【コミカライズ】婚約破棄されたら、妖精とおしゃべりできるようになりまして……
「小娘、こんなところで何をしている」
夕方の砂浜で私がうずくまっていると、高い位置から声がした。反射的に顔を上げる。そして、口を開けてしまった。
そこに立っていたのは一人の青年だった。地面に届きそうなくらい長い薄緑の髪と瞳。背中には、トンボを思わせる羽が生えている。
けれど私が驚いてしまったのは、彼が異形だったからではない。私は立ち上がり、青年との距離を詰めた。
「言葉、話せるんですか!?」
「話せる」
「じゃあ、私の話してることも分かりますか!?」
「……分かる」
やや間を置いて返ってきた返事に、私は有頂天になった。密かに憧れていた妖精さんとおしゃべりをしている。その事実に何よりも感動していた。
****
私には特別な能力があった。『妖精』を見ることができるんだ。
といっても、今までに私が見たことのある妖精はたった一人だけ。それが、今目に前に立っている青年だった。
「ここへは何をしに? 観光? それとも近くに巣が?」
私は興味津々で青年に話しかける。彼は困ったように眉根を寄せた。
「……何だ、元気じゃないか」
「元気? 当然です! 私、ずっとあなたとお話ししたいって思ってたんですから!」
彼と初めて会ったのはどのくらい前だったか。少なくとも、物心ついた時にはすでにその存在を知っていた気がする。
彼は毎朝同じ時間に私の家の上空を飛んでいくんだ。そんな彼を庭から眺めるのは、幼い頃からの私の日課だった。
だって、彼が飛ぶ姿は本当に綺麗だから。朝日を受けた羽が煌めき、長い髪が優雅になびく。そんな美しい光景が私にしか見えないなんてもったいない、といつも思っていた。
もちろん、ただ見ているだけじゃなくて、手を振ってみたり、「おはようございます!」と挨拶してみたりもする。でも、それに返事があったことなんかこれまで一度もなかった。
だから私は、てっきり人間の言葉は妖精には通じないと思っていたんだ。なのにこんなふうに普通にお話ができるなんて……。なんて素晴らしいんだろう!
私は青年の周りをグルグルと回った。
「この羽、こんな模様がついてたんですね~! それに不思議な髪の色! 染めてるわけじゃないんですよね? ……あっ、尻尾とかも生えてるんですか?」
私は青年の服をまくり上げようとした。でも、「やめないか」と腕を掴まれて止められる。私は顔を輝かせた。
「きゃー! 妖精さんに触ってもらえたー!」
「……喜ぶようなことか」
青年は呆れ顔だ。私はニコニコしながら「喜びますよ!」と言った。心臓の鼓動が早くなってくる。
「私、フュリーっていいます! 妖精さんのお名前は? それに、あなたって何の妖精なんですか?」
花の妖精、森の妖精、川の妖精……おとぎ話なんかには色々な妖精が出てくる。でも、彼が何を司っているのかは見た目では分からなかったから、私はよく様々な可能性を想像しては楽しんでいたんだ。
「私の名はネメシスだ。……何の妖精か、か。そうだな……」
青年は腕組みした。
「……今のお前に一番ふさわしい妖精、かな」
「私にふさわしい?」
「……復讐だ」
首を傾げる私に対し、ネメシス様は重々しく告げた。
「私は復讐の妖精だ」
しん、と沈黙が落ちた。私はネメシス様の整った顔をまじまじと見つめる。そして、呆けた声で尋ねた。
「どうしてそれが『私にふさわしい』んでしょう?」
「どうして、って……」
どうやら私はよっぽど間抜けな質問をしてしまったらしい。ネメシス様が狼狽する。そのまま、辺りに広がっている浜辺を見つめた。
「ろくでもない理由で婚約破棄されたんだろ? それで保養地送りになったと聞いたが……」
「何でそのことを? 妖精さんって物知りなんですね~」
私は目を瞬かせた。
ネメシス様の言ったことは本当だった。ここは海辺にある貴族御用達の別荘地だ。といっても今はシーズンオフだから、辺りに人気はない。婚約破棄の一件で私が皆の好奇の目にさらされないように、お父様が手を打ってくれたのである。
まだここへ来てからそんなに日も経っていないのに、もう私の居場所を突き止めてしまったなんて……。けれど、まだ謎は解けていなかった。
「婚約破棄の件と復讐と、どう関係があるんですか?」
「……なるほど、お前は相当おめでたい奴らしいな」
ネメシス様は感心と呆れが半々といった顔になった。
「どうやらお前には私は必要なさそうだ。用がないのならこれ以上ここにいる意味も……」
「あっ、待ってください!」
私は踵を返そうとするネメシス様の服の裾を掴んだ。
