ムーンライト・セレナーデ (Homage to "Moon" by REBECCA)
この物語は、REBECCAの名曲『MOON』にインスパイアされて生まれました。
思春期特有の焦燥感、親への反発、そして初めての恋。誰もが通り過ぎるであろう、危うくも切ない季節を、歌の世界観を借りて描いてみたいと思いました。
少女が母親の元へと帰るまでの、心の軌跡を追体験していただければ幸いです。あなたの心の中にある「月」は、どんな光を放っていますか。
(1)灰色の町の月
1988年、夏。京浜工業地帯の只中にある汐見町は、昼も夜も製鉄所の高炉から吐き出される煙に覆われ、空はいつも鈍色に霞んでいた。町の空気には、鉄の焼ける匂いと、そこに暮らす人々の汗と活気が混じり合って染みついている。
「美月、見てごらん。お月様だよ」
まだ四つか五つの頃だったろうか。夜勤に向かう前の母、今日子に抱き上げられ、アパートの狭いベランダから見上げた空には、頼りなげな三日月が浮かんでいた。
「あの月まで届けば、何でも願いが叶うんだよ。だから美月も、いい子で待ってるんだよ」
そう言って笑う今日子の横顔は、まだ若く、希望に満ちていた。この灰色の町で、たった一人で娘を育て上げるのだという強い意志が、その瞳の奥で静かに燃えていた。美月にとって、その頃の母は世界のすべてだった。母の言葉は魔法で、母が見上げる月は、いつか自分を幸せな場所へ連れて行ってくれるのだと、疑いもせずに信じていた。
それから十年近くの月日が流れた。十三歳になった美月は、中学二年生になっていた。セーラー服の襟はまだ真新しく、身体に馴染まない。かつて魔法のように聞こえた母の言葉は、今では耳障りな説教にしか聞こえなくなっていた。
「月曜日が嫌いなの」
日曜の夜、食卓で今日子に向かってそう呟いたのは、ほとんど無意識の抵抗だった。学校は息が詰まる。クラスメイトたちの楽しそうな会話の輪にも、流行りの歌謡曲の話にも、どうしても溶け込めない。まるで自分だけが、薄い膜のようなもので世界から隔てられているような感覚。その膜は日増しに厚くなり、美月を孤独の繭へと閉じ込めていく。
「またそんなこと言って。みんな頑張ってるんだから、美月も頑張りなさい」
今日子の声には、疲れと苛立ちが滲んでいた。昼はパート、夜は工場のライン作業。娘を育てるため、今日子は身を粉にして働いていた。その苦労を、美月は頭では理解している。だが、心がそれを受け付けなかった。「みんな」という言葉が、美月をさらに追い詰める。自分は「みんな」とは違う。その単純な事実を、母はどうしてわかってくれないのだろう。
心のすべてを閉ざしてしまった娘は、現実から逃れるように、町の外れにあるゲームセンターに入り浸るようになった。薄暗い照明、鳴り響く電子音、そして紫煙の匂い。そこは、学校や家庭の息苦しさから解放される、唯一の場所だった。そこで知り合ったのが、一つ年上のアケミや、高校を中退したというマコトたちだった。彼らは、美月が抱える漠然とした苛立ちや焦燥感を、まるで自分のことのように理解してくれるように思えた。
「美月も、やってみなよ。スリルあるぜ」
ある夜、マコトがニヤリと笑いながら、コンビニの袋いっぱいに詰まった菓子や雑誌を見せた。万引きだった。最初は躊躇した。いけないことだとわかっている。だが、アケミたちの「根性なし」と囃し立てる声と、マコトの挑発的な視線に、美月は抗えなかった。
初めて盗んだのは、一冊のファッション雑誌と、真っ赤なマニキュアだった。店を出る瞬間、心臓が喉から飛び出しそうだった。路地裏に駆け込み、仲間たちと顔を見合わせて笑う。その高揚感は、麻薬のように甘美だった。罪悪感がないわけではない。だが、それ以上に、退屈な日常に風穴を開けたような、危険なスリルが美月を酔わせた。
その夜、アパートへの帰り道、ふと空を見上げた。工場の煙突の合間に、満月が浮かんでいた。いつもより大きく、そして冷たく、まるで自分の罪を見透かしているかのように、静かに輝いていた。幼い頃、母と見上げた優しい月とは、まるで違う月だった。
美月は十三で、万引きのスリルを覚えた。学校の生徒指導室に呼び出され、母親の今日子が深々と頭を下げる姿を、美月は冷めた目で見つめていた。要注意生徒のリストに、自分の名前が書き加えられた。その事実は、美月にとって不名誉な烙印であると同時に、退屈な世界に対する反抗の証のようにも感じられた。
(2)はじめての恋と母の涙
非行の坂道を転がり落ちていく日々に、転機が訪れたのは、そんなある日のことだった。いつものようにアケミたちとつるんでいた時、些細なことから他校の生徒グループと揉め事になった。数で劣る美月たちは、あっという間に壁際に追い詰められる。恐怖で足がすくんだ、その時だった。
「おい、やめとけよ。女相手にみっともねえ」
