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第4話 喫茶店のバイト

 初めて入った喫茶店で、美人なマスターからコーヒーとチーズケーキをご馳走になったその翌日、再びこの喫茶店に訪れて履歴書を渡した。すると、十分もかからないうちに採用が決まった。採用が決まったこの瞬間から一週間後、俺は正式にこの喫茶店でバイトを始めることとなる。

 喫茶店の名前は漫集喫茶。ちょっと変わった名前だが、コーヒー、紅茶、軽食を専門に出す、純粋な喫茶店だ。アルコール類は出さないので、酔っ払いに絡まれる心配は恐らくないだろう。

 そして、大人びた魅力に溢れるこの美人なマスターは、三島紫帆(みしましほ)さん、というらしい。らしいと言ってるのは、確か最初の自己紹介でそんな風に言ってたと思うからだ。まあ、正直なところ、緊張していたせいか、聞き間違ったのではと、いろいろ不安になってしまい、ちゃんと聞き取れていたかどうか確信が持てない。でも確か、そう言ってたと思う。

 まあ、そんなこんなで、漫集喫茶でのバイトを始めてから数日が経過した。

「今日も一緒に頑張りましょうね、高峰先生」

「先生はやめてくださいよ。今日も精一杯、頑張ります……」

 紫帆さんが優しく微笑みながら、俺のことを先生と呼ぶ。なぜ紫帆さんが俺のことを先生と呼んでるかというと、面接の際にデビューしたばかりの漫画家であることを打ち明けたからだ。

 正直、漫画家だと打ち明けることにはためらいがあった。デビューしてから二ヶ月ほどしか経っておらず、新人賞で佳作を取った短編以外、世に出ていない。それに、デビューしてから漫画どころかネームさえろくに描けてない状況なのだから、これで漫画家だと名乗るには抵抗があるのは当然である。だがしかし、紫帆さんのあまりに優しそうなあのきれいな顔で、丁寧に仕事について説明されると、どうしても嘘をつけなかった。

 以上の理由で自分の今の状況をすべて打ち明けても、彼女は色眼鏡で見ることは決してしない。正確には、そんな様子は一切見せることなく、丁寧にそして優しく俺に接してくれている。そんな彼女の態度を見ていると、自分のあまりの不甲斐なさが本当に嫌になる。

 でも、それも仕方がないことだ。だって、俺は漫画を描くこと以外、特に何もやってこなかったのだから。その漫画でさえ、短編数作ぐらいしか描いていないので、こっちのほうも半端であることは変わりない。だからこそ、このバイトから経験を積んで、それを次の漫画のために活かさなければならない。なので、しっかり働いて学ばせてもらおう。

 というような意気込みを頭の中で思い浮かべながら、今日も開店一時間前の朝十時に漫集喫茶にたどり着くよう出勤した。

 漫集喫茶の中に入ると、まずは紫帆さんに挨拶をする。今日の連絡事項を聞いたあと、着替えを済ませ、早速店内の清掃を開始した。三十分と決められた時間で清掃を終えると、開店までの残り三十分でメニューの内容を覚えることや、接客、配膳、トレーの持ち方などの練習をおこなった。

 こうやって簡単に言葉にしてるものの、実際この一時間にこれだけのことをやるのはあまりに大変だ。やっぱ、舐めてたかもしれない。喫茶店というと、チェーン店とか人気店以外はあまり人が来ないから接客も楽だろうと、そんな軽い気持ちで考えてたところは正直ある。だが実際こうしてやってると、開店前の仕事がいかに大変かがよくわかる。掃除の汚れが少しでも残っていると、紫帆さんは微笑んだ顔を崩さないまま容赦なく指摘する。俺は当然紫帆さんの指示に従い、し忘れた場所を丁寧に掃除していく。しかも、時間は三十分と決まってるため、丁寧にやりつつも急がなければならない。そして、終わったあとも、メニューの暗記や接客の練習が待っている。急いで掃除をしてとても疲れた状態での練習なんて、正直なところ覚えられそうな気がしない。

 こうして開店前の仕事や練習を終えると、当然店を開けるわけだが、こんな慌ただしい一時間で、心身ともにへとへと。この状態で閉店まで無事仕事ができるのか、そんな不安という気持ちさえ薄れた疑問が頭をよぎる。しかし、こんな状態の俺に容赦なく、店のドアが開いてしまった。

 開店すると、早速客が入ってきた。そして、十分もしないうちに、店内は客でいっぱいになる。

 俺は店内を見渡す。服装は人それぞれだが、客のほとんどは男性客。もちろん女性客や学生も来たりするが、この漫集喫茶の利用客は中高年から老人まで、男性客がメインである。そして、必ず先にカウンターのほうから席が埋まっていく。どう見ても紫帆さん目当てで来てるようにしか思えない。

 コーヒーや紅茶、その他のメニューが出来上がると、カウンター席を除き、配膳は俺が担当する。客に注文されたメニューを持っていくとしばしば、「紫帆ちゃん、新しくバイト雇ったの?」って言われてしまう。