「せっかくお話しできるようになったんですよ? このままお別れなんてもったいない! もう少し一緒にいましょうよ!」
「……悪いがもうじき日暮れだ。夜は私の活動時間ではないと掟で決められている」
「掟? そんなのがあるんですか? それなら今じゃなくてもいいから、またネメシス様に会いたいです!」
「……会いたい? 私と?」
「はい!」
私は力強く頷いた。憧れの妖精さんと触れ合うチャンスなんだ。そんな好機を逃すわけにはいかない。
「……やっぱりおめでたい奴だな」
ひたむきな眼差しを送る私の顔を見つめ、ネメシス様がふっと笑う。その笑みの美しさに見とれていると、ネメシス様の体がふわりと浮き上がった。
「また明日、フュリー」
ネメシス様は空の彼方へと飛んでいく。彼の言葉が、『また会いたい』という私のお願いに対する返事だと気付いたのは、しばらく経った後のことだった。
****
「わぁ~! 本当に来てくれたんですね!」
翌日、昨日と同じ時間に同じ場所へ降り立ったネメシス様を見て、私は心を弾ませた。
「約束したからな」
ネメシス様は風に乱れた長い髪を撫でつけている。私は浮かれながら「お散歩でもしましょう?」とネメシス様の手を取った。
「……お前の体、冷たいな」
ネメシス様が私の指先に視線をやる。「そうですか?」と私は小首を傾げた。
確かにあまり暖かいとは言えない時期だ。ネメシス様が来るまでずっと外にいたから、体が冷えていたのかもしれない。
でも、そんなのは全然気にならなかった。だってネメシス様と会えると思っただけで、ウキウキして燃えるような気持ちになっていたから。
「あっ、見てください、ネメシス様!」
楽しい気分に浸っていた私は、砂浜にあるものが落ちているのに気が付いて胸を高鳴らせる。手にしたそれを、はしゃぎながらネメシス様に見せた。
「……ただの石じゃないか」
あまりにも私が浮かれていたから、よっぽどすごいものを期待していたんだろう。私の手のひらを覗き込んだネメシス様は、拍子抜けしたような声を出した。私は「そんなことありません!」と反論する。
「ほら、よく見てくださいよ! 星形です!」
私は拾った石の輪郭をなぞりながら、うっとりと説明する。
「とっても珍しいじゃないですか! コレクションに加えます!」
私は石をポケットにしまって、その場にかがみ込んだ。
「この辺を探せば、まだ面白いものが見つかるかも……。ネメシス様も一緒にどうです?」
私は砂をかき分ける。その仕草をしばらく見ていたネメシス様が、「まさかお前……」と顎に手を当てた。
「昨日浜辺でうずくまっていたのはそのためか? 変な物を探していた?」
「変な物じゃないです! お宝です!」
私は顔を上げて頬を膨らませる。
「私の趣味なんですよ。旅行へ行った時なんかに、旅先にあるものを持ち帰るのが。変わった植物を押し花にしたりとか、農場で飼われている動物の毛をちょっと分けてもらったりとか……」
「……珍しい形の石を拾ったりだとか?」
私のポケットを見つめながらネメシス様が続きを引き取った。そして、額を押さえる。
「なんだ……泣いていたんじゃなかったのか……。心配して損したな……」
「えっ、心配?」
意外な言葉が出てきて、私の探索の手が止まった。
「ネメシス様……私を気にかけてくれていたんですか?」
「……妖精が人間を気遣ったら悪いのか?」
ネメシス様は気まずそうにそっぽを向いてしまった。私は顔を綻ばせる。
「悪くないです」
私はネメシス様の手に触れた。
「嬉しいです。ありがとうございます」
私がネメシス様のことをあれこれと考えていたのと同じように、ネメシス様も私のことを思ってくれていた。
体の奥が熱くなってくるような事実だった。高揚感に包まれた私は「大好きです、ネメシス様!」と元気な声を出す。
「……素直な奴」
ネメシス様は明後日の方向を向いたまま、つっけんどんとして言い放つ。少し頬が赤くなっているのは私の気のせいなのかしら?
「ネメシス様はどうなんですか? 私のこと、好きですか?」
ネメシス様の顔をもっとよく見たくて正面に回り込もうとした。けれど、それよりも早くネメシス様がしゃがみ込む。
「ほら、コレクションを探すんだろう? 特別に手伝ってやる」
ネメシス様は辺りの砂を手のひらでかき分ける。浮ついた気分のまま、私も「ありがとうございます!」と言ってそれに続いた。
****
「わあ~! ネメシス様、カニさんがいますよ! しかもすごく大きい!」
宝探しから数十分が経過した。岩場を覗いていた私は歓声を上げる。