低く、けれどよく通る声が響いた。振り返ると、そこに一人の少年が立っていた。少し着崩した学ラン、日に焼けた肌、そして、すべてを諦めたような、どこか寂しげな瞳。相手のグループは、彼を一瞥すると、バツが悪そうに舌打ちをして去っていった。
「…大丈夫か?」
ぶっきらぼうにそう尋ねた彼が、蓮だった。十七歳の高校生だという。この辺りでは少し名の知れた存在らしかった。助けてくれた礼を言うと、蓮は「別に」とだけ短く答え、煙草に火をつけた。その仕草が、ひどく大人びて見えた。
美月は、一瞬で蓮に心を奪われた。初めての、恋だった。
それから、美月は蓮に会うために、学校をさぼるようになった。蓮もまた、授業を抜け出しては、美月をバイクの後ろに乗せて、あてもなく走り回った。潮風が頬を撫で、蓮の背中の温もりが伝わってくる。ヘルメットの中で、美月の世界は色づき始めていた。
蓮はあまり自分のことを話さなかったが、美月の話は黙って聞いてくれた。学校での孤立感、母親との確執、将来への漠然とした不安。誰にも打ち明けられなかった心の澱を、美月は少しずつ蓮に吐き出すようになっていった。蓮は、ただ静かに頷き、時折、「そっか」と相槌を打つだけだった。だが、それが美月には何よりの救いだった。
蓮が貸してくれた、洋楽のヒット曲が詰まったカセットテープ。それをウォークマンで聴きながら歩く夜道は、もう孤独ではなかった。工場の煙突の向こうに見える月も、蓮と一緒にいる時は、優しく自分たちを見守ってくれているように感じられた。
だが、そんな時間は長くは続かなかった。蓮との交際は、すぐに今日子の知るところとなった。学校からの連絡で、美月の素行不良が、年上の少年との交際に起因していると聞かされた今日子は、激昂した。
「あの子とは、もう二度と会うんじゃない!」
ある夜、帰宅した美月を待ち構えていた今日子は、鬼の形相でそう叫んだ。
「どうして! 蓮は、悪い人じゃない!」
「何がわかるって言うの! 男なんて、みんな同じなんだよ! 若い女の子を甘い言葉で騙して、めちゃくちゃにして、捨てるだけなんだから!」
今日子の言葉は、まるで呪いのようだった。それは、今日子自身が過去に経験した痛みに根差しているのかもしれない。だが、今の美月に、それを思いやる余裕はなかった。自分の大切なものを、一番理解してほしいはずの母親に否定されたことが、ただただ悲しかった。
「あなたのためを思って言ってるの!」
「お母さんには、私の気持ちなんてわからない!」
激しい口論の末、美月の頬を、今日子の平手が打った。焼けるような痛み。だが、それ以上に心が痛んだ。見ると、今日子の目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「あなたを…大切に、大事に、育ててきたの…。でも、ダメになっちゃうのは、一瞬なの…。だから、美月。お願いだから、大切に生きて…」
嗚咽交じりの母の言葉が、棘のように美月の心に突き刺さった。母が自分を深く愛していること。その愛情が、不器用な形でしか表せないこと。頭ではわかっている。けれど、素直に「ごめんなさい」と言うことは、どうしてもできなかった。
荷物ひとつ持たず、美月は家を飛び出した。幼い頃の写真が詰まったアルバムも、宝物にしていた小さなオルゴールも、部屋に置いたまま。バッグに詰めたのは、数枚の着替えと、蓮がくれたカセットテープだけ。
夜の町を、あてもなく走る。涙で滲む街灯が、次々と後ろへ流れていく。もう、あの家には戻れない。戻りたくない。美月の心には、蓮に会いたいという想いだけが、確かな光として灯っていた。
(3)月だけが見ていた夜
「…マジかよ」
深夜、蓮のアパートのドアを叩いた美月を見て、彼は驚きながらも、静かに招き入れた。六畳一間の、男の一人暮らしの部屋。読みかけの漫画雑誌が散らかり、インスタント食品の容器が隅に積まれている。けれど、その雑然とした空間が、今の美月には唯一の安息の場所のように思えた。
蓮は何も聞かず、ただ「腹減ってんだろ」と言って、インスタントラーメンを作ってくれた。湯気の向こうで、ぶっきらぼうにテレビを見ている蓮の横顔を、美月はじっと見つめていた。
二人だけの生活は、刹那的で甘美だった。まるで、映画のワンシーンのようだと美月は思った。学校にも行かず、親の干渉もない。ただ、好きな人と一緒にいられる。それがすべてだった。
しかし、その危うい均衡は、長くは続かなかった。蓮のアパートには、彼の仲間たちが頻繁に出入りした。彼らは美月を「蓮の女」として扱いながらも、その視線には好奇と侮蔑が混じり合っていた。彼らの交わす隠語や、大人びた会話に、美月はついていけなかった。蓮の隣にいながら、美月は再び孤独を感じ始めていた。
ある夜、仲間たちが帰った後、アパートの屋上で二人きりになった。金網のフェンスに寄りかかり、眼下に広がる工場の夜景を眺める。煌めく光の海は、まるで宝石箱をひっくり返したように美しい。だが、それは手の届かない、自分とは無関係の世界の光だった。
