¶02 運命の道を辿る
陽翔の目の前に広がる黒い渦が急に膨れ上がり、空間そのものが歪んでいく。足元がふわっと浮き上がる感覚に襲われ、全身が不安定になった。無意識に地面に手を伸ばすが、何もつかむことができない。頭の中が急にぐらつき、視界が一瞬で真っ白に染まった。
その瞬間、陽翔は気を失ったのかと思ったが、次に気づいたときには、まるで空中を漂っているかのような感覚に包まれていた。周囲は無音で、全てが歪んで見える。視界の端に何かがちらりと見えたが、それもすぐに消えてしまった。浮遊していることが不安で、陽翔は体を動かそうとした。しかし、体が全く言うことをきかず、無意識に冷や汗が背中を伝う。
「……こんな感覚、初めてだ。」
その一瞬、無重力のような浮遊感が続いた後、陽翔は急に強い引力を感じ、体が引き寄せられる。反射的に体を引き締め、手を強く握りしめた。その引力に身を任せると、ふっと足元が地面に着いたような気がした。しかし、周囲の風景がまだ歪んで見える。陽翔は一瞬ふらつきながらも、自分がどこにいるのかを把握しようとした。
次の瞬間、目の前に広がっていたのは――見たことのない風景だった。
空は青く澄み渡り、どこまでも広がっている。まるでここに広がる世界全体が陽翔を包み込んでいるかのようだった。頭上には、奇妙な形の雲がゆっくりと流れていて、その動きが時折不規則に変わる。草木が風に揺れ、まるで生命が吹き込まれているかのように感じるが、その一方でどこか不安定で異質な美しさを併せ持っていた。
「ここは……どこだ?」
陽翔は足元の感触を確かめるように、ゆっくりと地面を踏みしめる。その足元は、乾いた土と湿った土が混ざり合ったような不均等な感覚だった。足を踏みしめるたびに、土が少しだけ崩れていく。空気は乾燥していて、息を吸うたびに喉が少しだけ渇いた。目の前には、一面に広がる草原が広がっている。
「異世界……?」
陽翔は、その場で静かに立ち尽くし、あたりを見回す。周囲には目立った建物はないが、遠くの山々が形を成しているのが見える。それらの山々も、普段目にするような景色とは違い、どこか幻想的に見えた。陽翔は無意識に手を動かして自分のリュックを確認する。リュックの中身が普段通りに収められているのを見て、少し安堵の息をついた。教科書やノート、ペンがそのまま入っていて、どうやら自分の身の回りはそのままだ。
だが、ここは間違いなく異世界だ。それが、陽翔の心を確信させる。
「まさか、本当に転移しちまったのか……。」
呟きながら、陽翔はゆっくりと動き出す。
「ただ……ここ、普通の場所だな。」
陽翔は少し驚いたように呟いた。草原や山々の景色に不安を感じていたが、よく見ると、ここはどこかに人が住んでいそうな風景だった。動物の足音も聞こえ、草が生い茂っている場所の中には、僅かな道が見える。何かの足跡や、通った痕跡もあり、どうやらこの近くに誰かが住んでいる様子が伺える。
陽翔は再度周囲を見渡す。見上げると、青空の下に不安を抱える自分がいるだけで、ほかには何も見当たらない。そうして、この世界が不安で怖い場所ではない可能性もあることに少し気づく。だが、やはり不安感が頭の中を支配していた。
そのとき、遠くの方で何かが動いた気配を感じ取った。陽翔は一瞬立ち止まり、耳を澄ませる。空気が再びひんやりと感じ、静寂の中に遠くから音が聞こえる――誰かが歩いている音だった。
「誰か……いる……?」
陽翔はその方向に向かって歩き出した。次第に音が近づくにつれて、陽翔の胸の鼓動が早くなるのを感じた。自分が異世界に放り込まれ、これから何が待っているのか全く分からない。ただ、一つ確信できたのは、この世界での未来が自分の手の中にあるということだった