「お魚も一緒です! 見たことない種類ですよ!」
ポケットをジャラジャラ言わせながらネメシス様に駆け寄る。ネメシス様は私が持ちきれなかったコレクションを、浜辺に落ちていた布きれで包んでいた。
妖精なんだからそんな細々としたことは魔法でやっちゃえばいいような気もするけど、「掟でみだりに力を使ってはいけないことになっている」らしい。妖精にも色々と制約があるようだ。
今日は大収穫だった。いつもなら長い時間粘っても全然面白いものが見つからないこともざらだ。でも、今の私の懐には色とりどりの貝殻やら中に手紙が入っているガラス瓶やらが大量に詰まっていた。
きっと、ネメシス様のおかげだ。
「妖精が幸運を呼ぶって本当だったんですね! 伝承の通りです!」
「伝承、か」
ネメシス様はコレクションの入った包みをきつく縛る。
「人間の間ではそう言い伝えられているのか」
「そうですね。そんなふうに思ってる人が多いと思います。例えば……私の元婚約者とか」
ネメシス様の手が止まる。私は懐かしいことを思い出すように目を細めた。
「ネメシス様……どうして私が婚約を解消されたか知ってますか?」
「詳しいことは……」
ネメシス様の薄緑の瞳が戸惑うように揺れた。こんなことを話題にしてもいいのだろうか、と思っているような表情だ。
そこに彼の優しさが感じられて、私は少し嬉しくなる。
「実は……私があの人に妖精を――ネメシス様を引き渡すのを断ったからなんですよ」
ネメシス様が目を見開いた。私は微笑む。
妖精が見えるという能力を、私は親しい人以外には秘密にしていた。というのも、全ての人が妖精の存在を信じているわけじゃないからだ。
妖精なんかいないと思っている人からすれば、おとぎ話の中の生き物が本当にいると言い張る私は気味悪く映るだろう。変な子だと思われないようにするためのちょっとした工夫だ。
でも、元婚約者にはこの力のことは話してあった。だって、将来結婚する人だから。そんな人に隠し事はよくないかなって思ったんだ。
といっても、彼も最初は半信半疑だったらしい。
そんな元婚約者が「妖精を渡せ」と言ってきたのは、今から半年ほど前のことだった。
「あの人の家、新しく手を出した事業に失敗して借金を背負ってしまったんです」
その額はよっぽど大きかったらしい。一家総出で金策に走り回っていると、他の貴族たちが気の毒そうに話しているのを聞いたことがある。
けれど、そこまでしても必要なお金は作れなかった。そんな時、私は彼に呼び出されたのだ。
――フュリー、お前は妖精が見えるんだろう?
元婚約者は疲れ切った顔でそう切り出した。
――だったら一匹分けてくれよ。妖精は幸運の象徴なんだ。妖精がいたら、借金なんかあっという間に返せるはずだ!
どうやら彼は、かなり行き詰まっていたらしい。現状をどうにもできないもどかしさが、元婚約者に妖精の存在を信じさせる気になったようだ。
彼は身を乗り出し、私の肩をがっしりと掴んで、強い命令口調になっていた。どことなく哀れな光景だった。
でも、私はこう返事したんだ。「それはできない」って。
「そうしたら、怒って婚約破棄されました」
だけど、放っておいても私たちの関係は終わっていたかもしれない。
だって、嫁ぎ先に没落した家をわざわざ選ぶ必要はないから。
「なるほどな……」
ネメシス様は神妙な顔で腕組みしている。
「どうして婚約者に逆らったんだ? それが自分の不利益になるとは考えなかったのか?」
「不利益、ですか。……そういうことはあんまり」
私は首を振る。確かに思い返してみれば、少し軽率な行動だったかもしれない。
だけど、後悔はしていなかった。
「あの人、檻を用意してたんです。妖精を入れておくための」
私は元婚約者が見せてきたものを思い出して眉をひそめた。
それは鳥籠くらいの大きさだったんだけど、間違いなく中に誰かを閉じ込めるために準備されたものだった。それを見た時思ったんだ。この人には絶対に妖精を渡せない、って。
「彼は妖精を監禁するつもりだったんです。そんな光景、見たくありませんでした。だって私、空を飛ぶネメシス様が好きですから」
何にも縛られずに自由で堂々としていて美しくて。名前も知らないし話したことすらなかったけど、私は彼に強い憧れを抱いていた。
檻に入れられたら、あの妖精は二度と空には戻れないだろう。そうなれば、私がこの手で彼の背中の羽をもいでしまったも同然だ。
そんな残酷なことは絶対にしたくなかった。
「私のために……?」
ネメシス様は口元を押さえる。薄緑の瞳が潤んでいた。気分でも悪いのかな?
