第2話 異性を知るその1(担当編集)
漫画を描くために身近で簡単なことから少しずつ冒険していこうと決断してからその翌日、まず何からスタートしようか考えていた。
冒険に出ようなんて大げさに自分に言い聞かせはしたけど、つまりネタ探しのためにいろいろ経験してみようということだ。自分は今まで描くこと以外、特に何もやってこなかったのだから、まあ遅い社会科見学ぐらいに考えたらいいだろう。でも、まずは何をやろうか。
俺がいろいろ考えていると、突然スマホに着信の音が鳴る。
「もしもし」
「あっ、高峰先生、おはようございます」
女の人の声。担当編集の瀬川さんだ。
「瀬川さん、おはようございます」
「高峰先生、あの一週間前ぐらいにもご連絡させてもらいましたが、あれからネーム少しは描けました?」
俺は描けてない現実に、ガクンと気分が落ち込む。
「いや、その〜……ってか、まだ全然描けてなくて……」
ややしどろもどろになりながら答えると、少しの間沈黙になる。はあ〜、いきなり現実突きつけてきて、プレッシャー与えないでくれよ、瀬川さん。ようやくやる気が出てきたんだから! 沈黙が破られるまでの間、ため息をつくのをなんとかこらえた。
「そうですか。じゃあ、高峰先生、久しぶりにこちらに来られませんか? 直接会ってお話ししてたら、何かアイデアが浮かんでくるかもしれないので」
「ああ、はい、そうですね。わかりました。今からそっちに行きます。え〜っと……大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。では、お待ちしております」
電話がきれると、すぐ着替えて家を出た。
出版社に行くのは三週間ぶりだ。一等地の大きな会社の外観を目の前にすると、自分が暮らしてる同じ東京だとはまったく思えない。中に入って受付に行き、部署名と編集者の名前を書いて入館証を発行してもらうと、少し迷いながら目的の場所へと向かう。
エレベーターで目的の階に上がると、担当の編集部へとたどり着く。そして、近くにいる社員に声をかけると、瀬川さんを呼ぶので会議室で待つように言われた。そして、あまり広くない会議室に案内されると、ドアが閉まり俺はひとり瀬川さんが来るのを待った。
瀬川さんを待ってる時間が過ぎれば過ぎるほど、毎秒感覚で会議室がどんどん狭くなっていくように感じる。自分は漫画家なのだから、出版社に来るのは至極当然のことだと思うのだが、正直に言うと敵地にいるような気分だ。出版社やこの会議室にも入ったことは何度かあるが、どうしても慣れない。今現在待ってる時間は十分も経っていないと思うけど、これがやたらと長く感じる。そして、毎度のことながら、自分がいかに小心者かどうか自覚してしまうのだ。
「高峰先生、お待たせしました。先生、こちらにお座りください」
「あっ、はい」
やっと打ち合わせが始まる。といっても、ネームどころか構想もまったく浮かんでこなかったため、あんまし期待できない。前回と同じように、長机のところに向かい、椅子に腰掛けた。
「先生、お茶どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
小振りの茶碗に入った熱い緑茶を啜っていると、瀬川さんも椅子に座り、長机を隔てた形でお互い向き合う形となる。机の幅が狭いため、なんか距離が近く感じる。それと、さっきまであまり瀬川さんのほうを向いて話していなかったが、こうしてお互い向き合う形で打ち合わせが始まれば、視線を逸らしてしまうと不自然になるので、どうしても瀬川さんの姿が目に入ってしまう。
瀬川さん、え〜と、下の名前なんだったけ? 黒髪の長髪で眼鏡をかけてて、知的さもありながらクールな雰囲気が漂っている。喋り方もわざとらしくないクールさがあって、いかにも仕事ができそうって感じの女性だ。歳も俺とそんな変わんないぐらいの感じ。普段眼鏡をかけているせいか地味な印象を受けるが、こうして見ると瀬川さんが実はかなり美人だということがよくわかる。
瀬川さんが美人だということを意識してしまったせいか、俺は思わず瀬川さんの顔から目を逸らしてしまう。しかし、視線を別の場所に移すと、瀬川さんの胸元が目に入ってしまった。
それはまさに芸術だった。胸元のシルエットがまさに美しい。ほとんど隠れているのだが、それでもこれだけはっきりシルエットが見て取れるということは、当然バストのサイズも……。
「高峰先生、ちゃんと話聞いてます?」
「ん? あっ、はい!」
