20話 真偽の行方
『――あれは…なんだ』
進もうとした足が、自然と止まる。
ヴォルグの視界に映ったのは、アマリエの足元に纏わりつく黒い靄だった。
靄は生き物のように蠢き、彼女の影と溶け合って見える。
『あなたの思い通りにはならないわ!』
怒気を孕んだアマリエの叫び。
その視線の先には、一羽の鴉がいた。
アマリエの足元の靄よりも、より一層深い闇がその鴉には纏わりついている。
――理屈ではなく、本能が警鐘を鳴らした。
(……何が起きている…?)
理解が追いつく前に、ヴォルグの足は止まったままだった。
アマリエが、あれほど剝き出しの敵意を向けている姿は一度も見たことがない。
ふいに、彼女は両手を胸の前に重ねた。
ほとんど聞き取れないほど、短く言葉を漏らす。
『ーー』
その刹那、彼女に纏わりついていた黒い靄は、音もなく搔き消えた。
――静寂。
それを破ったのは、乾いた音だった。
『……素晴らしい』
拍手の音とともに、初めて“そこにいた”と知らされる。
それまで、ヴォルグの視界に一切映っていなかった存在――フードを目深く被った人物が、いつの間にか彼女の傍に立っていた。
『さすがですね…』
わずかな間を置いて、続く言葉。
――聖女様。
その呼び名に、ヴォルグは息を吞んだ。
(まさか…)
フードの人物が、崩れ落ちたアマリエへと歩み寄る。
(!!)
その瞬間、思考は途切れた。
◇ ◇ ◇
『アマリエ=ヴィヴィオルド』
イオロスの村近辺に現れたアンデッドの軍勢と交戦中、別の方向に現れたアンデッドの討伐の最中、崖から落ちたとされる――
『イレーネの実の妹』
聖女の付き人として、神殿に仕えていた上級神官。
別方向から現れた、アンデッド。
それに対するイレーネと同行していた騎士たちの不自然な言動。
――不審な点が多かった。
ヴォルグは自らの足で現場を調査したが、結局真相には辿り着けなかった。
それでも――イレーネに対する不信だけは、確実に残った。
そして、間一髪で自分を救った、あの魔法陣。
魔法に造詣の深いヴォルグにも正体が掴めなかった。
いや、そもそも――あれは魔法の類すらなかった。
アレンのもとへ向かう途中、内に宿る精霊が告げた言葉が脳裏によぎる。
『別の力がお前に入り込んだ』
そして今。
決定打は、ヴォルグの目の前で起こった。
――もう、偶然では済まされない。
◇ ◇ ◇
「マリエ…君は……誰なんだ」
彼女には、聞きたいことが多くある。
『マリエ』と名を偽ったこと。
そして、なぜ自らが“聖女”であることを偽るのか。
それは重罪だ。
彼女ほどの聡明な人物が、それを知らないはずがない。
(いや。もう真偽なんて、どうでもいいんだ………ただ)
ヴォルグは眠る彼女の顔を見ながら、己の手を強く握りしめた。
(僕の前にいた君は…すべて偽りの姿だったのか…?)
もし、すべてが偽りだったとしたら。
きっと、ひどく落胆する。
――だが、なぜだ。
他人に失望することなど、今まで何度もあった。
人の思惑に振り回されることにも、慣れていたはずだ。
――それなのに。
なぜか、彼女だけは違う。
その答えは、彼女の口から聞くしかない。
だが、彼女から真実を聞いたとき、
この感情は――果たして、どちらへ傾くのだろうか。
◇ ◇ ◇
「三日…」
アマリエが眠り続けて、三日目になる。
「嬢ちゃん、本当に目が覚めるのか? このまま…」
「馬鹿言ってんじゃないよ!」
女将は即座に、弱気の店主に喝を入れた。
「目ぇ覚ますに決まってるだろ!あの子が帰ってきたら、腹いっぱい食わせてやるんだ。あんたは余計なことを考える暇があったら仕込みでもしてな!」
◇ ◇ ◇
「マリエさん、大丈夫かな」
ミハエルが視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「大丈夫だって。あいつ、お前が思っているほどやわじゃねぇよ。俺が認めたやつだしな」
バッカスは大剣の手入れをしながら、軽く笑った。
「貴様の言うことは当てにならん……が」
リエッタは一拍置いて、弟の肩にそっと手を置く。
「大丈夫だ。きっと良くなる」
◇ ◇ ◇
「……ん…」
微かな声とともに、アマリエはゆっくりと瞼を開いた。
白い天井が、ぼんやりと視界に映る。
(…また、同じ…)
以前にも似たような目覚めがあった。
その既視感が胸をかすめた、その時――
「マリエさん」
すぐ傍で名を呼ばれて、アマリエはそちらへ視線を向ける。
椅子から立ち上がったヴォルグの姿が、目に入った。
「ヴォルグ様…!」
反射的に身体を起こしかけ、
次の瞬間、強い眩暈に襲われる。
「っ……」
思わず額を押さえたアマリエの肩を、ヴォルグがすぐに支えた。
「無理をしないでください」
そう言って、彼はそっと彼女を寝台に寝かせる。
「…どこか、怪我は…?」
アマリエのその言葉に、ヴォルグはわずかに目を見開く。
そして、苦笑とも、微笑みともつかない――穏やか表情を浮かべた。
「…大丈夫。…マリエさんのおかげで僕は無傷です」
「そう、ですか…よかった」
その返答を聞いた瞬間、アマリエの表情は緩む。
枕に深く頭を預け、深い息を吐いた。
「…マリエさんも、無事で本当に良かった」
ヴォルグの声には、静かな感情が滲んでいた。
「……旧市街は…どうなりましたか?」
「鎮火しました。ただ…焦土のような有様です」
一瞬だけ言葉を選び、ヴォルグは続ける。
「ですが…街長が住民への手厚い対応を約束してくれました。ですから、心配はいりません」
穏やかな微笑み。
それでもどこか、政治的な影がちらつく笑みに、アマリエはそれ以上を問うことができなかった。
「……そうですか」
そう答えた声は、ぎこちなさを隠しきれない。
「街のことは、もう大丈夫です。今は自分の身体を第一に考えてください」
優しく、しかしきっぱりと告げられ、アマリエは素直に頷いた。
「……そろそろ、失礼します」
「あ…すみません。ご迷惑を…」
言いかけて、言葉に詰まる。
忙しいはずの彼が、目覚めるまで傍にいたことは明らかだった。
(……どのくらい、眠っていたんだろう)
彼の声に安心した途端、意識が途切れた記憶しかない。
――あの鴉。
――クロウと名乗った男。
思考が巡りかけた、その時。
「お気になさらず。それと…二日後、僕はここを発ちます」
ヴォルグの言葉に、アマリエははっと顔を上げた。
「その前に……貴女の時間を、少しだけもらえませんか」
――ヴォルグの目は、真剣そのものだった。
アマリエはすぐ悟った。
「…はい」
しっかりと受け止める。
――それだけで、十分だった。
ヴォルグは静かに一礼し、その場を後にした。
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