なんて心配する暇もなく、いつの間にか私の体はネメシス様の腕の中に収まっていた。
「フュリー……」
いきなり抱きしめられて固まっていると、耳元でネメシス様の熱っぽい声がした。
「……どこまでもおめでたい奴め」
もしかしたら私は、妖精の心の声を聞く力に目覚めたのかもしれない。だってネメシス様、本当は『ありがとう』って言いたかったんだって分かったから。
****
それからのネメシス様は少し変わった気がする。というのも、何だか私に対して優しくなったからだ。
「フュリー、下ばかり見ていたら転ぶぞ」
ネメシス様が私の腕を取る。自分の方へ引き寄せて、体を支えてくれた。
私は「ありがとうございます」とお礼を言いつつも苦笑する。どこにも障害物なんか落ちてないのに。こうなってくると、『優しい』と言うよりは『過保護』って感じかもしれない。
今日も開口一番に聞いたセリフは「雨が降りそうだな。屋敷へ戻ったらどうだ?」だった。ちょっと曇ってるだけだから、そんな心配はしなくていいと思うんだけど……。
「フュリー、風邪を引くぞ」
私の肩に手を置きながら、ネメシス様が気遣わしそうに言った。その視線がチラチラと空の方を向いている。やっぱり、まだ雨のことを気にしているらしい。
「私には病気を治してやるような力はないんだ。だから今のうちに暖かいところへ……」
「ダメです! 今日こそは見つけるんです! 虹色の貝を!」
私は首を振った。思い出していたのは、数日前に屋敷の書庫で読んだ本だ。
それはこの地方の民話なんかが収められた書物だったんだけど、その中でも私は、まれに浜に流れ着くという虹色の貝の話に興味を持った。
「だって、人と人の縁を繋ぐ貝なんですよ? ロマンチックじゃないですか!」
要するに、人との仲を取り持ってくれる魔法のアイテムってことだ。そんな素敵なものが身近にあるのなら、手に入れないわけにはいかない。
でも、捜索を開始して何日も経つのに、まだ虹色の貝は見つかっていなかった。珍しいものを引き寄せがちなネメシス様がいれば楽勝だと思っていたのに、予想外の結果だ。
けれど、それがかえって私を燃え上がらせる。妖精がいても簡単には手に入らない品。それくらい貴重なものってことは、その効果もきっと絶大に違いないからだ。
でも、ネメシス様の意見は私とは正反対みたいだった。
「そんなの気休めのまじないだろう。ただの貝にそんな力、あるわけがない」
ネメシス様は冷めた顔をしている。妖精っていうファンタジーな存在なのに、どうやら彼は現実的な思考の持ち主らしい。
私は「でも……」と口を尖らせる。その声がよほど不満そうだったのか、ネメシス様は探るような目つきになった。
「まさか、実在するのか分からない貝に頼ってでも仲良くなりたい相手がいるのか?」
「いますよ? ネメシス様です」
ネメシス様、何を当たり前のことを聞いているんだろう?
「私、ネメシス様とずっと一緒にいたいんです。だから人との結びつきを強くする貝が欲しくて……」
私は言葉を切った。ネメシス様が何か言いたげな表情で、私をじっと見つめているのに気付いたからだ。どうしたんですか? と尋ねようとした矢先、「お前は穏やかな顔をしているな」と聞こえてきた。
「ネメシス様?」
私はネメシス様を見つめ返す。その薄緑の瞳の奥に、少し暗い光が宿っているようにも見えた。
「私が今まで関わってきた者たちとは違う。お前は……よく分からない娘だ」
ネメシス様は、私に聞かせるというよりは独り言を言っているような口調で話す。
「ずっと昔は誰でも妖精が見えた。けれど、私を見ても嬉しそうな顔になる者なんかいなかった。私が復讐の妖精だから」
「それって……ネメシス様の力が自分に向けられるかも、って思ったってことですか? 復讐されちゃう、って」
私は首を傾げる。
「でも、そんなの変ですよ。だって復讐って、何か悪いことをした報いに受けるものでしょう? 報復されて当然の悪人なんて、そうそういるものじゃ……」
「フュリー、お前には分からないかもしれないが、程度の差はあれ、後ろ暗いところのない人間なんかいないんだよ」
ネメシス様が静かに私の言葉を遮る。そういうものなの? ああ、でも私も、今まで一度も悪いことをしたことがないわけじゃないか。つまみ食いとか、庭の池で水浴びとか……。
「私を見つけて狂喜するのは一部の人間だけ。誰かに報復したいけれど、自分の力ではそれをなし得ないと思っている者だ。……分かるか、フュリー。そういう奴らがどんな顔をしているか」
そう言われても上手く想像できなかった。でもネメシス様の口調からするに、多分あまり和やかな表情ではないんだろう。
「じゃあネメシス様にとっては、妖精が見える人がほとんどない今の方が幸せなんですか?」
「と言うよりも気楽かな。でも、幸せも掴むことができた。お前のお陰で」
「私? 何にもしてないですよ?」
心当たりなんかまるでなかったけど、ネメシス様は「そんなことはない」と首を振る。
「毎朝庭先に出て私に手を振る少女。弾んだ声の『こんにちは』。お前と出会うまでは知らなかった。邪気のない笑顔があんなに眩しいなんて。降りていって挨拶を返したいと何度考えたことか……」
「ええっ!? そんなふうに思ってたんですか!? じゃあ何で……」
「正体を知られたくなかったからだ。……似合わないだろ。『復讐』なんて言葉、純真無垢な少女には」
「じゃあ、今の私には似合うんですか? だから声をかけてくれた?」
私は眉をひそめた。
ネメシス様がずっと私を気にかけてくれていたという事実はすごく嬉しいけれど、もっと早く彼と交流が持てたかもしれないと思うと、ちょっと損した気分だった。
「いいや、似合わない」
私がネメシス様に心変わりの理由を問うと、彼は微笑する。
「婚約破棄の話を聞いた時、お前はさぞや元婚約者を恨んでいるだろうと思った。そして、今ならお前に堂々と話しかけに行けると判断したんだ。敵討ちを望む者の前に復讐の妖精が現われるのは、おかしなことじゃないだろう?」
「でも、私はそんなことしたいって思ってませんよ?」
「そうだな。本当に困った奴だ。私は人の復讐に手を貸すことしか能がないのに」
そう言いながらもネメシス様の目は優しい。私は胸の高鳴りを覚える。
ネメシス様は『復讐しか能がない』と言った。それなら、誰も恨んでいない私の傍にいる意味はないはずだ。
でも、ネメシス様はこうしてずっと私に寄り添ってくれている。そして、自分の気持ちを正直に話してくれた。
それは何故?