瀬川さんのあまりに素敵な胸元に意識が向いてしまい、打ち合わせ中だということをすっかり忘れていた。瀬川さんの声が突然耳に入ってきたので、驚いた勢いで椅子を揺らしてしまい、ガタンと音を立ててしまう。
瀬川さんは音を立ててしまった俺に、鋭い視線を向ける。そんな瀬川さんと目が合ってしまい、俺は思わず目線を下に逸らした。すると、自分の股間が見事に盛り上がってるのが確認できた。
「どうされました?」
「いえ、別に……何も!」
ヤバい! 瀬川さん、疑ってるようにこっち見てる。こんなにも大きく盛り上がった股間、瀬川さんに見られでもしたら、完全にヘンタイだと思われる。いや、実際谷間ガン見してたわけだから、ヘンタイって言われても間違ってはいない。でも、バレてないよな? いや、バレてるのか? もし見てたのバレてて、それに続いてこのもっこりまで見られたら、流石にもう……。
「では、まだアイデアが浮かんでこないと?」
ふぅ〜、良かった。どうやら気づかれていないようだ。もしバレてたら、瀬川さん、超怖そうだもんな。普段静かな人ほど怒らせると怖いと聞くし、まあ実際傍から見てて近寄りがたそうだもんな。まあ、バレなかったわけだから、話にちゃんと集中しよう。
「そうなんですよ。アイデア考えるために、街中歩いてみたり、図書館行って調べ物したり、いろいろやってみたのですが……」
本当のこと言うと、そこまでちゃんとやっていなかった。ただ机に座って、無意味に時間を過ごしていただけで、実質的にまったく行動できていない。
「そうですか」
俺のことをすべて見透かしているように、瀬川さんがこっちを見てくる。まるで軽蔑してるかのように。瀬川さん、お願いだから、そんな目で俺を見るのはやめて……。
「わかりました。これ以上お話ししてても、アイデア浮かんできそうにないでしょうから、また後日、日を改めて話し合いましょ。その頃には、何かいいアイデア思いつくかもしれないですし」
瀬川さんはこのように言うが、果たして俺はいいアイデアを思いつけるのだろうか? もし、またアイデアが出てこないと言ったら、そのとき瀬川さんはどんな顔をするのだろうか? いろいろ想像してると、なんだか胸のあたりが痛くなってきた。
「……ふぅ〜、そうですね、わかりました。なんかアイデアが浮かんできたら、今度はこちらから連絡します」
なんとか瀬川さんから連絡がこないように、俺から連絡する意思を伝えることができた。アイデアが出てないときに連絡がくるほどプレッシャーのあるものはないからな。俺はそう思いながら立ち上がると、たまたま壁に貼ってあるポスターに目が入った。可愛い女の子が描かれている。ぱっと見、どうやらラブコメみたいだ。
「あの、あれ〜……」
「ああ、少し前に連載が始まった◯◯って恋愛ものなんですけど、今度新刊が発売されるんです。連載の一話目から好評で、わたしも全話読んでますけど、高峰先生も読まれてます?」
「あ、いや、いいえ」
ラブコメ、恋愛もの。そういえば、こういったジャンル、ほとんど描いてこなかったな。まあそもそも、恋愛経験皆無なこの俺に、恋愛ものやラブコメが描けるわけがない。だがここ最近、ラブコメの人気はやたら高い。いや、それより以前から、もっと長い間このジャンルの人気が高いわけで、どのジャンルにも言えることだが、恋愛シーンは最もストーリーとして盛り上がる要素の一つだったりする。
恋愛もの、ラブコメを描く。嫌だなあ。別にラブコメが嫌いというわけじゃないんだけど、なんかさあ、むかつくじゃない。若い男女がイチャイチャしてる様子想像すると。だからこそ、どうしても描くのを避けてしまう。
しかし、もし恋愛描写が描けないのであれば、特に週刊誌月刊誌で連載してるような商業漫画家としては、かなり致命的だと思う。確かに恋愛要素皆無の漫画を描いてる漫画家もいるが、それで売れてる人はかなり少数で、だいたいのヒット漫画には恋愛描写はつきものだ。やはり漫画家として売れるためには、恋愛の入ったストーリーは避けられない。描けるようにしないと。
ああ、そうだ。描けるようになるには、まず恋愛とはどういうものなのか、俺が知る必要がある。だがその前に、恋愛まで発展する……いやいや、そんなことより、まずは異性を知るところから始めよう。取り敢えず異性と交流を深めれば、何かいいアイデアが浮かんでくるかもしれない……。
でも、ここからが問題だ。まずはその異性を探さないことには、何も始まらない。年齢がそのまま彼女いない歴の俺では、探すのがかなり大変そうだ。でも、いつか必ずやらないといけない。早ければ早いほうがいいだろう。でも、どうしたらいい? そうだ。こんなときだからこそ、身近なところから探すのがいいはず。では、一体誰を?
