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目が覚めると僕は、何もない草原の様な場所に立っていた。
「ここは……?」
まだはっきりと意識が覚醒しない中、霞む目をこする為に眉間の辺りに手を当てようとした時に気付いてしまった。
「手……手が! 手がないっ」
頭を振って記憶の中を掘り進んでいくと、うっすらと昨日の晩のエクスタシーを思い出した。
そうだ。昨日の晩、足しげく通っていたSМクラブから帰る途中、駅の階段を踏み外して――。
そういう靴で踏まれるのはとても大好きな僕だけど、階段を踏むのは得意じゃないらしい。
でも駅の階段から落ちたくらいで両腕がもげることなんてあり得ない。それもたったの5段くらいだったはずだ。
それに両手がもげるほどの大事故の後でこんな草むらに来る理由が分からない。いや、それとも痛みで暴れるから手を拘束具のようなもので固定されているのだろうか。いやいや、手の感覚そのものがない。
違う。違う違う。もっと重大な事がある。
視界が、異様に低い――。
さっきからいくら当たりを背伸びをして辺りを見回してみても、目線が地面から50センチか60センチくらいしかない。もしかして体の状態が悪すぎて頭に直接足を取り付けたのか?
いや待て落ち着け、動転するな、そんなワケない。ありえないって。
心が落ち着くように自分に語りかけながら遠くの方を見ていると、宙に何か四角いものが浮いているのが見えた。その先には、切り立った崖。いや、地面を引き裂いたようなクレバスの様なものがある。おかしい、あんな場所なんて住んでいた場所では見たことがない。夢でも見ているのか。
「なんだ? あれ」
どうも気になって仕方が無くなり、幸いな事に足は動くから歩いてそっちの方へ向かう。しかし、遅い。遅すぎる。
――遅すぎる。
「そうだ、遅すぎたんだ」
妻にはもう10年も前に逃げられた。
逃げられた、なんていうのはお門違いか。愛想をつかされたんだ。
今年で35歳になるというのに、妻がいなくなったあの時から何も進歩していない。
毎日毎日面白くない仕事をして、給料が入ると生活に必要な分以外は趣味に使ってしまう。そんな僕に愛想をつかすのなんて当たり前だ。
妻は僕の趣味なんて知らない。言えるはずない。SMクラブに行って女王様に踏まれる事だなんて。
趣味にお金を使っているというのに家には何かモノが増えているわけではないし、高級な物を身に着けているわけではない。怪しんだ妻が僕を尾行していて、そんなことに気が付く由もなかった僕は、まんまとクラブから出るところで妻に遭遇した。
憤慨する妻に『やり直そう』と言って土下座する僕を、妻がヒールで足蹴にした時、僕は詫びの気持ちなんてものより、『気持ちいい』と思ってしまっていた。そんな僕が許されていいはずない。
これは、きっと罰なんだ。
妻に逃げられた僕は、やけになってクラブに通い倒した。やけになって踏まれ倒していた僕は神様にさえ愛想をつかされてこんな草原に――。
昔の事を思い出しながら首――いや、胴体だろうか。とにかくその辺を動かして空に浮かんだ不思議な四角い物体を眺めていると、それは来た。
「……だれか、来る」
そう言えば自分の声はなんだか掠れたようだ。以前はもっと美声とまではいかないにしろスムーズに話せたはずだ、今は動かない声帯を無理やりに動かしているみたいでしゃがれた声だ。飲み過ぎたか?
とにかく、良く分からない状況でこちらに走ってくる男性、だろうか? じっとその姿を見ていると強烈に恐ろしいと感じてくる自分に気付いた。
「まずい……逃げ、逃げなきゃ」
赤を基調とした服を着て立派な口髭を生やしたおじさんが猛烈にこちらの方に向かって走ってきているのを見て、足がすくんだ。でも、逃げなきゃいけないという事を本能が強烈に主張してくる。
「逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ……」
怖気づいた心を奮い立たせて震える足に力を込めて、ようやく足が一歩前に動き出したら、そこからは全力で走った。丁度いいところにあった植栽の影に隠れて様子を見ていると――すると例のおじさんはあろうことか空に浮いている四角い箱のようなモノを狂ったように飛び跳ねて思いきり何度も何度も拳で叩き始めた。
「……頭がどうかしてんだ、あのおじさん……いや、嬢に踏まれる事に人生を捧げた僕の方がどうかしている、か――」
何度も宙に浮いた不思議な箱を執拗にどつきまわしたおじさんはついに満足したのか、地面に落ちている何かを拾い集めているみたいだ。
「なんだってんだよ、何を拾っている? 小銭?」
草葉の影から注意深く観察していると、どうやらおじさんはあの四角い物体をしばき倒して現れた小銭を拾い集めている様子だった。
息を殺してその常軌を逸した行動を見ていると再び、おじさんは走り出した。
走り出した先は、さっき見つけた大地の裂け目だ。
「ちょ、ちょっと待てってば! 危ないぞ」
まさかあれを飛び越える気か!?
階段から落ちただけで大惨事になるのに、あんなところからうっかり落ちてしまったら――。
そして予想通りというか期待通りというか、とにかくそのおじさんは跳躍が足りずに、まんまと大地の裂け目に吸い込まれていった。
「お……おいっ! 大丈夫か!?」
――ぷるぷるっ、ててってててっててー。
確かにそんな音だった。そんな音が周囲に響いたんだ。
すると視界に靄がかかり、視界がぐにゃりと歪む。
やっぱり頭を強く打っていたか、麻酔の副作用で幻覚でも見ているに違いない。
「一体僕はどうなってしまったんだよ! 誰か――」