色々と可能性を考えてしまうけれど、それはどれも私に都合の良い妄想に過ぎない。私がネメシス様を好きなのと同じように、ネメシス様も私を好きなのかもとか、私といるのを楽しんでくれてるのかもとか……。
だけど、それを馬鹿な考えだって切って捨ててしまうことはできなかった。そうするには、ネメシス様の瞳があまりにも甘く煌めいていたから。
そのせいなのか、ネメシス様の手のひらが頬に触れても身じろぎ一つできなかった。綺麗な顔がゆっくりと降ってくる。私は黙って目を閉じた。
「フュリー?」
甘い夢の中にいるようなふわふわした気持ちになっていた私は、ネメシス様の唇の感触を知る前に、無遠慮な大声で現実に引き戻された。
別荘が立ち並ぶ町の方から誰かが歩いてくる。私はあんぐりと口を開けた。
「ど、どうしてここに……?」
私の元婚約者だ。
目元に疲労をにじませ、頬の辺りがやつれた彼は、私と同い年のはずなのに随分と老けて見えた。最後に会った時から何十年も時間が流れてしまったみたいだ。冷たい潮風に吹かれている服も、質素極まりない。
「……別荘を売りに来たんだよ」
どうやら聞いてはいけない質問だったらしく、元婚約者の頬に赤みが差す。彼は鋭い瞳で私を睨んだ。
「惨めだろう? 貴族なのに別荘の一つも持てないなんて。それもこれも、誰かさんが僕への協力を惜しんだせいだ」
「協力? それって妖精を引き渡せっていう話?」
私は頬を強ばらせる。思わずネメシス様の服をギュッと握った。
彼にはネメシス様は見えていない。そう分かっていても、胸がざわめくのを止められなかった。ネメシス様のことは私が守らないと、と必死になってしまう。
「あなたなんかに妖精を渡せるわけないでしょう!? だってネメシス様は私の大事な……」
「うるさい! どうして僕の言うことが聞けないんだ!」
私の態度があんまりにも意固地に見えたのか、元婚約者は逆上した。肩を強く突き飛ばされる。衝撃で転んでしまい、波打ち際にいた私の服に水がかかった。その冷たさにビクリと身を竦ませる。
「フュリー、大丈夫か!?」
血相を変えたネメシス様が私の傍にかがみ込んだ。私は彼の手を借りて、「ありがとうございます……」と言いながらヨタヨタと立ち上がる。
でも、これは大きな間違いだった。
「おい、フュリー。誰と話している?」
元婚約者が怪訝な顔になる。しまったと思ってももう遅い。真実に辿り着いた元婚約者の顔が残忍に輝いた。
「いるんだな。妖精が……」
元婚約者はギラついた目で辺りを見回し始めた。私はとっさにネメシス様を背中に庇う。
けれど、それも大失敗だった。だってその行動は、元婚約者に妖精の位置を教えることに繋がってしまったんだから。
「妖精! 妖精だ! そこにいるんだな? これでまた元の暮らしに戻れるぞ!」
元婚約者は歓喜しながらネメシス様のいる方へと手を伸ばす。私は自分のうかつさを呪いながら「やめて!」とその腕に縋り付いた。
「ネメシス様を道具みたいに扱わないで! だってネメシス様は……」
「離せ! 何故邪魔をするんだ! ……そうか。さては貴様、妖精を独り占めする気だな? この悪魔め!」
取り縋る私を元婚約者は振り払った。またしても私は尻もちついてしまう。けれど、水しぶきを上げながらも私はまた立ち上がって元婚約者の前に躍り出た。
「ネメシス様はあなたのものじゃないの! ……ネメシス様、逃げてください!」
ネメシス様は私を助けようと、元婚約者を羽交い締めにしようとしているところだった。
けれど私は、ネメシス様に危険を冒して欲しくなかった。捕獲対象の方から自分に触れてくるなんてまたとない機会だ。そんなチャンスを元婚約者が見逃すとは思えない。
でも、ネメシス様は逃げようとしなかった。私を助けるために元婚約者の体に触れようとする。
私はもう一度「逃げて!」と叫びかける。その時、別荘街の方から「何をしているんだ!」という声がして、巡回中の警邏隊員が飛んで来た。元婚約者はあっという間に取り押さえられる。
「やめろ! 妖精がいるんだ! 僕は妖精を捕まえないといけないんだ!」
「何を訳の分からないことをゴチャゴチャと言っているんだ!」
体の下で暴れている元婚約者を警邏隊員は一喝する。「お嬢さん、お怪我は?」と聞かれた私は首を横に振った。
「ならよかった。でも、早く着替えてきた方がいいですよ。ずぶ濡れだし、あちこち砂で汚れていますから」
警邏隊員は一礼して、喚いている元婚約者を引っ張っていく。その様子を呆気にとられながら見ていた私は、頭に当たる冷たい水滴に我に返った。
「フュリー!」
ネメシス様が上着を頭上に掲げてくれたけど間に合わず、私はビショビショになってしまった。水を吸って重たくなったドレスの裾を捌きながら、急に降り出したどしゃ降りの雨の中をネメシス様と一緒に別荘まで走る。
「平気か?」
やっと玄関の軒下まで辿り着くと、上着を絞りながらネメシス様が尋ねてくる。
