¶01 転移のフラグ
目覚まし時計のビープ音が、静かな部屋に無遠慮に響いた。相馬陽翔は顔をしかめ、枕を耳に押し当てながら「あと五分だけ……」と小さくつぶやいた。だが、目覚まし時計はそんな願いを聞き入れるどころか、さらにけたたましい音を鳴らし続ける。
「……うるさいって。」
布団の中で手を伸ばし、半ば無意識の状態で目覚ましのスイッチを押す。ビープ音がピタリと止まり、部屋に静寂が戻った――かに思えたが、次の瞬間、時計がベッドから転がり落ち、「カチャン」と床にぶつかる音が響く。
「またか……。」
陽翔はため息をつき、ゆっくりと体を起こした。まだ薄暗い部屋には、カーテンの隙間から朝の日差しが細い筋となって差し込んでいる。光のラインが白い壁を切り裂くように伸び、床の上にはぼんやりとした影が揺れていた。遠くから聞こえる車のエンジン音、そしてかすかな鳥の囀りが、今日も変わらない日常を告げている。
床に転がった時計を拾い上げると、液晶には「7:30」の文字が表示されていた。陽翔は時計を見て、苦笑いを浮かべる。
「またギリギリか。まあ、いつも通りだな。」
ベッド脇に置いていたスリッパを突っかけながら、大きく伸びをする。体中の関節が軽い音を立てて伸びる感覚は心地良い。けれど、それも一瞬で、次にやってきたのは「今日も始まってしまった」という漠然とした疲労感だった。
蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく飛び出してきた。陽翔は手のひらに水を溜め、それを思い切り顔に叩きつける。瞬間、ひんやりとした刺激が肌に広がり、ぼんやりとしていた頭が少しずつクリアになっていく。タオルで顔を拭いながら、鏡を覗き込む。
鏡に映るのは、自分でも見慣れた「普通の顔」だった。短く整えた黒髪に、どこか眠たげな目。目元にはうっすらとクマが浮かんでおり、ここ数日の寝不足が容赦なく刻み込まれている。陽翔は髪を手ぐしで整えながら、小さくため息をついた。
「もうちょっとマシな顔にならないもんかな……。」
自嘲気味に呟くものの、髪を直す手は特に真剣ではない。いつも通りの自分。いつも通りの朝。変化のない繰り返しに、少しだけ虚しさが胸の片隅をよぎる。
台所に向かい、トースターに食パンを放り込む。スイッチを押すと、トースターの中でパンがじりじりと焼かれる音が聞こえ始めた。その間に冷蔵庫を開け、牛乳を取り出してコップに注ぐ。牛乳の冷たさを一口喉に流し込むと、ようやく体が少し目覚めた気がした。
「今日もこれで十分か……。」
焼き上がったトーストを取り出し、バターを塗る。ナイフがパンの表面を滑る感触は、どこか機械的だ。窓の外を見れば、朝の光を浴びた街路樹が風に揺れている。通りを歩く近所の主婦、そして遠くで自転車を漕ぐ子供たち――陽翔にとってはいつも見慣れた風景だ。
リュックに教科書やノートを詰め、スマートフォンの充電器をポケットに突っ込む。机の上に置きっぱなしになっていたイヤホンを探し、部屋を軽く見渡すと、床の隅に転がっているのが目に入った。
「こんなところにあったのかよ……。」
拾い上げたイヤホンをリュックに放り込むと、玄関に向かい、靴箱からお気に入りのスニーカーを取り出す。靴ひもを結ぶ動作にも慣れが見え、陽翔は頭の中で今日の予定をぼんやりと思い返していた。
「午前中は講義、午後はゼミ……。相変わらず、刺激のない日だな。」
独りごちたその言葉には、特に感情は込められていなかった。
自転車のサドルに腰を落ち着けた相馬陽翔は、ハンドルを軽く握り直してペダルを踏み込んだ。朝の空気はひんやりとしていて、走り出した途端に頬に当たる風が心地よい。昨日は夜更かししすぎたせいで頭がぼんやりしていたが、この冷たい刺激のおかげで少しだけ目が覚めるような気がした。
