黒い羊
「テレビが壊れた」
同僚の友人が笑顔で自分の頭を指差しながら彼にそう呟いて、翌日蝶のように姿を消した。
遊星が大地に挨拶を交わして光り輝く、その三日前。
彼は会社の近所にある踏切の前に立っていた。
人の心はどす黒いのに、夕刻の鳥はみなに名残惜しく別れを告げて飛び立ち、空と建物は穏やかな黄昏色で染まっている。
人の生気のない閑散とした平和を謳歌している踏切。内と外を境界線で切り結ぶその外側で、男はズボンにあるポケットの中の希望をまさぐった。
ポケットの中にあったのは、五十円玉硬貨一枚。
彼はその銀色を見つめると、真ん中にある秘密の穴から世界を覗き見た。
胸に抱いた一抹の希望は完全に砕け散り、泡沫となって飛散すると、視界がぐりんと暗く歪む。
彼には鮮明に見えた。闇の帳に隠された、世にも恐ろしく醜い真実の世界が。
絶望が壊れたリモコンをこちらに向けて、しつこく何度もボタンを押しながら『やあ、こんにちは』と醜悪に笑う。
カンカンカンカンカンカンカ――
警報機が叫んで、黒と黄色の遮断かんが泣きながら男の行く手を遮った。
彼は遮断かんを愛でるように手のひらで撫でて感触を味わうと、素早く下に潜って、未来に向けて人生を踏み出した。
「人生はクソだ」
線路の中央に立ちはだかって、生涯最高の台詞を過去と一緒に吐き捨てる。
手の中で握り締めていた銀色の希望を、天高く投げ捨てた。
そして五秒ほどしたのち、高速で動く鉄の塊が脆い命を横殴りにして、光よりも速く、彼を未来へと導いた。
遡ること、僅か一秒前。
彼の脳内の電気信号が止まる、その直前。
対面の遮断かんの向こう側に、黒い羊が立っているのが視野に入った。
渦巻く漆黒の鎧を身に纏い、突如として現れたその羊は微動だにせずそこに立ち尽くし、彼を凝視していた。
そして、彼は見た。
黒い羊のその眼を。
青黒く濁った瞳の奥にある、絶望と、全ての真理を。
人の死の意味と、それに呼応する何か。
生命の終わりの真実を知っても、それは誰にも話すことが出来ない。人がそれを知ることは、永遠にない。
満足感と後悔の中で、彼は友人を思い出した。秘められた、恐怖と狂気。それらを共有することが出来た。友人も同じものを見たはずだと、彼は感じた。
一瞬にして長大な体感時間。まどろみながら漂った。しかしこの世界に、永遠は存在しない。
黒い羊の瞳に宿る深く澱んだ宇宙は、恐怖に歪んだ彼の魂を捉えると、そのままぐにゃりと引きずり込んだ。
暗くて絶望的な話でした。文章的な挑戦と設定的に底が深いものが出来ました。
自分でもこういうテーマは掴みかねますね。そういうのを書いてる間に探求するのも純文学性なんでしょうか。
僕の場合は少しカルトチックに幅が振れたりもします。
小説文字数999文字の999を反転させると、666で獣の数字になります。
最後にネタばらし。
実生活でリアルにテレビが壊れた直後に仕上げてたので、テレビっ子である僕の絶望と不安感が直に反映されてます。
映画「ラスト・ボーイスカウト」から知る人ぞ知る台詞をオマージュしてます。
あらすじの記述は村上春樹さんの「羊をめぐる冒険」を参考にもじりました(粗筋だけ知ってて読んだ事は無いです)。