雨に当たったことへの心配なのか、元婚約者と再会したことに対するショックへの心遣いなのかは分からなかったけど、私は寒さでガタガタと震えながら「大丈夫です」と返しておいた。
けれど、思っていたよりも『大丈夫』ではなかったらしい。雨に当たったことが原因なのか、その翌日から私は高い熱を出して寝込んでしまったんだ。
「フュリー、苦しいか?」
ネメシス様が私の手を握る。部屋の外からは使用人たちが「今日で三日目だわ」「全然熱が下がらなくて……」と話しているのが聞こえる。
「へいき……です……」
ベッドの近くに置かれた椅子に座るネメシス様に私は微笑みかける。でも意識が朦朧としていて、上手く笑えているのか自信がなかった。
「ごめん……なさい……。せっかく……来て……くれたのに……」
もっと色々と言いたいことがあったのに、頭が痛くなってきて口を閉ざす。私の手を握るネメシス様の手のひらに力が入った。
私が熱を出してから、ネメシス様はずっとお見舞いに来てくれていた。そして、私が一向に回復の兆しを見せないことを嘆いているようだった。今もまた、遣る瀬なさそうな顔をしている。
「お嬢様、もしかしたらこのまま……」
薄く開いた扉の向こうから不吉な囁きが聞こえてきて、ネメシス様は唇を噛む。そして、「私は無力だな……」と呟いた。
「そんなこと……」
視界がぐらりと揺れて、続きは声にならなかった。ないですよ、と心の中で付け足す。
体が日に日に弱っていっているのは自分でも分かった。それにつられるように気持ちまで弱気になってきて、少し眠って目覚めた後「ここは天国なのかな?」と考えてしまうこともある。
でもそのタイミングを見計らうように、ネメシス様がお見舞いに来てくれるんだ。
視界に飛び込んでくる鮮やかな髪や瞳、それに綺麗な羽。それを見る度に「まだ死んでないんだ」と実感できる。そうじゃなかったら私の魂はふわりと体から抜け出して、今頃空へ昇っていたかもしれない。
「フュリー、しっかりしてくれ。私にできることなら何でもするから……」
ネメシス様が覆い被さるようにして私を抱擁する。くぐもった声で「お前を助けたい」と聞こえてきた。
「フュリー、言うんだ。憎い、と。恨めしい、と」
ネメシス様の声は掠れていた。熱に浮かされていた私は、その言葉の意味が上手く理解できない。
「相手は誰でもいい。誰でもいいから呪え。そうしたら私は……」
「だれも……悪くない……です」
もう自分が何を言っているのかも分からなかったけど、私の口は自然と動いていた。
「私……だれも……」
「ダメだ、フュリー」
ネメシス様はあまりにもきつい口調で私をとがめた。
「嘘でもいいから言うんだ。誰かを憎め、恨め。……ほら、お前の元婚約者なんてどうだ? 本心じゃなくていい。でないと掟に背いてしまう」
ネメシス様が何を言いたいのか私には分からなかった。けれど本能が彼の言葉を肯定してはいけないと告げている。私はそれに従って「いいんです……」と言った。
「……そうだよな。お前はそういう奴だ」
もう説得は無駄だと思ったのか、ネメシス様が身を起こした。沈痛な面持ちで開いていた窓に手をかける。
「……さよなら」
ネメシス様が窓から飛び立っていく。今にも消え入りそうな声だった。
どうして『さよなら』だったんだろう。『また明日』じゃないの?
ふと湧き出てきた疑問を深く考える暇もなく、私は深い眠りに落ちていった。
****
次の日の朝。昨日まで病気だったのが嘘のように、熱が引いていた。医師に診てもらったところ、もう何ともないとのことだ。しばらく何も食べていなかったせいでまだ本調子ではなかったけれど、数日後にはすっかり元気を取り戻していた。
使用人たちは大喜びで「よかったですね、お嬢様!」と浮かれている。それくらい私の命は風前の灯火だったんだろう。
でも、私は素直に喜べない。最後にお見舞いに来てくれた日を境に、ネメシス様が訪ねて来なくなってしまったからだ。
「ネメシス様……」
浜に流れ着いた流木に腰掛け、たった一人で海を見つめながら私は頬杖をつく。思い出していたのは使用人たちの噂だ。
私と諍いを起こして警邏隊員に引っ張って行かれた元婚約者は、今は保釈されて地元の宿屋に泊まっているらしい。
すぐに帰らなかったのは、彼が風邪を引いてしまったからだそうだ。しかも、私の病気が治ったのと入れ違いで。
「これ……私の熱が引いたことと関係あるのかな?」
例えば、私の病気をネメシス様が元婚約者にうつしたとか。ネメシス様は妖精なんだから、それくらいできてもおかしくはない。
そんなふうに推測を立ててはみたけれど、それとネメシス様が私のところへ来てくれなくなったことと何の繋がりがあるのかまでは分からなかった。
何だか妙に不安な気分だ。もうこのまま一生ネメシス様と会えないのでは、という嫌な予感に身を震わせる。
「ネメシス様……どこへ行っちゃったの……?」
私が何かしてしまったんだろうか。妖精を捕まえようとする人を目の当たりにして、私の近くにいることに身の危険を感じた? ネメシス様は私といると幸せだって言ってくれたけど、今ではそう思っていない?