「…どうした?」
美月の不安を見透かしたように、蓮がそっと肩を抱いた。美月は何も答えられない。ただ、蓮の胸に顔をうずめた。
「大丈夫だよ」
蓮の声は、いつもより優しかった。そして、そっと顔を上げた美月の唇に、自分の唇を重ねた。それは、煙草の匂いが混じった、少し苦くて、でもどうしようもなく甘い、初めてのキスだった。
空には、すべてを見通すような満月が浮かんでいた。まるで、美月の心の奥底まで、この初めてのキスの瞬間も、何もかも見透かしているかのようだった。幸せの絶頂にいるはずなのに、その静かな光に照らされて、美月の胸には一筋の冷たい風が吹き抜けていた。
この幸せは、長くは続かない。蓮の優しさに甘えれば甘えるほど、心の奥底にある孤独の穴は、むしろ広がっていくような気がした。そして、その穴の向こうに、涙を流していた母親の顔が浮かんでくる。
一人になった部屋で、窓から差し込む月光を浴びながら、美月は自問自答を繰り返した。自分はどこへ向かっているのだろう。本当に欲しかったものは、この刹那的な自由に身を委ねることだったのだろうか。
幼い頃、母と見上げた希望の月。万引きをした夜に見た、冷たい審判者のような月。そして今、蓮とキスをした夜に見ている、すべてを知っているかのような月。月はいつも、ただ静かに、何も言わずに自分を見つめているだけだった。だが、その沈黙の光は、まるで美月の過去も、今の戸惑いも、何もかも知っているかのように、彼女の心の奥底を容赦なく照らし出していく。逃げてきたもの。目を背けてきたもの。本当に向き合わなければならないもの。
(4)夜明けのテレフォンコール
夜が明け、工場の煙突の向こうの空が白み始めた頃、美月は静かにベッドを抜け出した。すやすやと眠っている蓮の寝顔を見つめる。その頬にそっと触れ、そして、テーブルの上に短い置き手紙を残した。
『ありがとう。でも、行かなくちゃ』
アパートのドアを静かに閉め、階段を降りる。朝の冷たい空気が、火照った頬に心地よかった。それは、単に家に帰るという決意ではなかった。逃げるのではなく、自分の足で、もう一度歩き出すための決意だった。
ふと、おぼつかない足取りで、それでも懸命に母の手を求めて一歩を踏み出した、幼い日の記憶が蘇る。今、もう一度、あの時のように、自分の足で歩き出さなければならない。
町の片隅にある、古びた電話ボックス。美月は吸い寄せられるように、その中へ入った。震える指で、ポケットから10円玉を取り出す。そして、記憶の底から手繰り寄せるように、家の電話番号のボタンを押した。
長い、長いコール音。出るな、と願う気持ちと、出てほしい、と願う気持ちが、胸の中で激しくせめぎ合う。心臓が、耳元で鳴っているかのようにうるさい。
三回目のコールで、受話器が持ち上げられた。
「……もしもし」
聞こえてきたのは、夜勤明けでひどく疲れているであろう、しかし、紛れもない母の声だった。
その声を聞いた瞬間、堰を切ったように、美月の目から涙が溢れ出した。何かを言わなければ。ごめんなさい、と。心配かけてごめん、と。でも、喉が詰まって、言葉にならない。嗚咽が漏れるだけだった。
受話器の向こうで、今日子が息をのむ気配がした。何も言わない電話の相手が、誰なのかを悟ったのだろう。
「…美月…?」
かすれた、問いかけるような母の声。その声に、どれだけの心配と、後悔と、そして愛情が詰まっているかを、美月は痛いほど感じていた。
「おかあ…さん…」
何かを言いかける前に、ガチャン、と無情な音がして、10円玉が吸い込まれていった。電話が切れた。
美月は、しばらく受話器を握りしめたまま、動けなかった。やがて、ゆっくりと電話ボックスを出る。
目の前には、朝日に照らされた、見慣れた灰色の町の風景が広がっていた。工場の煙突から立ち上る煙が、朝日に溶けていく。
美月は、手の甲で乱暴に涙を拭った。そして、ゆっくりと、しかし、確かな一歩を、自宅へと続く道へ踏み出した。
その姿を、夜の闇へと消えていく直前の、白々とした月が、静かに見守っていた。まるで、長い夜の終わりと、新しい朝の始まりを、祝福するように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
大人になる過程で誰もが経験するであろう、万能感と無力感。そして、最も身近な存在である親との衝突と和解。
美月のささやかな成長譚を通して、そんな普遍的なテーマを描けていればと願います。彼女の心の変遷を、ただ静かに月が見守っていたように、この物語があなたの心に寄り添う一片の月光となれたなら、これ以上の喜びはありません。
なお、本作の執筆にあたっては、著作権の取り扱いに最新の注意を払っており、歌詞の直接的な引用は控え、その世界観を尊重し、物語の要素として取り入れさせていただきました。