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19話 傾かない天秤


「あの魔法陣は…」


 アマリエのもとに向かって走りながら、ヴォルグは先ほどの光景を反芻していた。


 考えられるのは――

 追手をやり過ごすため、身を潜めていた家屋で別れる直前の、あの出来事。


 ――呼び止められ、胸に手を当てられた、あの瞬間。


「…防御、いや……」


 魔法ではない。

そう断じたのは、理屈ではなく感覚だった。 


 他者の魔力が体内に流れ込めば、どれほど微量であっても違和感が生じる。

 しかし、あの時は何も感じなかった。

 異物感も、魔力の波も、何一つ。


(……それなのに、刃を折るほどの干渉が起きた)


 距離もあった。

 市街地と旧市街の外れ――容易に届く範囲ではない。


(…魔法でも、精霊の力でもない)


 胸の奥に、嫌な予感が広がる。


「……だとすれば」


 ヴォルグは、黙って前を見据えた。





   ◇ ◇ ◇   





「皆さん、落ち着いて。火の手はまだここまで届きませんから」


 アマリエは混乱する住民を、市街地に繋がる橋へと誘導していた。

 声を張り上げることはしない。

必要以上に不安を煽らないよう、あくまで穏やかに導く。


 ひと通りの誘導が落ち着いた頃、ふと心の奥に引っかかるような感覚が生まれた。


「ヴォルグ様……」


 無意識に、その名が零れた。


 その瞬間。


「っ!」


 頭の奥を貫くような鋭い痛みが走った。


 視界が一瞬、揺らぐ。

 アマリエは思わずよろめき、近くの家屋の壁に手をついた。

 しかし力が入らず、そのまま崩れるように膝をつく。


(……なに…)


 こめかみを押さえながら、荒く息を吐く。

 

 鼓動が早い。

 思考が追いつかない。


 けれど。


(ああ…これが――)


 “禁忌”の代償なのだろう。


 ――ヴォルグに施した、神の加護。


 本来、神の力は人に分け与えるものではない。

 それを、他人に与えた。

 

 ――その行為は、禁忌だ。


 だから、この痛みは“罪”なのだ。


(……でも)


 後悔はない。


 これは誰かに命じられたことではない。

 誰かに強いられた選択でもない。

 自分が、自分の意思で選んだことだ。


(それより…ヴォルグ様)


 加護が発動したということは、彼の身に“何か”が起きたということ。


 怪我をしているかもしれない。

 あるいは、もっと深刻な事態かもしれない。


 ――だったら。


 アマリエは歯を食いしばり、壁に縋りつきながら、立ち上がった。

 ふらつく足で、一歩ずつ前に進む。


 逃げるように言われた。

それでも、行かないという選択肢はなかった。


 そのとき――


『さすガ、聖女』


 頭上から、(しゃが)れた声が降ってきた。

 アマリエは、反射的に顔を上げる。


『無能と言わても、助けに行くカ。…素晴らしい自己犠牲だナ』


 いつの間にか、屋根の縁には一羽の鴉が止まっていた。


『……実に偽善者じみてイイではないカ』


(穢れ……)


「まァ、それが聖女の(さが)なのだろうナ」


「……あなた、誰なの?」


「視えるんだろウ?オ前には、我の穢れガ」


 アマリエは、生唾を飲む。


 やはり――

 これだけの【穢れ】に侵されていて、普通の生き物であるはずがない。


『あア、お察しの通リ…コレは死体ダ。……人間の死体よリ、こっちの方ガ……“依代”にするには楽でナ』


 アマリエは、思わず息を呑んだ。


 穢れを纏った存在。

そこから導かれる“鴉の正体”に、背筋が凍えた。


「どうして…ここに……?」


『なァに、単なる“暇つぶし”ダ』


(暇つぶし……)


