¶04 はじめの村
ハルトとアリシアが草原を進む中、ハルトはアリシアが持つ杖に興味を持ち続けていた。その杖の先端が微かに光を反射するたびに、彼の目は自然とそこに引き寄せられる。やがて、彼は我慢できなくなり、再び口を開いた。
「で、その杖、やっぱり武器なんだよな?」
アリシアは立ち止まることなく歩きながら振り返った。
「武器でもあるけど、それだけじゃない。」
「ほう。それだけじゃない?」
「これは魔力を操るための道具よ。」
「魔力……?」
ハルトはその言葉を口の中で繰り返し、眉をひそめた。その響きが、彼の世界観を根本から揺さぶるものだった。
「……ちょっと待て。魔力って、つまり魔法とか、そういう類のものってことか?」
アリシアはその問いに軽くうなずいた。ハルトの顔には珍しく驚きが浮かぶ。
「いやいや、冗談だろ?魔法?それ、本気で言ってる?」
「本気よ。あなた、本当に魔法を知らないのね。」
「……そりゃ知らないさ。魔法なんて、物語の中の話だと思ってたからな。」
ハルトは深く息を吸い込み、空を仰いだ。頭の中に一瞬で大量の疑問が押し寄せてくる。
「待てよ。魔法が本当に存在する世界……。じゃあ、ドラゴンとか、精霊とかもいるってことか?」
「もちろん。」
その言葉に、ハルトは思わず苦笑した。
「すごいな。俺、まるで小説の中に迷い込んだ気分だよ。」
アリシアはそんな彼の反応を冷静に見つめながら、淡々と言葉を続けた。
「ここでは魔法は日常の一部よ。特別なものでも、珍しいものでもないわ。」
「日常の一部、ね……。」
ハルトは顎に手を当て、しばらく考え込む。そしてふと、何かに気づいたように顔を上げた。
「じゃあ、その魔法とやら、見せてくれないか?」
アリシアは一瞬躊躇したが、すぐに杖を軽く握り直した。
「……少しだけなら。」
アリシアが足を止めると、風が静かに止まり、空気が張り詰める。彼女が呪文を小声で唱えると、杖の先端に青白い光が灯った。その光がやがて小さな球体となり、ふわりと空中に浮かぶ。
「これが魔法……?」
ハルトは目を丸くしてその光を見つめた。球体は静かに揺れながら、周囲に柔らかな光を放っている。
「ただのトリックとかじゃないよな?これ、本当に魔法なのか?」
「疑うなら、自分で触ってみれば?」
アリシアは光の球をそっと前に押し出す。それがハルトの手元に漂ってきた。彼は慎重に手を伸ばし、指先で触れてみる。冷たく、滑らかで、確かに実体がある感触だった。
「……本当にある。」
その感触に驚きながらも、ハルトはじっと球体を観察する。光が波打つように動き、かすかに暖かい空気が漂ってくる。
「すごいな。こんなのが現実にあるなんて、信じられない。」
アリシアはその反応を冷静に見つめていたが、ハルトが驚嘆しているのを見て、わずかに口元を緩めた。
「驚くのも無理はないわ。でも、あなたがこれを理解するには時間がかかりそうね。」
「いや、理解する以前に……まず、この世界のルールを受け入れるところから始めなきゃな。」
ハルトはため息をつきながら、頭を軽く掻いた。そして再び球体を見つめる。
「この魔法が日常的って、やっぱりすごいよ。俺の世界じゃ、これを見ただけでパニックになるやつもいるだろうな。」
アリシアはその言葉に微かに首をかしげた。
「そんなに珍しいもの?」
「珍しいどころか、存在しないんだよ。」
草原を進む二人の間には、かすかな風の音だけが響いていた。ハルトは前を歩くアリシアの背中をじっと見つめ、少し間を置いてから口を開く。
「なあ。」
アリシアは振り返らずに短く答える。
「何?」
「俺にも魔法って使えるのか?」
その問いにアリシアは一瞬だけ足を緩めたが、すぐに歩き続けながら返事をした。
「さっきの魔法を見たとき、何か感じた?」
ハルトは顎に手を当てて考え込むような仕草を見せる。
「いや、すごいなとは思ったけど……特に何かが変わったってわけじゃないな。」