街路樹が並ぶ通学路は、陽翔にとってお馴染みの景色だ。左右にアパートが立ち並び、その向こうにはいくつもの商店が軒を連ねている。普段はそこから聞こえる人々の話し声や車の走行音が、生活のリズムとして意識の奥に馴染んでいるはずだった。
だが今日は違った。耳に入るのは、自転車のタイヤがアスファルトを擦る音だけだった。視線を前方に向けながら、陽翔は眉をひそめた。鳥のさえずりがどこにもない。店の前で掃除をしているはずの老夫婦もいない。音が消えたような静けさが、ひたすら広がっている。
そういえば、家にいたときは普通に鳥の声が聞こえていたはずだ。車のエンジン音も、確かに窓越しに耳に入っていた。それが、外に出た途端に消えてしまったのはどういうことだろうか。思考の中に生まれた違和感が、不安というかたちで胸に広がるのを感じた。
「気のせい、だよな。」
胸の奥に生まれかけた不安をかき消すように呟くと、ペダルをもう一度踏み込む。風を切る音が耳元をかすめ、自転車のハンドルが軽快に左右へと揺れる。朝の光が街路樹の間から差し込み、葉の影が地面に揺れる。それでも、静けさに馴染むことはできなかった。
通り過ぎる道端の公園をふと見ると、普段は元気に遊んでいるはずの子供たちの姿がない。遊具は朝露に濡れ、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。しかし、その美しさに奇妙な現実味のなさを感じてしまうのは、そこに人影が一切ないからだろうか。まるで誰かがこの場所から生命を取り除いたように見えた。
「なんだよ、これ……。」
陽翔はハンドルを握る手に力を込めた。どう考えても、いつもと何かが違う。だが、その違和感が何なのかはっきりとは分からない。ただ、胸の奥で鈍く疼くような不安感が、次第に強まっている。
ペダルを踏み続けるうちに、視界の端に小さな光が揺らめいた。陽翔は咄嗟にブレーキをかけ、自転車を止める。ハンドルに片手を置いたまま顔を上げると、空中に漂う光の粒が見えた。朝日に反射しているのかと思ったが、それにしては動きが不規則で、生きているかのようにゆっくりと揺れている。
「何だ……これ?」
光は数秒間その場に留まり、風に流れるようにゆっくりと動いたかと思うと、ふっと消えた。消えた瞬間の空間は、何事もなかったかのように無音のままだった。陽翔は周囲を見回したが、誰もいない。ただ静けさだけが広がっている。
再び自転車のペダルに足をかけたが、さっきまで感じていた冷たい空気が不意に止んだことに気づいた。風がピタリと止み、耳を塞いだように周囲の音がすべて消えている。あまりにも静かすぎて、鼓動の音が自分の耳に響くほどだ。
次の瞬間、街路樹の向こうの風景が揺れた。波紋のようにゆらゆらと歪み、その形が一瞬だけ崩れた。陽翔は目をこする。だが、視界が戻ったと思った矢先、また風景が揺れる。今度は建物の輪郭が崩れ、消え入りそうになったかと思うと元に戻る。
「……何なんだよ、これ……。」
心臓が不安を煽るように早鐘を打ち始めた。陽翔は自転車から降り、両足をしっかりと地面に着けたまま、目の前の光景を見据える。揺れる風景の向こうに、再び光の粒が見えた。だが今度はそれが徐々に拡大していくのが分かる。丸い渦が形を作り始め、その奥からどす黒い空間が覗いていた。
陽翔は咄嗟に後ずさりした。だが、背中に冷たいものが走る。その空間から目を離せない。冷や汗が頬を伝い、喉が音を立てて上下する。足元のアスファルトが軽く揺れ始めた。
「おい、ちょっと待て……。」
静けさの中、誰もいない世界で、その声だけが虚しく響いた。