2話
「……ふむ、問題はないようです。しっかりと赤子の心音が聞こえるから安心してください」
「ありがとうございます」
ユーナが連れてきた医師がお腹から器具を離し、にっこりと笑った。その笑みに心から安堵し思わず大きなため息をついた。
(気を失うまであった激しい吐き気が治まっているのだもの。少し心配だったわ……)
前世でもいきなりつわりが治まり、心配になり病院に行くとお腹の赤子の心臓が動いていないと言われた妊婦さんがいた。あの時泣きながら電話してきた妊婦さんを思うと今も胸が張り裂けそうになる。
「念の為安静にしてお過ごし下さい。また何かあればすぐに参上致しますので」
「ええ、お願いしますわ……ユーナ。お見送りして頂戴」
「かしこまりました……先生、こちらへ」
軽く会釈をし、医師はユーナに導かれ部屋を出た。静かに閉められた扉をぼんやりと見つめていると、再びノック音が鳴り響いた。
「は、はい。どうぞ」
「失礼する」
入室を促すと言い切る前に入ってきたのは旦那様だった。想像しなかった人物の登場に、言葉に詰まってしまった。
「調子が悪いと聞いた」
「ええ……吐き気が少し」
(少し、なんてものではないけれど)
朝から続く吐き気をどう伝えようとも、彼の反応はいつも同じ。
「そうか」
この三文字だけ。幼い頃は何かと言えば多くを返してきてくれる旦那様。今は簡潔な答えが返ってくるのみ。少し悲しく思えたが、もう慣れている自分もいる。
旦那様は部屋を見渡し、傍にあったソファーにそっと腰かけた。
「一週間後母上が屋敷に来る。その後しばらく滞在するつもりらしい」
彼は簡潔に、感情が感じられない声で言う。
いきなり現れ、いきなりとんでもない爆弾を投げてきた彼は用事が済んだと言わんばかりに立ち上がり、部屋を後にした。
嵐という旦那様が過ぎ去った後、茫然としていた私はユーナが戻ってくるまで体が氷漬けにされたかのように固まったままだった。
(な、なんてことをさらりと言いだすの!?)
私から見れば義母にあたる旦那様のお母様は一度婚姻を結んだ時に挨拶をした程度だった。その時は人当たりの良い笑顔で祝福してくださったのを覚えている。マリーナ領を旦那様に任せて以来、王都にある別荘に隠居している旦那でもある前領主に付いていったと聞いた。
その義母さまがこの屋敷にやってくる。前世での義母との関係性を思い出し眉をしかめた。
(さすがにあの人当たりの良さそうな義母さまとは……)
対立したくない、そう思った。
前世での義母とは折り合いが悪く、何度か対立していたのを思い出した。大きくなり自分の手から離れたはずの息子……瑠璃子だった私の夫にいつまでも世話を焼き、ほっといてくれと言っても構わず手や口を出す。それは義母から見れば孫である我が子が生まれて尚更ヒートアップしてしまっていた。
(最終的には絶縁状態になってしまったけれど……ロベリアの義母さまは大丈夫だと思いたいわ)
*
「アンジェリーナ様はピンクのお花がお好きなのでたくさん飾りましょうか」
ユーナは私に桃色の花々を渡し微笑んだ。
義母さまが我が公爵邸にいらっしゃるまであと四日となった。今日は義母さまが滞在する間過ごしていただくお部屋の整理を手伝っていた。最初はユーナに慌てた様子で断られていたが、私も義母さまを迎えたいからと強くお願いしたら引いてくれた。
前世の記憶を取り戻して以来、つわりは不思議となくなっている。良いことだが、時々不安になって医師を呼び診てもらっていた。
(前世でも妊娠していた頃何かと不安になって何度も病院に行ってたのを思い出すわね)
「最初義母さまが来ると分かって驚いてしまったわ」
「旦那様は言葉が少ないですけど要点が分かり無駄が無いですよね」
窓辺に飾られた花瓶に花を挿しながらぽつり、と呟いた。それに対して返ってきたユーナの言葉に思わず頬が綻ぶ。
「それは悪口に捉えられてしまうわ」
「ええー! 怒られてしまいますね!」
ユーナはおどけてみせた。二人で笑い合いながら、義母さまの滞在する部屋は作られていく。義母さまが好きだと仰る
「そういえば私義母さまの事よく存じ上げないわ」
「私も奥様と一緒にこの屋敷にやってきましたからよく分かりませんが……メイド長が言うにはお喋り、だと」
「お喋り、ね」
「そうです! ……旦那様と対照的ですね」
仮にも自分の主人の旦那だというのに、言いたい放題のユーナに思わず声を上げて笑ってしまう。はしたない、と思われても仕方ない。それでも前世の私のように大声で笑っていた。
「……女性がそのように笑ってはならないと教わりませんでしたか」
笑い声が響く部屋を切り裂くように冷静な声が入り込んだ。冷ややかな空気を感じ、声の主を探すと髪をひとつに纏めた狐目の女性が部屋の入口に佇んでいた。鋭い眼光が貫くように私を見据える。
「……マーサ、」
「奥様。私は貴族の女性たるものを事細かに伝えたはずです。お忘れでしょうか」
「あ、あの、マーサ様、」
「ユーナ。貴女もです。例えメイドの立場だとしても、主人を窘める事も出来たはずです」
言い訳は無用と言わんばかりに淡々と述べる女性は、私ロベリアが幼い頃からの教育係を務めているマーサ。彼女は代々王家の教育係や高等学園の教師を務める名門クレオノーラ子爵家の女主人だ。
びくびくと小動物のように寄り添う私とユーナを捉えたマーサはその狐目を更に釣り上げ、こほん、と小さく咳払いをした。
「奥様にはまだ教育が必要なようですね。分かりました。この後応接間でお待ちしておりますわ」
有無を言わさない眼光でマーサは私たちを睨み、お手本のような淑女の礼をして去っていった。