#02:十年後の僕へ
かすかな風切り音に、若草の匂いがした。夏彦は大きく深呼吸し、目を開けた。
地平線の果てまで続く草原は、風に揺られ光の波を描いていた。痛いほど生命力に満ち溢れた緑の空間なのに、虫も鳥も、立ち尽くす自分以外、何も存在しないことが分かる不思議な感覚。この場所が自分の夢の中だということに、夏彦は気がついていた。
夏彦がこの空間に呼ばれるのは、決まって精神が磨耗したときだった。裏切られ絶望した時、自分の無力さを実感した時、時間の制約を思い知った時、もう取り返しがつかないことに気がついた時。立ち直るための時間を得るために心が出す救援信号なのだと、考えていた。
ただ、普段と決定的に違う点が一つ。草原の中心に、世界観にそぐわない木製の学習机が置かれていた。机の上には解きかけの算数ドリル、側面のフックにはランドセルが掛けられている。そこまで見て、夏彦は気がついた。
まだ実家に暮らしていた頃、使っていた学習机だ。今から十年以上も前になるだろうか。それがどうしてここに?
かつては胸の高さ程だった学習机が、今は股下に届かない。二十二歳という年齢を、言外に伝えられているようだった。
なぜ僕は、この学習机を思い出したのだろうか。コンパスで彫った傷をなぞっていると、ふと、夏彦にかつての記憶が蘇った。
全ての歯車が壊れ始めた瞬間。引越しを控えたあの日、僕はこの机の引き出しに何かを残したのだ。それが何だったのか、思い出せないが答えはそこにあるのだ、と夏彦は直感した。
引き出しには、一通の封筒が入っていた。飾り気のない白い封筒が、戦隊モノのシールで止められている。夏彦はゆっくりとシールを剥がし、中の紙を取り出した。
それは、手紙だった。
『二十歳の僕へ。
僕は今頃、大学に通っていると思います。東大かわせだか。とにかく、東京に暮らしているのは間違い無いでしょう。
遊んでばかりで、仕事につけるかが心配です。サボらずにちゃんと周りの言うことを聞いてください。
未来の自分も、きっと今の僕とあまり変わりないと思うけど、どんな進化しているか楽しみです』
文章は拙く、殴り書いたような鉛筆の文字は異様に太い。これを書いたのは、小学三年生の時の授業だった。夏彦は担任教師の言葉を思い出していた。
「書く内容は何でも構いません。十年後の自分に伝えたいことでも確認したいことでも。今悩んでいることを書いても面白いかもしれませんね」
女性教師は不器用な笑顔をする人で、この時も取ってつけたような、事務的な微笑みを浮かべていた。今思えば、彼女はあまり子供が好きじゃなかったのではないか。教師になったことを少し後悔していたのかもしれない。
夢のほとんどが夢のままで終わることを、どこかで知っていたような顔だった。
握っていた紙に皺が走り、文字は視界が滲んで読めなくなった。夏彦は溢れ出す涙を拭うこともせず、過去を振り返った。
まだ自信に満ち溢れ、将来の自分が成功すると信じて止まなかった頃。僕は一体いつから落ちぶれてしまったのだろうか。
もう取り返しがつかないことは分かっていた。最後にこの記憶を思い出したのは、自分への憐れみか皮肉か。随分と趣味の悪い走馬灯であることは間違いない。
このまま朝が来なければいいのに、と世界を呪った。草が擦れる音が、どこか遠くで響いていた。