「あっ……」
今にも涙がこぼれそうになっていた私はうつむく。その拍子に足元にあるものが落ちているのに気付いて、小さな声を上げた。
「これ……本に書いてあった……」
人と人との縁を繋ぐ貝だった。虹色に光るそれは私の小指くらいしか大きさがないけれど、今まで気付かなかったのが不思議なくらい、乳白色の砂の上で存在感を放っていた。
私はその貝を拾い上げる。ずっと見つけたいと思って、何日も探していた品だ。
でも、せっかく手に入ったというのに、全く嬉しくなかった。
「ネメシス様……」
私がこれを欲しかったのは、ネメシス様と一緒にいたかったからだ。でも、肝心のネメシス様はどこかへ行ってしまった。私とネメシス様の縁が繋がることはもうないだろう。理屈ではなく、直感がそう囁いているのだ。
「また会いたいです、ネメシス様……」
それでも願わずにはいられない。無理なことだとは分かっていても、奇跡を信じたかった。
私は貝を強く握って胸に押し当てる。声が聞こえてきたのはその瞬間のことだった。
「ネメシスに会うことがお前の望みなの?」
何が起きたのか分からなかったけれど、私は反射的に手のひらを開いた。すると、貝の口が開いて、そこから顔を覗かせる小さな少女と目が合った。
髪も目も貝と同じ虹色に輝く彼女を見つめながら、まさか、と私は口を開ける。
「よ、妖精……?」
「何を驚いているの。妖精に会うのは初めてではないでしょう」
体は小さいが尊大な態度の彼女は、ふてぶてしく貝殻の縁に足を組んで座る。私は「魔法の貝の正体って妖精だったんですか?」と尋ねた。
「当たり前よ。ただの貝に不可思議な力が宿るわけないでしょう。私は縁の妖精よ」
少女は胸を張った。一方の私は、貝の正体が妖精だったという事実に驚き、言葉も出ないでいる。縁の妖精は軽く笑った。
「随分と間抜けな顔をするのね。でも、容姿は中々じゃない。ネメシスも案外趣味がいいわ」
「ああ、そうだ! ネメシス様!」
意外な事実に気を取られていた私は、目の前の少女が妖精であるということの意味をやっと理解した。彼女に頼めば、またネメシス様と会えるかもしれないと気付いたのだ。
「私、ネメシス様に会いたいんです! できますか!?」
「当然よ。妖精の力を見くびってもらったら困るわ」
即答され、私の心は躍った。勢い込んで、「ネメシス様は今どこにいるんです!?」と尋ねる。
しかしその問いに対し、彼女は「どこにも」と返した。
「彼はどこにもいない。この世界のどこにも。妖精の掟に背いたから、その報いを受けたのよ」
「え……?」
不穏な返事に、私の中で膨れ上がっていた希望が急速にしぼんでいく。『掟』は、ネメシス様がたまに口にしていた言葉だ。そう言えば最後にお見舞いに来てくれた時も、掟がどうとか言っていたような気がした。
「ネ、ネメシス様は死んじゃったってこと……ですか? 掟を破ったから。でも、掟って……?」
心臓が不自然なほどに早く鼓動していた。今になって、私は妖精についてほとんど知識がなかったんだと思い知る。
「死んだ、でも、消えた、でも好きに表現するといいわ。とにかく彼はこの世界にはいない。掟っていうのは、我々妖精が絶対に守らなければならない決まりのことよ」
不遜な態度の彼女が背筋を伸ばす。それくらい、妖精にとって掟の存在は重要だということなのだろう。
「妖精は強い力を持ち、人の目には奇跡としか映らないようなことも容易にできてしまう。永遠の命を授けるとか、無限の黄金を作り出すとか。……だからこそ、妖精は掟で自らを縛る必要があったの。私欲のためには決して力を使わないように、と。妖精は人に寄り添う種族であり、人の願いを叶えるためにしか力を使ってはいけない、と」
「そ、それじゃあ……」
「気付いた? ネメシスは誰も望んでいないのに力を使ってしまった。自分の欲望のままに復讐してしまったのよ」
私の考えは間違っていなかった。やっぱり病気が治ったのは、ネメシス様のおかげだったんだ。彼が私の病を元婚約者へうつした。
けれど、そのせいでネメシス様は消えてしまったんだ。私のせいだ。嘘でもいいから誰かが憎いと言えばよかった。ネメシス様だって、そうするように勧めていたのに……。
後悔ばかりが募る中、私は縁の妖精に尋ねる。
「……妖精さん、私をネメシス様に会わせて。できるんでしょう?」
「ええ、いいわ。どうせ妖精なんて、人のワガママを聞くためだけの存在だもの」
死者の蘇生などという大それたことさえ二つ返事で了承してしまうんだ。妖精というのは、本当に計り知れない力を持っているらしい。それをセーブするために掟を作ったのも頷ける話だった。
辺りの空間が捻れ、虹色に光り出す。それはやがて羽の生えた人の形を取り始めた。
