。ジャレッドのことも描いたよ」
「えっ」
紙の端に、ちょっと不器用に描かれた金髪の男がいた。
エルフィナは思わず笑い出す。ジャレッドが「なんだと?」と照れたように肩をすくめている。
陽が落ちていく。
広場に集まった人々は、それぞれの“幸福の一日”を並べて見せ合っている。
泣いている絵もある。笑っている絵もある。黙って手をつないでいる絵も。
それらはどれも、数値では測れない。
——けれど、確かに“ここにある”。
それで、充分なのだ。
夜風が吹き、空に星がひとつ、またひとつ灯る。
世界はまだ未完成だ。
だけどそれは、悲しいことじゃない。
幸福は完成されるものじゃない。感じ、手渡し、育てていくものだから。
エルフィナは空を見上げる。
幸福とは、いま、この瞬間、誰かと分かち合えること。
そしてその未来は、今ここから始まっている。




