4話 聖女の覚醒
無事、宿屋へ辿り着いたアマリエが案内されたのは、ベッドと机が置かれただけの質素な部屋だった。
一日中、ずっと気を張り続けていたせいか、部屋に入った途端、安堵とともに疲労がどっと押し寄せる。
アマリエはベッドへ身を投げ出し、柔らかな枕にそっと顔を埋めた。
洗いたての石鹸のほのかな香りが、張り詰めていた気持ちを少しずつ和らげていく。
しばらく何も考えずに、寝返りを打ってみるものの、眠気はなかな訪れなかった。
頭の片隅へ無理やり押し込んでいた不安が、じわじわと思考を侵食していく。
(……これから、どうすればいいの)
自分を殺そうとした姉のもとへは、もう戻れない。
イレーネが、なぜ「自分はもう必要ない」と言い出したのか分からない。
聖女の力を扱えるのは自分だ。
イレーネが“聖女”を演じ続けるには、自分が必要なはずだった。
――それなのに、なぜ。
(お姉様……何を考えているの?)
直接問いただすべきなのは分かっている。
けれど、実の妹へ手をかけることを厭わない相手だ。
今すぐ会ったところで、恐怖に足がすくみ、何も言えなくなるのは明らかだった。
考えたところで、答えはすぐに出せない。
それより今は、自分の使命に向き合うことが先だ。
イレーネのことを頭の隅へ追いやり、神獣が告げた言葉を思い返す。
『…お前には、ひとまず地上界で“堕神に加担している者”を探してほしいのだ』
『…ひとつ忠告だ。浄化は今から、お前の器に残っている神力のみで賄うしかない。よく見定めて力を使うことだ』
アマリエは仰向けになると、そっと右手の手袋を外した。
天井へ掲げた手の甲には、聖女の証である【聖紋】が刻まれている。
その輝きが、いつもよりわずかに薄れているように見えた。
これが完全に消えた時、浄化の力を失うということなのだろう。
「これからは……大事に力を使わないとね」
アマリエは聖紋をそっと撫で、自分に言い聞かせる。
考えを整理できたおかげか、ようやく眠気が押し寄せてきた。
重たくなった瞼がゆっくりと下りていく。
窓の外では、空がわずかに白み始めていた。
その淡い光を最後に捉えながら、アマリエは静かに眠りへ沈んでいった。
◇ ◇ ◇
静かな寝息とともに、右手の甲が淡く青白い光を帯びる。
その微かな輝きは、彼女の閉ざされた記憶の底を静かに照らしていった。
深い水底に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がる。
――それは、まだ幼かった頃の記憶。
その日、クロードは血まみれの状態で家に運ばれてきた。
本来は滑らかな茶色の毛並みをしている老犬の横腹には、べっとりと濃い血がこびりついている。
牙の覗く口からは舌がだらりと垂れ、呼吸は浅く、瞳の焦点も定まっていなかった。
父が大切に育てた狩猟犬――クロード。
アマリエが物心つく前から、ずっと側にいてくれた存在だ。
姉ばかり可愛がり、自分にはほとんど関心を向けない両親に代わり、クロードだけがいつも側に寄り添ってくれていた。
寂しくて泣いている時には、ぺろりと涙を舐めて慰めてくれた。
アマリエにとってクロードは、友達であり、兄のような家族だった。
利口で、穏やかな性格のクロードも、ここ最近は無駄に吠えたり、呼んでも反応が鈍かったりと、すっかり老いてしまっていた。
そのため父は、「最後の狩猟だ」とクロードを連れて山へ入った。
だが運悪く、巣ごもりに失敗して凶暴化した大熊に遭遇してしまったのだ。
クロードは父を守るために立ち向かい、重傷を負ってしまった。
アマリエは必死でクロードの患部に手を当て、治癒魔法をかけ続けた。
だが、傷が一向に塞がらない。
圧倒的に力が足りなかった。
自分の無力さが、腹立たしいほどに憎らしい。
(主よ……どうか……どうか、クロードを助けてください!!)
アマリエが、何度目かも分からないほど強く願った――その時だった。
右手の甲が、急に熱を帯び始めたのだ。
――もっと、強く願え。
誰かの声が、頭の内側を揺さぶるように響く。
藁にも縋りたい思いだったアマリエは、さらに強く願った。
縋れるものなら、それが悪魔でも構わない。
“クロードを助けたい”
それだけだった。
すると、手の甲が淡く光り、青い紋章が浮かび上がる。
同時に、頭を鈍器で殴られたような激痛が襲った。
『……くっ!!』
経験したことのない痛みに、アマリエはその場へ蹲り、頭を抱える。
視界がぐしゃぐしゃに歪む。
堪らず瞼をきつく閉じると、その裏側に見たこともない文字の羅列が次々と浮かび上がってきた。
『お嬢様、どうされました!?』
駆け寄ってきた使用人の声が、ひどく遠くに聞こえる。
(……頭の中を、かき混ぜられている……みたい… )
だが、激痛の波は嘘のようにすぐ消え去った。
再び、“あの声”が頭の内側から響く。
――聖女の力を示せ。
その声に導かれるように、アマリエはクロードの腹部へ手を伸ばした。
頭に流れ込んだ文字列を思い出しながら、静かに詠唱する。
『我が身に宿る、大いなる神の祝福よ。 失われし命の灯を繋ぎ、あるべき姿へと導け』
その瞬間、光が弾けた。
クロードの抉れた傷が、みるみるうちに塞がっていく。
『アマリエ、すごいぞ!!』
父は、驚きと喜びが入り混じった声で叫んだ。
――いつも冷たい父が、初めて自分を褒めてくれた。
胸の奥が、じんわりとした温かさを帯びる。
傷が完全に消えると、クロードはふらりと起き上がった。
そして、いつものように泣き顔のアマリエの涙をぺろりと舐める。
『クロード……本当によかった……!』
アマリエは、小さい身体で老犬を抱きしめた。
その温もりに、安堵と喜びが胸いっぱいに満ち溢れるのだった。
それが、アマリエに“聖女”としての運命を与えた最初の奇跡だった。
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