その光が弱まっていく。現われた愛しい妖精の胸の中に、私は飛び込んだ。
「……フュリー?」
寝ぼけたような声を出すネメシス様の胸に私は頬をこすりつける。そしてわっと泣き出した。
「ネメシス様、ネメシス様、大好きです! それに、ごめんなさい! 私のせいで消えちゃうなんて……!」
「……お前、話したのか」
ネメシス様は私の頭を撫でながら、近くに縁の妖精がいるのに気付いて眉根を寄せた。縁の妖精は「ふん」と鼻を鳴らす。
「礼くらい言ったらどうなのよ。最愛の女を守るために消えるなんて気取った最期、お前には似合わないわ」
縁の妖精は貝の口を閉じる。そのまま虹色の貝は砂の中へと潜ってしまった。私は慌てて「ありがとうございます」とお礼を言う。
「ネメシス様……どうしてですか……」
私は鼻をすすりながらネメシス様に問いかけた。
「掟に背いたら消えちゃうって言ってくれてもよかったのに……」
「言ったところでお前が苦しむだけだろう。仮にお前が誰かに病をうつせと指示したところで、私が消滅を免れる代わりに他の者が病気になるんだぞ。そんなことになるくらいなら、このまま自分が高熱にうなされている方がましだとお前なら思うんじゃないのか?」
中々的を射た推論だ。私はぐうの音も出ない。
だけど、これからはそれじゃいけないと思った。
「ネメシス様、私、生まれ変わることにします」
私はネメシス様の胸に抱かれながら囁く。
「どうせなら、今すぐに」
****
その日のうちに、私は別荘街から少し離れたところにある宿屋を訪れた。みすぼらしいとしか形容しようのないその店の、これまたみすぼらしいとしか言いようのない部屋の粗末なベッドの中で、一人の青年がうんうんと唸っている。
「フュ、リー……?」
自分の元婚約者を見つけて、青年は高熱のせいで真っ赤になった顔をこちらへ向ける。でも目の焦点は合っておらず、どこかぼんやりとした顔つきだ。多分、頭が上手く回っていないんだろう。
「ようせい……」
それでも呟かれた一言には、執念が宿っていた。けれど、私はその執着心を粉々にするべく、彼に歩み寄る。
「あなたに妖精は渡せない」
私はこれまでと同様にきっぱりと言い切った。
「もう諦めて。でないと、次はこんなものではすまないよ」
「……こんな……もの?」
「分からない? その風邪が、私の仕業だってこと」
元婚約者は目を見開いた。私は薄く笑う。
「あなたが散々欲しい欲しいと言っていた妖精は、復讐の妖精なの。……言ってる意味、分かるよね?」
元婚約者はピクリとも動かなかった。私はさらに続ける。
「でも、私は復讐に妖精の力は借りない。あなたがこれ以上ネメシス様につきまとうなら、私がこの手であなたを呪ってあげる」
言いたいことを言い終えた私は、さっさと宿屋を出る。
人気のない店の前では、ネメシス様が待っていた。
「驚いたぞ、フュリー」
窓の外から中の様子をうかがっていたネメシス様が、頬に手を当てる。
「お前があんな悪女みたいなセリフを吐けるとはな」
「だって私、ネメシス様とずっと一緒にいたいですから」
私はネメシス様の手を取った。
「嘘も吐けない私はもういませんよ」
「なんだ、演技だったのか」
ネメシス様は納得したような顔だ。私は軽く笑う。
「私、意外といい役者でしょう? 昔みたいにおめでたいだけじゃないんですから」
「別に私はそれでも構わないが……」
「……私が嫌なんです」
私のせいで、またネメシス様が消えてしまうのは。私はかぶりを振った。
「でも、根っこはやっぱり変えられそうもありません。復讐のためにネメシス様の力を借りたいなんて思えないから……」
「それでいいんだ。私はお前の純真なところに惹かれたんだから。……好きだよ、フュリー」
愛の言葉はあまりにも自然に放たれたので、私はうっかりと聞き逃しそうになった。数秒遅れて「えっ?」と飛び上がる。
「い、今、ネメシス様の方から『好き』って……聞き間違いですか!?」
「違う。何なら言葉以外も贈ろうか?」
抱き寄せられ、唇にキスされた。前みたいに誰かに邪魔はさせないという意思が感じられるくらい素早い動きだ。
「ネメシス様……大好きです!」
そんな彼に対し、私はいつも通りの告白しかできなかった。でも、それで充分だとでも言いたげに、ネメシス様は「私もだ」と笑ってくれる。
「お前が私に微笑みかけてくれたあの時から……ずっと好きだったよ」
甘い囁きが私の心の中に深く刻み込まれていく。
私はこれから先も、ネメシス様に復讐の妖精としての役目を果たしてもらうことはないだろう。けれど、そんな私をネメシス様は好きと言ってくれるのだ。
私はクスリと笑う。そして、もう一度愛する妖精に「大好きです」と何度目になるのか分からない告白したのだった。