第26話 祝福なき神々へ
夜の帳が降りる頃、エルフィナは村のはずれにある丘の上に立っていた。 草の香りと虫の声が、かすかな風に乗って耳をくすぐる。 その足元には、かつて神機リュカオンの“端末装置”として使われていた黒い石柱が、ひっそりと眠っていた。
だが、今はただの石にすぎない。
……はずだった。
——ザリ、と。
草を踏みしめる音。 振り返ると、そこにはひとりの少女が立っていた。
白いローブ。透き通るような銀髪。無垢な瞳。
「……君は……」
エルフィナは声を失う。 その少女は、夢で見たことがあった。記録水晶の奥に映った“幸福演算の原型”を携えた、最初の記録者。
「エルフィナ。あなたの幸福は、ここで終わるべきではありません」
少女は、ゆっくりと近づいてくる。 その足元に、一歩ごとに幸福値の幻影が現れては消えた。
「数値はもう消えたはず……どうして……」
「それは、“あなた”が決めたことではないから」
少女の言葉に、胸が締めつけられる。
——私は幸福演算を止めた。 ——でもそれは、本当に“私自身”の意思だったのだろうか? ——仲間たちの言葉に背中を押され、神機を止めた“役目”としてそうしたのではなかったか?
「もう一度、あなた自身の心に問うべき時です」
少女が手を差し出すと、石柱が淡く輝き始めた。
「あなたの内側にある“幸福の核”を見せてあげます」
エルフィナは思わず一歩引いた。 だがその瞬間、脳裏にいくつもの映像が流れ込んできた。
——ラティと笑い合った食卓。 ——マリアと語った夜の診療所。 ——子どもたちの「ぎゅーってするの!」の声。 ——ジャレッドと分かち合った、焼きたてパンの匂い。
「全部……私の……記憶……」
「記録された幸福の断片です。数値ではなく、感覚として宿る記録」
——私は、あのとき“選んだ”のではない。 ——“選ばれた”気になっていた。
でも今、ようやく理解できた。
「私が、私の幸福を定義する」
少女が微笑む。 その姿は、少しずつ光に溶けていった。
「それでいいのです。さようなら、エルフィナ。あなたの旅が、終わることのないように」
光が消える。 丘にひとり立ち尽くしたエルフィナは、そっと自分の胸に手を当てた。
そして、静かに呟いた。
「幸福値、視えなくていい。私は……視たい。人の顔を、声を、揺れる心を」
その瞬間、空からふわりと花弁が舞った。
——桜ではない、野の花のような白い花。
どこから来たのかもわからないその一輪を、エルフィナは両手で包み込んだ。
それはまるで、世界が彼女に送った“ささやかな祝福”のようだった。
そして彼女は、歩き出す。 かつて記録者だった少女が、ただ“人として”新しい物語を生きるために。