アリシアは小さくため息をつきながら、杖を握り直した。
「なら、素質はないわね。」
「……そうか。」
ハルトはポケットに手を突っ込み、少し視線を落とした。短い返事だったが、その声にはどこか残念そうな響きがあった。
「残念そうね。」
アリシアが横目で彼を見ながら言う。
「そりゃあな。」
ハルトは苦笑いを浮かべた。
「この世界で生き抜くためには便利そうだし、魔法を使えるなら楽になると思っただけさ。」
アリシアは無言のまま数歩進んだ後、少しだけ歩調を緩めて隣に並ぶように歩き始めた。
「でも、魔法は万能じゃないわ。特に、素質があっても制御を間違えれば自分も周りも危険にさらすことになる。」
「危険か……。」
ハルトは彼女の言葉を反芻し、また考え込むように顎に手を当てた。
「例えば、どんなことが起こるんだ?」
アリシアは一瞬だけ目を伏せ、少しだけためらった後で答えた。
「制御を失えば、魔法の暴走が起きることもあるわ。そうなれば誰にも止められない。」
「そう聞くと、使えないほうが安全かもしれないな。」
ハルトは肩をすくめながら軽く笑ったが、その目にはどこか冷静な光が宿っていた。
「それにしてもさ。」
ハルトは杖を握るアリシアの手元に視線を向ける。
「君みたいに魔法を使える人間って、この世界ではどれくらいいるもんなんだ?」
「少ないわね。」
アリシアは淡々とした口調で答えた。
「特に、戦闘用の魔法を使える人間はさらに限られている。」
「それでも君は使えるんだろ?」
ハルトは少しだけ目を細め、彼女の横顔を観察するように見た。
「ええ。でも、それが必ずしも幸せなこととは限らないわ。」
アリシアの声にはどこか苦味が混じっている。
「……そうか。」
ハルトはそれ以上追及せず、再び前を向いて歩き始めた。
しばらくの沈黙の後、ハルトはポツリと呟くように言った。
「素質があれば、もう少し楽ができると思ったんだけどな。」
「楽をするための魔法なんて、ないわ。」
アリシアは杖を軽く振りながら言う。
「そういうもんか。」
ハルトは少しだけ苦笑し、歩調を緩めた。
「でも。」
アリシアは立ち止まり、ハルトを真っ直ぐに見つめた。
「魔法が使えなくても、生き抜く方法はある。それに、魔法がなくても役に立てることはたくさんあるはずよ。」
その言葉に、ハルトは目を見開き、少しだけ驚いたような表情を見せた。
「君にしては優しい言い方だな。」
アリシアはわずかに顔を赤らめ、視線を逸らした。
「別に優しいわけじゃないわ。ただの事実よ。」
「そっか。まあ、ありがとう。」
ハルトはふと微笑み、そのまま歩き出した。
草原を進む二人の視界に、ようやく人の気配を感じさせる風景が現れた。木造の家々が立ち並ぶ小さな村。低い木柵に囲まれ、いくつかの家からは煙突から細い煙が立ち昇っている。その煙が青空にゆっくりと溶けていく様子は、どこか穏やかな日常の一コマを感じさせた。
ハルトは立ち止まり、遠くを見つめる。
「あれが村か。意外と、普通っぽいんだな。」
「街道沿いの村だから、それなりに整っているのよ。」
アリシアは杖を軽く握り直しながら、先を指差した。
「あそこの門を越えれば中に入れるはずよ。」
「門ねえ……。」
ハルトは木柵に設けられた簡素な門に目をやる。門のそばには木の椅子が置かれ、そこに中年の男性が腰掛けているのが見えた。彼は手に縄のようなものを持ちながら、穏やかな様子で作業をしている。
「意外と人がいるな。煙も上がってるし、まともな人がいそうだ。」
ハルトがそう言うと、アリシアはふと立ち止まり、振り返った。
「私がまともじゃないみたいな言い方ね。」
その声には少し刺があるが、顔には薄い笑みが浮かんでいる。
「いやいや、そんなつもりはないけど?」
ハルトは苦笑しながら肩をすくめた。
「ただ、こうやってちゃんと村があると安心するってだけだよ。」
「なら、いいけど。」
アリシアは小さくため息をつくと、再び歩き出す。