 紫帆さんや他の客との会話から知ったことだが、前働いてたバイトはどうも女の子だったようだ。決して言葉には出さないものの、どうも俺が接客に来ると、どの男性客も半ばがっかりしたように映ってしまう。まあ、それはそうだろう。だって、俺が男だから。こんな根暗な男よりは、可愛くてきれいな女の子のほうがいいに決まってる。

 あと、テーブル席の客の中には、メニューが出来上がったタイミングでカウンターのほうまで出向き、出来上がったコーヒーなどを紫帆さんから直接受け取ったりすることもある。紫帆さんがまだバイトを雇っていなかった頃、または一人のときは、常連客全員が同じようにしてくれたと、あとで紫帆さんに聞かされた。

 確かに紫帆さんが一人だけで接客までやるとなると、これだけの客の数、かなりの仕事量になってしまう。接客の手間だけでも省こうと、常連客全員がこのように動いてくれるのは、傍から聞いてればとてもいいことだと思えるはずだ。

 だが実際は、紫帆さんとできるだけ多く触れ合いたいというのが本音だろう。こうして見てると、行ったことはないものの、キャバクラやホステスのいるクラブなどと同じ類いのもののように思えてしまう。まあ、より正確に言えばガールズバーに近い感じなのだろうが、どの男性客も変わらず女好きだということには変わりない。かく言うこの俺も、もちろん女好きだ。もしかしてこの漫集喫茶は、俺のような非モテな男たちの溜まり場のようになってるのかもしれない。

 こうして開店時間の際の仕事のほとんどは接客とメニューの配膳がほとんどなのだが、メニューを客のところまで持ってくるたびに、とても神経を使ってしまう。

 なぜこれほどまでに配膳程度の仕事で神経を使ってしまうのか、その理由を答えると、俺が元々というか今でもとても不器用でドジな男だからである。回数は決して多くないものの、家での家事の際、皿や花瓶などを割ることがあるため、よく母さんには叱られてた。また大学時代にコンビニや清掃のバイトをしてたときも、態度が悪いなど掃除がなってないなど、客や店長、バイト先の先輩やおじさんおばさん問わず、まあいろいろと厳しく言われた。

 まあこのご時世なのでハラスメントと訴えることもできたかもしれないが、でもあとあとよく思い返してみても、ハラスメントにあたらないギリギリの範囲で言ってるように思えるので、もし訴えたとしてもやはりハラスメントにはあたらないと判断されるだろう。それもあったせいで、俺は社会人にはなれないなと思ってしまい、それが漫画家を志した一つの理由にもなったわけである。まあ元々漫画が好きだったのも漫画家になりたい理由ではあったが、今考えるとある種の逃避が漫画家を志した主な理由だったかもしれない。

 こうして過去の嫌な記憶を思い出してると、今紫帆さんの下で働いてることがとても幸福だと感じる。そう思えてくると、なんだか先ほどのぐっと来る疲れも段々と緩和されていくように感じた。これを実感すれば実感する(ごと)に、紫帆さんが本物の女神のように思えてしまう。ああ、やはりここは、みんなにとってのオアシスなのだ。ああ、女神様〜!

 この女神様のご利益もあったのか、配膳したメニューを客にぶちまけるようなドジをすることもなく、次々と仕事をこなしていく。喫茶店にしては珍しく同じ客が次から次へとメニューを注文するため、売り上げも絶好調。こうして気づけば、もう午後二時を回っていた。

 昼の二時前後はいわゆるアイドルタイムという奴で、客も少なくなってくる時間帯。それはこの漫集喫茶も例外ではなく、気づけば客の数は数人となっていた。

「高峰くん、休憩に入っていいよ」

「あっはい。え〜と、今から休憩に入ります」

 そして、俺はすぐさまスタッフルームに入った。パイプ椅子に座ると、簡易式のテーブルの上にサンドイッチと淹れたてのコーヒーが置かれていた。休憩のたびに思うが、こんな新人のために淹れたてのコーヒーまで用意してくれるのはとても嬉しい気持ちになる。

「いただきます」

 ボソッと言葉を吐き出すと、俺はサンドイッチの角を少し齧った。うん、美味い。当然ではあるが、コンビニのなんかより、断然こっちのほうが美味い。俺は本来どちらかというと食べるのが早いほうではあるのだが、紫帆さんが作ってくれたものに関しては、すぐ食わないようにじっくりと味わっていく。噛めば噛むほど口の中に味が広がっていき、疲れがどんどん癒やされていく。こうして思うと、今までほんとに美味しいものを食べてこなかったのだと改めて実感した。

 サンドイッチを食べ終わると、次はコーヒーだ。コーヒーを一口啜る。うん、アメリカンだ。苦味が強いのがあんまり得意ではない俺にとって、本当にちょうどいい味となっている。飲めば飲むほど、心がほっこりしていく。まさに至福の時だ。