 その一言に、一瞬で胸の奥に怒りが満ちた。

アマリエは静かに、しかし相手を強く見据える。


「この状況を作ったのは、あなたなのね…」


 鴉があざ笑うように、一声鳴いた。


『それガ、どうしタ?』


「っ! この火事のせいで、たくさんの人が傷ついたわ!!」


『ハッ!所詮、捨てらレた魂の吹き溜まリだろウ?法も、秩序も守れズ、奪ウ、他人ヲ傷つけるダケの底辺共」


 甲高い鳴き声が夜気に響く。


「人間共ガ手を焼いてきた厄介事ヲ、”神で在る我”が手助けしテやったのダ」


 まるで『むしろ、感謝するべきだろう』と言わんばかりに――。


 アマリエは、奥歯を噛み締めた。

 鴉が、ひときわ高く鳴く。


『それナのに…オ前の神は見て見ぬふリ……』


「それは!!」


『結局のトコロ、神ハ愚か者に救いの手ヲ差し伸べたりシない』


 鴉は、ようやくアマリエへと視線を向けた。


『…全テ奴の気まぐれ、なのダ。…オ前は、単なる暇つぶしデ飼われてるダケに過ぎン』


「……」


『“上”デ眺めテいるダケの神と、手ヲ差し伸べる我と…どちらガ素晴らしイ神なのダろうナ?』


 ――こんなの只の挑発だ。


 『神』が干渉しないのは、この世界の均衡を破壊しないため。


『いい目ダ。……我はナ、人間の持つ信念とやらガ、その不屈の心ガ、折レた時の…絶望した目ヲ見るのガ、堪らナく好きなのダ』


「あなたの思い通りにはならないわ!」


 アマリエは一蹴した。


 彼女の澄み切った青い瞳――その奥に、煌々と燃える炎が垣間見えた。


『ソレは壊し甲斐がアる。実に楽しみダ』

 

 鴉は、甲高く鳴いた。


「――あの…」


 その時だった。


「そろそろ、私が発言してもよろしいでしょうか」


 場違いなほど穏やかな声が、二人の間に割って入った。


 アマリエがはっとして振り返ると、そこには漆黒のマントを深く被った人物が立っていた。


 顔は影に隠れ、表情は窺えない。


 一瞬、別の人物の面影が脳裏をよぎる。

だが、声だけでわかる。――違う。


『あぁ、許ス』


「ありがとうございます。では……お目にかかれて光栄にございます、聖女様」 


 フードを被ったまま男は、アマリエに向かって恭しく一礼を取った。


「失礼。事情があり、フードを被ったままの姿であること、どうぞお許しください」


 その声は、あくまで穏やか。

 アマリエに対しての敬意も込められている。

 しかし男の存在に背筋が泡立つ感覚がし、アマリエの不安をさらに煽った。


「ご安心を。少なくとも“今”は、貴女様に危害を加えるつもりはありません」


「………あなたは?」


「名を誇るような立場ではありませんが……便宜上、『クロウ』とお呼びください」


 穏やかな口調とは裏腹に、その存在は明らかに異質だった。


「今回、貴女のお力を見せていただきたく…それだけのために、こうして馳せ参じた次第です」


「私の…力…?」


 アマリエが、反芻する。


「ええ。ぜひとも」


 クロウがそう口にした、その瞬間だった。


 アマリエの足元に落ちた影が、彼女の意思とは無関係に――ゆらりと歪んだ。


 灯りの揺れでも、風のせいでもない。

 影そのものが、意思を持った生き物のように脈打っている。


「…っ」


 地面に落ちるはずのない“重さ”が足首に絡みつく。

 影はゆっくりと広がり、形を失い、やがて黒い水面のように波打ち始めた。


 ボコリ、と音を立てて、その中心が不自然に盛り上がる。


 そこから――何かが這い出ようとしていた。


 アマリエは声を失い、足を竦ませる。


「聖女…貴女にとっては、ずいぶんと見慣れた相手でしょう。――その尊き力をもって払ってみてください」


 男はあくまで穏やかな声で、そう告げた。


「っ!!」


 アマリエは、それが【穢れ】に類するものだと、悟った。


『…よく見定めて、力を使うことだ』


 ふと神獣の言葉が頭によぎる。


 ――使い道を間違えるな。


 “大切な力を、今ここで使ってよいのか?”


