バベル あさこ編
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虫に匂いは無いだろうが、なんかクサい。右隣の山からぷ〜・・・ん、と臭いが漂ってくる。
「っぅっえ、キモ・・・・・・」
腹の底から嘔吐く。空っぽの腹を搾るもんだから胃が痛かった。
下校時刻から一時間、私は歩いて下校する。もうすぐぼんやりと家の灯りが見えてくる頃だった。
私はチャリがキライで、この野道を毎日歩いて登下校する。高校一年の貴重な朝の時間を無駄にしているようだが、私には歩いている時の時間の感覚はなく、何も考えずに歩く合計二時間は空白の時間だった。
玄関の引き戸を開けようと手を掛けようとしたとき、引き戸に挟まっているものに気づいた。
真っ黒な、大学ノート。私はそれをよく見もせず、手に取り家に入った。
「ただいまー」
そのままこたつの上にノートを放り出す。どうせまた市役所とか、そういう小難しい親関係のものだろうと思った。
脱衣所で長い髪をまとめて、セーターとセーラー服を脱いだ。
ベッドの上に座ってやっと一息吐く。ケータイ片手にテレビを見ながらカルピスを飲む。
「っああ〜〜〜! 今日も、疲れた、あーーーーー!」
奇声を発して、ベッドに倒れ込んで、目を閉じて、これでやっと私の一日が終わる。
何も特別な時間なんて無い一日で、とても飾る時間なんて無くて、私は裸一貫でずっと走り続けてきた。
思考が終わる前に一瞬だけ、言葉がよぎる。
こんなんで、一生が終わってしまうんだろうか。
長い髪をほどいて、セーラー服とセーターを着る。
しっかりとコテで髪を巻いて、スプレーをしてセットする。
さっさと出て行こうとしたとき、こたつの上にまだあの大学ノートがのせてあるのが見えた。
「・・・・・・? 見てないの? お母さんら・・・」
独り言を呟いて、おもむろにノートを手に取った。
こんな所に置いてて、無くしたらまた騒ぐくせに、いいのかよ?
ペラ・・・っと緩く1ページめくってみて、白紙だったのでパラパラと全体に目を通してみた。
「は? なんだこれ、まっしろ・・・」
最初から最後まで一面、雪が積もったのより真白だった。私は呆然とページをパラパラめくっていく。
「おい」
ノートをめくる手を止めて、辺りを見回す。
「おまえ」
あるのは古い日本家屋で、私の家で、
「おまえ!」
誰の声?
しかも相当近い。首と肩がガチガチに固まって、振り向けもしない。
「聞こえているのか、女!」
「・・・・・・だ、だれ、ですか」
そっと、聞いてみる。私しかいない静かな居間に震えた声が響いた。
「バベルだ。この偉大な名、きいたことはないか?」
「ど、どこ、に居るんですか!」
耳元で聞こえるようなその声に、私は恐怖を隠しきれない。もし振り向いて、誰か、知らない人がいたりしたら―――――
「下だ。おまえの持ってる本だ」
クッと顎を引いて下を向く。首が動かないから。すると。
ノートが、
「初めまして、お嬢さん。やっと顔を拝めた。我はバベル、汝何を願う?」
しゃべ―――
「曖子! なにしてんの! 早く出なさい!」
「はいっ!」
ばっ! っと玄関まで一息にジャンプした。どうやったのかはわからない。靴の踵を踏んだまま外に出て、手に持ったノートをまじまじと見つめる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
いつの間にか息が荒くなっていて、胸が苦しい。
背中を丸めて、いてててて・・・・・・とばぁさんのようにフラフラ歩き出す。
「おいおいしっかりしろ、まだ若いんだろう?」
すかさずノートを鞄につっこむ。
低い声はくぐもった音を出していたが、すぐあきらめて黙った。
落ち着け、落ち着け・・・・・・。
無意識に腕時計を確認する自分は、なかなか冷静だ。
「時間やばい・・・。あーもう!」
数分後、私はいつもの通学路を走っていた。チャリンコで。
やっぱりチャリの方が速い。それに変に焦っていたからか、いつもの倍くらい速い時間で学校についてしまった。
仲いい子もまだ来てなくて、これからとてもヒマになってしまう。
「だからやなんだよね・・・・・・。部活もねぇし・・・」
はぁ〜・・・っ。
とりあえず、トイレに行こう。
文化部の部室が多い2棟は静かだった。そこのトイレもしかり、人一人いない。
ちょっと湿ったような壁に背中を預け、鞄を探って、あのノートを取り出した。
静か。ノートは喋らない。
「・・・やっぱ私の勘違いか、寝ぼけてたのかなぁ?」
ふーーーっ、と長い息を吐き出して体を伸ばす。
なんだ、これで解決したじゃんか。
爽快な気分でノートを鞄に戻そうとしたとき、
「おまえはちゃんと起きていたではないか? それに、こんな勘違いをできる人間は早々居ないとおもうが・・・」
グッ・・・っと手が固まった。
見下ろしたノートはなんだか、呆れるようにため息を吐いた気がした。
「現実を受け入れるのだ、少女よ。おまえがあまりにも見ていて情けないのでな。説明くらいはしてやろう」