「……何か?」
いた! なんかいきなりハードル高そうだけど、まともに接点があるのは瀬川さんぐらいしかいない。あまりにクールすぎて、感情や表情に乏しい気がするけれど、あ、いや、他にいないのだから、彼女で決まりだ。
「あの瀬川さん、ポスター見て思ったんですけど、あのぼく、恥ずかしながら、恋愛経験どころか、あんまり異性と話したことがないんですよ。そこで……あれなんですけど……瀬川さん、ぼくと……ぼくとデートしてもらえませんか。あっいえいえ! デートするふりをしてもらえればいいんです。あの……そしたら、なんか恋愛ものとか描けそうな気がして……」
ああ、言ってしまった。どうせ漫画を描くという口実に、誘ってるだけなんだろうと思われてるんだろうな、きっと。ああ、なんでこんなこと言ってしまったんだろう。これで完全に軽蔑されたな。
「いいですよ」
えっ! OKでちゃった? うっそ〜、マジか。
「えっ? いいんですか?」
「いいですよ。それで何か描けそうなら」
こうもあっさり承諾してもらえるとは思わなかった。かなり意外ではあるものの、これは大きな前進だ。瀬川さんとデートか。正確にはデートのふりなんだけど、どこに行けばいいのだろう?
「えっ、じゃあどうしますか? あの、どこか行きたいとこありますか?」
「特に何も? 街中ぶらぶら歩けばいいんじゃないですか。適当にお店にでも入ったりしながら」
瀬川さんは特に考える様子も見せずに即答した。確かに、変にデートスポット行くよりはいいのかもしれない。
「それじゃあ、いつにしますか? 予定空いてる日がいいと思うんですけど」
「今から行きましょ。ちょうど今日、高峰先生のために時間空けておいたので、無駄にできませんから。取材ってことにしておくので、では早く行きましょうか」
「わかりました」
瀬川さんは他の社員に出かけることを伝えると、俺とふたりで会社をあとにした。
俺は今、瀬川さんと一緒に街を歩いている。ちょうど天気も良くて、デートをするにはうってつけの日だ。だがしかし、今まで異性と隣り合って歩くことがなかったので、個人的には奇妙な感覚というか、慣れない感覚というか、むず痒く感じるというか、まあそんな気分になっていた。
俺は基本的に前を向いて歩いているが、十秒に一回程度、ほんのチラッとだけ瀬川さんの様子を確認する。瀬川さんの横顔は相変わらずクールだ。あまりにクールすぎて、ほんと話しかけづらい。
でも、何か話さないと、せっかくのデートが台無しだ。いや、正確にはデートのふりなのだが、何を話せばいいのか、本当に頭に浮かんでこない。東京の地理には疎いし、瀬川さんがあまりに何考えてるのかわからないので、正直かなり困惑していた。
「瀬川さん、会社を出てから三十分ぐらいずっと歩いているわけですけど、そろそろどこかお店入りませんか? どこか行きたいとことかあれば言ってください。すぐ調べますから……」
「う〜ん、まあ適当にぶらぶら歩いていたらいいんじゃないですか。そのうち入りたいお店も見つかるでしょうし」
そのうち入りたいお店が見つかるでしょうし、って……いや、この調子だと、お店一つも入らずに終わりそう……ってかさあ、これほんとデートになってんの? まあ、これは正確にはデートのふりなんだけど、せっかく恋愛描写を描くための参考としてこういったことやってんだから、デート気分ちゃんと味合わないと意味ないでしょ。本当は誘った俺のほうからリードしなきゃだけど、恋愛経験のない童貞なんだから、少しぐらい力になってくれよ。瀬川さん!
瀬川さんの服装はジャケットとスカートという、普通の私服と比べるとややフォーマルな感じのものを着ている。その反対に俺はというと、ジーンズと長袖のTシャツという完璧な私服という状態。街中を歩いていると、手を繋いでいるカップルを結構見かけるが、傍から見たら俺たちはかなり浮いた存在に見えるだろう。
そうだ! ファッションだ。どこか服の店に入ってみるのもいいかもしれない。
「瀬川さん、あの服とかって興味ありますか? 何か買いたいものがあれば一緒に……」
「服余ってるんで大丈夫ですよ。それに、わたしあまりファッションに興味ないんで。あと、さっき一緒にっておっしゃいましたけど、まさか下着売り場に一緒にってわけではないでしょうね?」
「いえいえ! それはないです……」
やば! 誤解を受けそうな発言だったな、今の。ついファッションが浮かんだので訊いてみたけど、よくよく考えたら、そう取れなくもないもんなあ。ふぅ〜、それにしても、あんときの一瞬、瀬川さん超怖かったなあ。まあ、でも誤解だとわかってくれて良かった……ってか、瀬川さんさあ、俺の漫画描くための手伝いしてくれるんじゃないの? これじゃ全然デートっぽくないし、そもそも全然協力的じゃないよな。どういうことなの? 瀬川さん!
