15話 王子の回顧
(……静かだ)
旧市街地の外れへ向かって走るヴォルグは、ふと異変に気づいた。
(ざわめきが……消えた…)
幼い頃から当たり前のように耳にしてきた喧騒が忽然と途絶えている。
今はそんなことを気にしている場合ではない――それは分かっている。
それでも、無理に思考の端に押しやろうとするほど、意識はそこへ引き戻された。
『落ち着け』
呆れたような低い声が、直接脳裏に響く。
「……分かっている」
ヴォルグは、奥歯を嚙み締めた。
こんな時に動揺する自分自身が、ひどく未熟に思えた。
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ヴォルグがそれと契約を交わしたのは、今から一五年ほど前に遡る。
『ねぇねぇ、遊ぼうよ』
『あっちにユセラの花が咲いてるよ、一緒に見に行こう!』
『こっちの方が、もっと面白いものがあるよ!』
無邪気で楽しげな声。
そこに悪意がないことは、幼いヴォルグにも分かった。
それでも――
『……うるさい』
ヴォルグは毛布を頭から被り、目を閉じて両耳を塞いだ。
時刻は深夜。幼子ならば眠っているはずの時間だというのに、彼らは執拗に誘ってくる。
眠りを妨げ、隙あらば髪や身体に纏わりついてくる存在。
――不快で、恐ろしくて堪らなかった。
彼らが、何なのかは分からない。
父や臣下に尋ねても、皆一様に首を捻るばかりだった。
大人たちは、それを「子供特有の空想の友達」だと決めつけ、適当にあしらった。
(誰も、僕のこと……分かってくれない)
“自分にしか見えない”という事実は、ヴォルグを強い孤独へと追いやった。
やがて彼は、少しずつ殻に閉じこもるようになっていた。
そんなある日。
ヴォルグは一人になれる場所を求め、城の外れへと足を運んでいた。
捕獲してきた動物を放ち、貴族が狩りを楽しむための区画。時季外れの今は、誰の姿もない。
――最近見つけたお気に入りの場所だった。
柵の下をくぐり、奥に進むにつれて、不思議なことに彼らの気配は薄れていく。
この場所では、彼らは近づいてこない。
ヴォルグにとって、唯一安らげる場所だった。
――その日は教育係が体調を崩し、予定がすべて白紙になった。
葉同士が擦れ合う音と小鳥のさえずり以外、何も耳に入ってこない。
そこに人の気配はなく、自分だけが世界に取り残された錯覚を覚えた。
青く茂った枝葉が作り出す木陰は涼しく、とても心地よい。
その静けさに誘われるように、気づけばいつもより奥へと足を進めていた。
やがて木々の切れ間に出る。
そこには、大きな沼が広がっていた。
『…すごい』
澄んだ水面が、空と曇を映している。
『ここは……動物たちの水飲み場なのかな』
人工的に作られた動物たちの水場――
狩りのために作られた場所だと、すぐに察した。
――もしかしたら、獰猛な動物がいるかもしれない。
警戒しながら池へに近づいた、その時。
『ねぇ! 戻ろう!!』
少女の声と同時に、腕を強く後ろに引かれた。
振り返ると、蝶のような翅を持つ小さな人型の存在が、必死な表情で掴んでいる。
鬱陶しくなり、ヴォルグは肩を回し、その腕を振り払った。
『もう、知らない!』
怒ったように頬を膨らませ、その存在は瞬く間に消えた。
――本当に、誰もいなくなった。
ヴォルグはその場にしゃがみ込み、池を眺める。
『ねェ…? さっきのあれが、なんだか知りたいィ…?』
背後から、ねっとりとした低い声。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
振り返ると、長い黒髪の女が立っていた。
『……あなたにも、あれが見えるの?』
恐る恐る尋ねると、女はゆっくりと頷いた。
『えェ、見えるワ』
同じものが見える――その事実に、ヴォルグの警戒心はわずかに緩んだ。
『あれは何なの?』
女は紫色の薄い唇に、弧を描いた。
『…教える代わりに私に……貴方の「ーー」を、ちょうだィ?』
『え?』
突風が吹き、言葉の一部が掻き消えた。
『あなたほど、上質な宿主、なかなかいないワ』
嫌な予感、ヴォルグが後ずさる。
だが、女の青白い手が手首を掴んだ。
『だから…ねェ…? その身体ちょうだィ…な……』
女の身体が陽炎のように揺らき、溶けるように変質する。
半透明の粘液となり、触手が裂け――ヴォルグを包み込んだ。
(……苦しい)
息ができない。
もがくように酸素を求め、反射的に口を開いた瞬間、どろりとした液体が喉に流れ込んできた。
(っ……!)
思わず、口を閉ざす。
だが肺は空気を欲し、胸の奥が重く、押し潰されるように痛む。
まるで泥水の中に沈められているようだった。
視界が歪み、耳鳴りがする。
手足をばたつかせたると、粘りつく抵抗がまとわりつく。
動けば動くほど、確実に肺の中の酸素が失われていく。
胸が脈を打つ。
心臓がうるさく跳ね、意識が遠のいていく。
(だ、誰か……助けて)
必死に、手を伸ばした――その瞬間。
『小僧、助けてほしいか?』
低く、澄んだ声。
迷いなく、ヴォルグは頷いた。
『いいだろう』
その瞬間――
ジュウ、と灼ける音とともに女の身体は蒸発した。
『ぎゃぁぁああアーーーー!!』
断末魔とともに、鳥たちが一斉に空へ飛び立った。
「……はっ…はっ…」
ヴォルグは地に膝をつき、荒い息を繰り返す。
そこへ、赤髪の男が近づき、片膝をついた。
『あれは悪しき精霊だ』
『………え?』
『お前は、善悪の区別なく精霊を引き寄せる体質らしい』
『……せいれい?』
『お前のような者を、精霊たちは『愛し子』と呼ぶ』
琥珀色の鋭い眼光。
褐色の肌に、燃えるような赤い髪。
身に纏っているのは、どこか異国の民族衣装を思わせる一枚布。
胸元は大きくはだけ、引き締まった体躯が惜しげなく晒されている。
首元には、金色の装飾が連なった重そうなネックレスが幾重にも掛けられ、動くたびに微かな金属音を立てて揺れた。
人の形をしているのに――その存在感は明らかに異質だった。
まるで猛禽のような眼光に射竦められ、ヴォルグは無意識に息を呑んだ。
『……まぁ、追って話してやろう』
『?』
『短い寿命だが、暇つぶしにはなる』
男は、不敵に笑った。
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