陽翔がその足音に気づいた瞬間、彼の体は自然と足を止めた。最初は遠くから微かに響いていた音だが、次第に近づいてくる。それは、歩く音――だれかが草を踏む音だ。
陽翔は静かに息を飲んで周囲を見渡した。草原の中で音を立てて歩いているのは、誰だろうか? ここは誰もいないはずだと思っていたが、今、目の前に広がる風景は何もかもが予想外だ。目を凝らしてみても、その音の主はまだ見えない。だが、確かに、その音は一定のリズムで近づいてくる。
陽翔はその音に引き寄せられるように、自然と歩き始めた。音が響く方へと向かって――緊張と好奇心が交錯する中で、彼の足は踏み出される。
「誰だ?」
心の中で呟く。声に出さずとも、陽翔の身体が感じる不安と興奮の入り混じった気持ちは、あたりの静寂に反響するように感じた。音はますます近づいてきている。それも、明らかに人の足音だ。人が、この荒れた草原の中で歩いている。
音の主は見えないが、その音が間違いなく生き物によって作られているものであることは確かだ。陽翔の心拍数が次第に早くなり、足取りも軽くなる。それと同時に、心の中で感じていた不安が少しずつ弱まっていく。
やがて、歩く音が陽翔の耳元で止まった。目の前に何も見当たらず、ただ草原が広がっているだけだった。風が一瞬、止まり、静寂が周囲を包み込む。しかし、その静けさもつかの間のことだった。
「誰かいるんですか?」
陽翔は声を出してみた。声が空気を突き抜け、遠くの草原に消えていく。だが、返事はない。そのまま一歩を踏み出し、慎重に周囲を見回した。
その時――
ひゅっ。
背後から、軽い風が陽翔の髪をかすめた。それと同時に、何かが肩に触れるような感覚を覚えた。陽翔は驚き、瞬時に振り向く。だが、そこに何かが立っているわけではない。ただ、見渡す限りの草原と、静かな空気だけが広がっている。
「……なんだ、気のせいか?」
陽翔はそう呟き、少しの間立ち止まってから再び歩き始めた。しかし、その背後には何か気になるものがあるような、そんな感覚が胸に残る。振り返ると、何も見えない。再び歩き出すと、今度はやや足早に進んでみる。今度こそ、何かに出会うだろうか?
しばらく進んだところで、陽翔は再びその音を聞いた。今度は一度、ぴたりと止まると、再び足音が近づいてくる。近づいてくるその足音は、すでに陽翔の背後に迫っていた。思わず振り向こうとしたその時――
「……お前もか。」
陽翔がそう呟いたとき、視界の隅に微かな影が動いた。
目の前に現れたのは、草むらの中から静かに現れた一人の人物だった。その人物は、陽翔よりやや背が高く、長い髪を持っている。服装も、現代のものとはまるで違って、動きやすい衣装を身にまとっていた。
その人物が静かにこちらに向かって歩いてくる。
陽翔はその人物に目を凝らし、再び心拍が高まるのを感じた。
「……誰だ?」
陽翔はもう一度声をかけるが、その人物は足を止めることなく、陽翔に向かって歩み寄ってきた。
「お前が来るのを待っていた。」
その声が、陽翔の耳に響いた。その声は、あまりにも静かで、しかしその言葉に含まれる意味は深い。
陽翔はその人物をじっと見つめた。目の前に立つその人物は、陽翔の予想を裏切るような姿をしていた。見た目は、明らかに異世界の住人らしいが、無理なく陽翔の視界に馴染んでいた。中程度の身長で、精悍な顔立ち、鋭い眼差しを持つ男性だった。体つきは引き締まっており、暗い色の衣装がその筋肉を強調している。衣装には金属の装飾が施されており、武器を腰に携えていることがわかる。
だが、何よりも陽翔が強く感じたのは、この人物が放つ独特の雰囲気だ。まるで物理的な空気がその周りだけ違って感じられるような、そんな圧倒的な存在感。陽翔の心の中で、警戒心と好奇心が交差していた。