「……瀬川さん?」
瀬川さんが急に立ち止まった。瀬川さんが一瞬鋭い目になったことに、俺はビクッとする。どうやら何かに目が留まった模様。そして、瀬川さんは俺のほうに顔を向けた。
「ここに入りませんか?」
「えっ?」
瀬川さんに連れられてなんの店かわからずお店に入ると、若い女性客がたくさんいる。そして、客の目の前には、多種多様なスイーツが並んでいた。
「瀬川さん、甘いものが好きなんですか?」
席に座ると瀬川さんに訊ねた。しかし、瀬川さんは俺の言葉を完全にスルー。これに俺は仕方ないと思いながら、目の前にあるメニュー表を見る。
「あの、すみません。いつものお願いします。あの、二つね」
もう決めたのか……って、二つってさあ、それ俺の分も? おいおい、勝手に注文すんなよ! 俺、自分が食いたいのは自分で決めたかったのに。ってかさっき、いつものって言ったよな。つまり、ここの常連ってわけなのか? いやいや、そんなことより、金大丈夫か? 正直なところ言うと、今、全然金ないんだよな。
「瀬川さん、あの実は、今お金あんまりないんですが……」
「大丈夫ですよ。わたしの奢りなので」
奢ってくれるのか、それはありがたいが、なんかこうして奢られると、どうしてもプライドが……。
「高峰先生って、もうお昼食べられました?」
「いや、いいえ」
「ならちょうど良かった。もうお昼時少し過ぎちゃいましたし、お昼の代わりって言ったらあれですが、わたしよくここのを食べてるので、高峰先生も良かったらと思って」
「そうですか。どうもありがとうございます」
普段クールで何を考えてるのかよくわからない瀬川さんだが、瀬川さんなりに気を使ってくれたみたいで、俺は素直に感謝した。
「お待たせしました」
⁉︎ 俺はテーブルの上に置かれたスイーツに驚愕した。なんと、とてつもなく大きなプリンが目の前にある。いわゆるバケツプリンというやつだ。通常のプリンの十倍、いや二十倍以上あるんじゃないかと思えるほど、とてつもなくでかい。って、これ本当に食い切れるのかな?
「当店のバケツプリンですが、毎回ご説明させてもらってる通り、食べ残されましたらペナルティとして倍の金額払って頂きますので、どうかご了承ください」
えっ、うっそ〜⁉︎ ペナルティあんの? そんなの知らねえよ!
「ってなことなので、完食してくださいね、高峰先生」
いや、完食って、あんた鬼かよ。まあ、甘いものはわりと好きだけど、これは流石に……。
「いただきます」
瀬川さんはスプーンを手に取り、プリンを口に運ぶ。プリンを口に入れたその瞬間、瀬川さんは至福のときと言わんばかりの満面の笑みを見せた。今まであまりに瀬川さんが感情を表に出すことがなかったため、初めて見せる女の子らしい表情に大きくときめいた。
「じゃあぼくも、いただきます」
俺もスプーンを手に取ると、プリンを掬って口に運ぶ。っん⁉︎ これは美味い。ただでかく作っただけのプリンだとばかり思っていたが、単純に味のクオリティーが高い。甘くてとても濃厚。これならなんとか完食できそう……。
「ごちそうさまでした……」
今やっと、なんとか完食することができた。最初の五回ぐらいまでは良かったんだよ。プリンを口に運ぶのが。でも、五回超えたあたりぐらいから、あまりに甘くて濃厚なせいで、食うのがほんとつらくて……。
それとは反対に、瀬川さんのほうは、俺がバケツプリンをまだ半分も食ってない段階で、すでに完食していた。俺が食い終わるまでの間、パンプスのカタカタいう音が常に鳴っていた。あまりに食うのが遅いのでいらだっていたのだろう。
「じゃあ、もうお店出ましょうか」
「……はい……」
……うっ、なんか、一生分甘いもの食った気がする。もう当分甘いもの食うのはいいかな。
「高峰先生、あの実は、こことは別の店で美味しいケーキ屋さんがあるんですけど、今さっき調べたらバイキングやってるようなので、今から行きましょ」
ええ、まだ食うの⁉︎ 嘘でしょ⁉︎ もうこれ以上は流石に……。
「一緒に来てくれますよね?」
今この瞬間。瀬川さんが俺に見せるこの笑み、すげえどす黒いものを感じる。むっちゃ怖いな。しかもさあ、なんか俺の腕を掴む力がむっちゃ強いんですけど……。
「では、行きましょうか」
瀬川さん! 怖い怖い! もう甘いの嫌だあ〜‼︎
こうして俺は夕方頃まで、スイーツ巡りに付き合わされる。そして、瀬川さんと別れたあとも、スイーツや甘いものを見ただけで身体が震えてしまうほど、甘いもの恐怖症がしばらく続くのだった。