 こうして貴重な三十分の休憩時間がそろそろ終わりが近づいてきたその頃、ドアが少し開いていたせいなのか、紫帆さんが客と会話してるのが耳に入ってきた。

「紫帆ちゃんさあ、お祖父ちゃんがやってたときのように、なんで漫画喫茶にしなかったの?」

「……うん、そうですね、やっぱ紙の漫画置くのは劣化とかで管理が大変ですし、今はみんなほとんど電子で読んでますから」

「そっか、でも漫画喫茶ってなんだかんだ結構見かけるからさあ、昔のように続けてほしかったんだよね。お祖父ちゃんがいたあの頃は、ほんとに楽しかったから」

「……そうですね」

「いやいや、ごめんね。余計なこと言っちゃって」

「構いませんよ。そう言ってもらえると、亡くなった祖父も喜ぶと思います」

 小さい声でしか聞こえなかったものの、不思議とすべて聞き取ることができた。声からして年寄りの男性客と話してるようだ。そして紫帆さん、なんだか声に元気がないように感じる。

 俺はこのとき初めて、この漫集喫茶が元々漫画喫茶であったことを知った。会話の内容から正確には紫帆さんのお祖父さんが亡くなる前までということだが、こうしてみると、漫画家としてデビューしたばかりの新人がこの喫茶店で働くことには、なんらかの運命染みたものを感じてしまう。

 確かにこの爺さんが言うように、ここが漫喫であれば、もっと楽しい空間だったろうと想像してしまう。しかし、紫帆さんが元々漫喫だと教えてくれなかったこと、そして先程の会話から察するに、またなんらかの事情があるように感じた。紫帆さんも幾分元気がなさそうだし、このことについては触れないようにしよう。

 俺は立ち上がると、ドアを開け、休憩を

終えた。


 こうして再び仕事に戻ると、また客が増えて接客に大忙し。それをなんとかこなしていくうちに、閉店五分前となった。

「じゃあね、紫帆ちゃん。また来るよ!」と男性客が次々と去っていく。その様子に紫帆さんは優しく微笑んでいた。

 俺はというと、終わりが見えたのかどっと疲れが出てきて、完全にふらふらな状態。それとは反対に、紫帆さんは変わらず優しく微笑んだ表情を見せている。

 紫帆さんはほとんど休憩を取らず、厨房周りどころかレジのほうの仕事もこなしていた。その反面、俺はというと注文を聞いたり、テーブル客に配膳するぐらいしかやってこなかった。しかも、休憩時間も与えられたのにもかかわらず、この差。俺は改めて自分がいかにヘタレか思い知らされた。

「もうお客さんもいなくなったね。高峰くん、今日もお疲れ様。じゃあ、そろそろ閉めようか。お腹空いたでしょ? なんか作るね」

 紫帆さんが(まかな)いを作ってくれる。そう思うと、なんだか疲れも一気になくなったように感じる。どんな賄いを作ってもらえるのだろう?

 俺が紫帆さんに賄いを作ってもらえることに想像を膨らませていると、突然ドアが開いた。俺は瞬時にドアのほうへ振り向いた。

 すると、ドアの前には黒のロングヘアーの女性が立っていた。眼鏡をかけており、全体としてとてもクールな雰囲気が漂っている。そして、美人だ。

 俺は見惚れていたが、何か引っ掛かるものがある。なんだかこの雰囲気知ってるような……俺は目を細めて相手の顔をよく見た。

 よく見ると、それは俺の知ってる顔だった。瀬川さんだ。瀬川さん、なんでここに来るんだ? いや来るのは当然か。誰でも喫茶店に来る可能性はあるわけなのだから。でも、よりによって、なんで俺のバイト先に来るの!

 そんなこと思ってるうちに、瀬川さんが急に目を細めた。眼鏡を手にかけながら、こっちをじっと見てる。すげえ睨まれてるような。なんかむっちゃ怖い。しかも、こっちに近づいてくる。

「……うん? あれ、もしかして、高峰先生?」

「……あっ、はい……」

 あ〜、見つかっちゃったよ! もう逃げられねえ。バイトしてるのは生きるために仕方ないことだけど、ネーム描けてない言い訳どうしよう? あまりにもネーム描いてこないものだから、怒ってるだろうな。しかも、甘いもの地獄のせいで、あの甘いという怖さがどんどん押し寄せてしまう。さあ、どうしよう?

「高峰くん、お客さん来たの? もう営業時間過ぎたけど、まあせっかく来てもらったわけだし、このお客さん最後になんかお出ししましょ。お客さん、注文何になさいますか?」

 先程まで背を向けていた紫帆さんが、カウンターのほうまで歩いてきた。そして、瀬川さんと顔を合わせる。

「じゃあ、ご好意に甘えて。なんか美味しいもの作ってくれない、紫帆」

「あれ? 透花(とうか)じゃない。久しぶり」

 そう言うと、紫帆さんは微笑んだ。これに応えるかのように、瀬川さんも優しく微笑む。美女二人が向かい合って微笑む光景はまさに美しい……って、待て待て。えっ⁉︎ 紫帆さんと瀬川さんって知り合いなの? どういう関係なんだろう?

 俺が二人の関係について、いろいろ想像を膨らませていたところ、気づけば、二人の視線は俺のほうへと向いていた。


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