1ー2
目が覚めると僕は、何もない草原の様な場所に立っていた。
「ここは……?」
まだはっきりと意識が覚醒しない中、霞む目をこする為に眉間の辺りに手を当てようとした時に気付いてしまった。
「手……手が! 手がないっ」
頭を振って記憶の中を掘り進んでいくと、うっすらと昨日の晩のエクスタシーを思い出した。
そうだ。昨日の晩、足しげく通っていたSМクラブから帰る途中、駅の階段を踏み外して――。
そういう靴で踏まれるのはとても大好きな僕だけど、階段を踏むのは得意じゃないらしい。
でも駅の階段から落ちたくらいで両腕がもげることなんてあり得ない。それもたったの5段くらいだったはずだ。
それに両手がもげるほどの大事故の後でこんな草むらに来る理由が分からない。いや、それとも痛みで暴れるから手を拘束具のようなもので固定されているのだろうか。いやいや、手の感覚そのものがない。
違う。違う違う。もっと重大な事がある。
――既視感がある。
「……さっきも見た光景だ」
一度記憶の片鱗を手にしてしまえば鮮明に今見ているこの風景が脳にこびりついているのを思い出す。さっきもこの光景と全く同じものを見た。朧気じゃなくて、はっきりと覚えている。ついさっきの事だったはずだ。
「思い出せ、思い出せ……」
そうだ、確かに覚えている。大地の裂け目に、不思議な箱。
走ってくるイカれたおじさん。親の仇みたいに箱をぶっ叩いて小銭を集め、クレバスに飲み込まれるおじさん。
「そうだ、アイツが来る。アイツが来て、とち狂ったみたいに箱をどつきまわして――死ぬ」
記憶のサルベージに成功すると少しこめかみのあたりに痛みを感じたが、休んでいる暇はない。
もしかしたら、ここは死後の世界なのかもしれない。不思議で混沌とした死後の世界。
いや待て、冷静に考えるんだ。
こめかみの痛みを感じた。足の裏に地面の感触がある。歯を鳴らしてみればカチカチと音がして、歯の神経が通っていることも感じる。風が頬を撫でていく感触だって――。
「夢じゃないとしても、一体どうすればいいんだよ……?」
思い付いた方法は二つだ。
とにかく歩いて、何かヒントを探す事。
もう一つは勇気を出して、ちょうどこっちに向かって爆走している姿が見えるイカれたあのおじさんに話しかける事だ。
体力も飲み物も食べ物も――。
ましてや腕も、ヒールで踏みつけてくれる女王様もいないこの状況ではむやみやたらと歩き回っていても仕方がない。
「ここはひとつ、あのおじさんに話しかけてみるか」
意を決しておじさんの進行方向に立ちはだかると、やっぱり膝に震えがくる。
あ、膝ないや。
とにもかくにも大きく息をついて心を落ち着かせ、髭のおじさんを真正面から見据えると恐怖心で胸がはちきれそうになる。
「あ、あの。すみませ――」
あり得ない。
そのおじさんは初対面の僕を、しかも丁寧に話しかけようとしただけの僕を無視するだけでなく――あろうことか視線が交差するや否や敵意をむき出しにして大きく飛び上がり、踏みつけようとしてきたのです。何が彼をそんな衝動に駆りたてるというのですか。僕が何をしたというんですか。
ああ、僕を踏んで――。
「あ、あぶな」
――嫌だ。
男に踏まれるのだけは絶対に嫌だ。ほんの一瞬踏まれるときの思考回路になってしまったことを悔やみ、急いで頭を切り替える。
だけど僕の機動力は今では微々たるもので、咄嗟に避けるだけの技量もなく、腕を使って頭を守ることもできない。
ただ目を閉じてその時が来るのを待っていた僕に訪れたのは、鈍い衝撃音だった。
恐る恐る目を開けるとおじさんは頭上にある――いや、今まではあんな箱なんてなかったはずなのに、おじさんが頭をぶつけた途端に姿をみせた四角い箱。
とにかくそれにぶつかってバランスを崩して着地して、そのまま僕にぶつかってしまう。
「あ、すみません」
ぶつかって来たのは向こうだっていうのに、つい街中で肩が当たってしまった時のように謝罪してしまった。
それなのに――こっちはむき出しの顔面に膝が当たったっていうのに、おじさんは謝りもせずに、そのままよろよろと後ずさってから。
――死んだ。
初めて人を殺めてしまった。
正直に言えば、こんなことで人が簡単に死ぬとは思っていなかった。
ぶつかったとはいえ衝撃はさほどでもなかったし、もっと言えば触れただけに等しいくらいだ。
それがどうして、よろよろと千鳥足になり、最終的には毒でも食ったような顔色になって飛び上がって死ぬんだ。それも、ぷるぷるっ、みたいな音を出して。スライムじゃあるまいし。
「いや、とんでもない痛みを感じると常識はずれな力を出すことも有るみたいだし……僕が殺してしまったことには変わりない。もう自首するしか――」
目と鼻の先で変わり果てた姿になった小銭に異様な執着を示すおじさんの姿を、人を殺めてしまった罪悪感から意気消沈しながら呆然と眺めていると、再びあの音が響き渡った。
「……てれってててってて」
メロディを口ずさむ。
聞いた事がある。確かにその旋律は耳に馴染んだ音だ。
一回や二回じゃ絶対にない。もっとこう、心の奥底に沁みついているような音だ。よく考えればあのぷるぷるッとした音でさえもなんというかこう、ノスタルジックな気持ちになる。
何かを思い出しかけている実感がある――夏休み、扇風機、麦茶、宿題、スイカ、鞭、ハイヒール……。
だけど神様は、どうやら僕に考えている時間さえ与えてくれないらしい。
「クソっ、まただ! また景色が歪んでいくっ――」
再び色あせて崩れていくような周囲の景色と眩暈。
またしてもそこで意識が途絶えてしまう。
抗う事が出来ない、世界の理の前に僕は成す術もなかった。