 アマリエは力を使うことを躊躇した。

 

 ――法も守らず、奪い、傷つけてきた者たち。


 堕神の言葉が、否応なく脳裏に残る。


 捨てられた命の吹き溜まり。

 世間から爪弾きにされ、行き場を失った者ばかりが暮らす旧市街地。


 善良とは言えない。

 むしろ、悪と呼ばれる側の人間たちだ。


 命に優先順位をつけるなら、最も後回しにされる存在。


 ――それでも。


 人々の安寧のために、等しく救う。


 それが、聖女に課せられた役目だ。


 だが今のアマリエは、力を制限されている。

 守るものと、捨てるものを――自らの判断で選ばなければならない。


 もし、その判断を誤れば――


 “本当に必要な時に力を使えなくなるかもしれない”


 “ここで使えば、力を失うかもしれない”


 それは、世界を壊すことにも繋がる。


 結局――彼女の天秤は、傾かない。


『フフ……』


 鴉は、小さく含み笑いした。


『人ヲ、物事ヲ、己の天秤にかける。今のオ前は、さながら神のように傲慢だナ』


「っ!!」 


 その言葉に、アマリエは咄嗟に言い返した。


「違うわ!私は人々の命を推し量ったり、(もてあそ)んだり絶対にしない!」


 挑発だ。理性では、わかっている。

 

 ――それでも。


 結局、感情が先に動いた。


 アマリエは胸の前に両手を重ね、強く目を閉じた。


浄化(ピュリファイ)


 淡い光が、波紋のように広がっていく。

地を這っていた影は、光に触れた瞬間――音もなくすべて搔き消えた。


 ――完全に払われた。


 だが、その直後。


「…っ……」


 先ほどの頭痛とは、比較にならないほどの強烈な痛みが頭を貫いた。 

視界が大きく揺れ、足元が崩れる。


 アマリエは膝から崩れ落ち、その場に(うずくま)った。


 呼吸が乱れ、地面に突きたてた指先が震える。


「素晴らしい」


 乾いた拍手の音が、耳に響く。


「さすがですね、聖女様」


 クロウの声は、どこまでも穏やかだった。


「しかし――私は見誤っていました。あなたのその力――」


 蹲るアマリエの頭上に、影が落ちる。


「――我々にとって、間違いなく“脅威”になり得る」


 その言葉は、宣言だった。 


 アマリエは顔を上げることができない。

 身体が言うことをきかない。


 その時――空気が、変わった。


 “バチッ”


 炎を纏った紫電が、大きく弾ける。


 同時に――

 アマリエの足元から、白い蔦が静かに伸び上がった。

 本来なら命さえ奪うはずの棘が、それにはなかった。


 ――まるで繭のように、彼女を包み込む。


「――アレン…足止めにもならなかったか」


 クロウは手袋越しに、掌をゆっくり擦りながら、前方を見据えた。


「ヴォルグ=ロバルンレット」


「離れろ」


 ヴォルグは肩で息をしながら、男に向かって刺すような鋭い眼光を向けていた。


「…ふむ。ここが引き際ということですね。…まぁ、力を見せて頂いたことですし、もう十分だ」


 クロウはヴォルグを見据えたまま、あっさりとそう言った。

 次に、アマリエを見下ろす。


「それでは、アマリエ(・・・・)さん、またお会いしましょう」


 クロウは洗練された一礼を取った。


 一歩、後ろへ退く。

 その足元で、影が静かに揺らぐ。

 まるで底の見えない水面のように――黒が波立つ。


 次の瞬間、彼の身体は足元から、音もなく沈んでいった。


 そして――

 そこにはもう、何も残っていなかった。

 

 それを確認し、ヴォルグはすぐさま蹲るアマリエのもとに駆け寄った。


「マリエさん!」


 アマリエを抱き起こす。


 彼女の意識は――既になかった。


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