第11話 記録に刻まれし心と幸福の灯
その日、私は少し手の込んだタルトを焼いた。
生地には小麦粉と全粒粉を半々に使い、甘さは控えめ。
スパイスとしてシナモンをほんの少しだけ利かせて、煮詰めた赤リンゴと白リンゴを交互に重ねた。
「“思い出のタルト”……きっと、こんな味だったはず」
オルステンの言葉を頼りに、私は一つひとつの材料を選び、焼き上がりの香りに心を寄せた。
あの人の記憶のなかにある、微かな幸福の形。
その片鱗に、少しでも触れられたらと願いながら。
焼き上がったタルトを籠に包み、私は村の外れ、小屋の扉をノックした。
「来たぞ」
低い声が返ってきた。
けれど、その声にはあの日のような棘はなかった。
「お待たせしました。今日は特別な日でしょう?」
「……妹の誕生日だ」
彼は素直に椅子に腰かけ、無言でタルトを受け取った。
皿に載せて差し出すと、フォークを手に取り、ひとくち口に運ぶ。
「……うまいな。記憶に近い。いや、それ以上かもしれない」
幸福値:10 → 12
私は、手帳にそっと記録をつけながら、彼の顔を見つめた。
「妹さんが、笑っていた光景が思い出せるのなら、それは“幸福の記録”です」
「そう……なのか?」
「ええ。あなたが誰かを想って焼いたタルト。それは、あなた自身の“光”でもあります」
彼はしばらく黙っていた。
やがて、椅子の背にもたれて空を見上げた。
「……もう随分、空なんてまともに見てなかった。こんなにも広かったんだな」
「空はいつでも広くて、どこまでも続いていますよ」
「俺の心にも、続きがあると思っていいのか?」
「もちろんです。ゼロだったからこそ、今のあなたの歩みが意味を持つんです」
幸福値:12 → 14
その瞬間、私の胸元で、水晶片が鋭く光を放った。
——明確な反応。私はすぐにそれを手に取り、意識を集中させた。
(……呼んでいる)
遺跡の扉。第一層の奥、さらに深く、封印された場所。
——第二層が、開こうとしている。
「オルステンさん。遺跡へ、一緒に行きませんか」
「……理由は?」
「あなたの幸福が、世界に刻まれたからです。
幸福値ゼロからここまで回復した記録が、この遺跡の意思を動かしている。私はそう確信しています」
彼は立ち上がり、わずかに息を吐いた。
「……案内してくれ」
私は頷いた。
*
遺跡の第一層を越えた先には、さらに深い階段が続いていた。
壁には浮き彫りのような模様とともに、前回と同じ構造の水晶球が一つ浮かんでいる。
私たちが足を踏み入れたとき、水晶が淡く光り、記録再生が始まった。
*
【映像2:第二の記録者・イゼルの記録】
──私は、“幸福の喪失”を記録する者だった。
幸福はただ上昇し続けるものではない。人は必ず、どこかで“失う”。
──私は、失われた幸福をどう記録するべきか悩んだ。
だが、あるとき気づいた。
ゼロになった瞬間こそが、もっとも“純粋な再出発点”であると。
──幸福値ゼロから再び歩き出した者は、誰よりも強い光を宿す。
その歩みは、ただの数字ではない。未来をつなぐ道標となる。
──この記録は、“ゼロから歩き出したあなた”に捧げる。
*
再生が終わると、遺跡の天井に刻まれた文字がひとつ、鮮やかに輝いた。
《幸福回復者:登録番号0158 オルステン・グレイヴ》
《記録完了:第二層解除条件達成》
私は思わず、口元を押さえた。
「オルステンさん……あなたは、この世界に必要とされている」
彼はしばらく何も言わなかった。
けれど、やがて、静かに呟いた。
「……救われるわけじゃない。赦されるわけでもない。
けれど、あの子の笑顔を思い出した今なら、少しだけ……前に進める気がする」
幸福値:14 → 16
第二層は開かれた。
けれど私は知っていた。
これはまだ、始まりにすぎない。
この先には、もっと多くの“幸福の意味”が待ち受けている。
そしてそれは、私自身の過去とも、きっと繋がっていくのだと。