「あんた、俺を待っていたんだな?」
陽翔は冷静に声をかけると、その人物は軽く頷いた。言葉の端々に不安がにじむ陽翔とは対照的に、その人物はどこか余裕を持った笑みを浮かべていた。だが、どこかその笑みも計算高い、隠された意図を感じさせるものだった。
「そうだ。君が来るのは分かっていた。」
その人物の声は低く、どこか響きがあり、陽翔に深い印象を与える。陽翔はその声に意識が集中する。だが、気になるのはその言葉だった。
「……どうして、俺だってわかったんだ?」
陽翔は思わず、無意識にその人物をじっと見つめた。目の前に立つ相手は、ただ者ではない。まるで陽翔の存在を知っていたかのような、あまりにも唐突な言葉だ。
「君のような者は、僕らにとって必要な存在だからだよ。」
その人物の言葉には強い確信が感じられた。だが、その内容には陽翔の理解が追いつかない。
「僕ら? 一体、誰だよ?」
陽翔の質問に、人物はわずかに口元を上げ、軽く肩をすくめた。
「君が理解するには少し時間がかかるだろうな。」
その人物は言いながら、歩みを進め、陽翔の前に立ち止まった。背後の草原が、彼の動きに反応するように揺れている。その動きに異常なほどの流麗さがあり、陽翔はさらにその人物の存在感を強く感じた。
「君がここに来たということは、運命が動き出したということだ。」
運命? その言葉に、陽翔はわずかな違和感を覚えた。運命なんてものを信じるほど、彼は単純な人間ではない。
「運命、か。」
陽翔は少し苦笑いを浮かべながら、その言葉を噛みしめるように呟いた。
「それって、言葉が大きすぎるだろ。」
「そうかもしれないが、君の役目はもう決まっている。」
その人物は、陽翔に向かってゆっくりと歩み寄り、そして静かに目を合わせた。目の前の人物の瞳は、鋭く、深い知識を持っているような感覚を与えた。
「君は、運命を変えるために来た。」
その言葉が、陽翔の胸に強く突き刺さる。
陽翔はその言葉に反応しながら、少しずつその人物の言うことが何を意味するのかを考え始める。運命を変える? 自分がその役目を持つ存在だなんて、どうしてそんなことが言えるのか。
「……運命を変える?」
陽翔はその人物に目を向け、再び問いかけた。
「どうして、俺がそんな役割を?」
その人物は一度、深くため息をつき、まるでこれから語られることがどれほど重要な話かを理解しているかのように静かに言った。
「君がそれを選ぶからだ。」
その言葉に、陽翔は思わず立ち止まった。選ぶ? 自分が運命を選ぶ? そんなことをしている余裕なんて今の自分にはない。
「選ぶって……どういう意味だ?」
その人物は、少しだけ微笑みながら答えた。
「君の意識はまだその先に進んでいない。だが、やがて選ばなければならない時が来る。」
陽翔はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。運命を選ぶ? 選ぶことができるのか?
その人物はさらに、深い意味を込めた視線を陽翔に送った。
「そして、その選択が君の未来を決める。」
陽翔はその人物の視線を受け止め、何かを悟るように静かにうなずいた。
突如として吹き荒れる風に意識が引き戻された。冷たい風が一気に吹き抜け、陽翔の髪と服を乱し、目を細めさせる。その強い風はまるで何かが始まる合図のように感じられた。
「なんだよ、急に風が……!」
陽翔が顔を背けると、目の前の人物が、まるでその場にいなかったかのように消えていた。振り向いても、その人物の姿はもうどこにも見当たらない。風が吹き荒れ続ける中、ただ自分一人がその場に立っているだけだった。
「……一体、なんだったんだ。」