ノートは偉そうに言うと、ゴホン、と咳払いをしてしゃべり出す。
「我はおまえの願いを何でも、どんなことでも叶えることができる。ただし、その代償としておまえの大切なモノをもらいうける」
私が知りたいのはそんなことじゃなかった。
もっと根本的な、なんか・・・。
私は覚悟を決めて、モヤモヤした部分を吐き出すことにした。
「そ、そもそも、あなたは、あなたっていうか・・・・・・、何なんですか? なんでノートが喋ってるんですか! ・・・・・・っ」
早口で喋って息を詰める。
返答を待っていると、ノートはしばらく静かに黙ってから、
「おまえには理解できん。そもそも、そんなことどうでもいいではないか?」
「どぅ、どうでもいいわけないじゃん! ちゃんと説明して!」
「必要ない。我はおまえの願いを叶えてやると言っている。それ以外に何かいるのか?」
だめだ。まるで話の通じない堅物じじいと話してるみたいだ。見下されてるみたいで腹が立ってきた。
「・・・もういい。もう授業始まるから」
バベルを鞄にしまう。バベルは何も言わなかった。
ふうっと一息吐いて、トイレから出た。もう登校してきてる人は多く、校内は騒がしかった。時計を見て、私は早足に教室に向かう。
放課後は教室にいた。みんな部活で教室には私しか居ない。いつも溜まっている帰宅部の子さえも今日は居なかった。
一人の教室で、私は妙な安心感や満足感に包まれていた。
私は結局一人が好きだ。一人で神社に行ったり、一人で何かをやっているという空気感が好きなんだ。だから私は歩いて登下校する。
私の机の上にはバベルが広げられている。真っ白なページを露わにして、バベルは何も喋らない。ペラペラと意味無くページをめくっていると、
「あ、」
「あぁ、道三くん」
少しだけ教室のドアを開けて、中の様子を窺っていた男子がいた。それは村山道三くんと言って、私が一ヶ月間だけ所属していた部活で一緒だった人だ。
道三くんは私が発見した困ったときのクセ、後ろ髪を触りながら私と目を合わせる。
「どうしたの道三くん。誰かに用?」
「あ、いや、田村さんどこにいるか知らない?」
低い声で聞いてきたけど、生憎私は知らない。もし知ってたら、もっと話せるかもしれないのに。私はしかたなく知らない、と言った。
「ありがとう」
「うん・・・」
それだけの会話で道三くんはドアを閉めて出て行った。
もっとなんか、話題なかったんかい・・・! と今思っても遅いけど、残念な気分だった。
はぁっ・・・! と机に突っ伏すと、
「願いを言え」
「わっ! 急に声出すなよ!」
バベルが急にしゃべり出した。
私は開いていたバベルを思い切り閉じた。うっ、とバベルは呻いた。
「まだ言ってんの? この際言うけど、私は願い事なんてしないから」
「なぜだ? 折角のチャンスだぞ。願わないのなら我は他の人間の手元へ行く」
「ふ〜〜ん。あっそ。行けば?」
私の素っ気ない言葉にバベルは黙り、何か言いたげにもごもごしている。
なんか楽しい。こんな偉そうなノートを黙らせてやった。
ふふん、と少し私はご機嫌で鞄を手に取り立ち上がる。
「じゃぁ私そろそろ帰るね。ここに置いといてやるから、新しい人探しなよ〜」
「待て、待て! 置いてゆくな!」
一人でゲラゲラ笑いながらバベルを手に持つ。バベルをからかうのはなかなか愉快だ。
教室を出て、帰り道。廊下を歩いていると、道三くんが廊下に立っている。今日逢うのは二回目だ。もう少し歩いていくとバイバイって言える。
道三くんが近づいたとき、道三くんと喋っている人がいることがわかった。それは田村さんで、二人は仲良さげに話していた。
私の足は傍の階段を降りていた。
とぼとぼとチャリを押しながら歩く。足下を見るように歩く私のチャリ籠の上にはバベル。なんとなく気まずい雰囲気。
「・・・・・・んっ・・・! んん!」
バベルが喉を鳴らす。
「少女よ。恋というのはだな―――」
「うるさい。・・・そんなんじゃない」
「願いを述べよ」
「違うってば・・・」
違う。―――私の気持ちは、恋なんて純なものじゃなかった。
私の道三くんの第一印象は、名前が名字みたいで、大人しそうで、カッコイイ、だった。それと、とても都合がいい、とか。
私は高校になったら、カレシが欲しいと思ってた。今まで乾いていた心をそっちに向けたかった。でも私は積極的なタイプでもないし、可愛くもない。だから、好きになってもらうしかない。道三くんみたいな人は、少しでも話しかけたりしてれば私のことを気にかけてくれる、と思っていた。
もう、丸裸にすれば、誰でもよかったのかもしれない。
「私は、付き合うこと想像して、勝手に・・・、それだけ。道三くんは私なんかどうでもよかった。的が、外れた」
「・・・・・・・・・・・・」
「なにか、止めて欲しかっただけ。この速い流れを何かがせき止めて、別の所に流して、いっぱいにして欲しかっただけなんだ・・・」
こんなこと話してたら、まるで可哀想みたいだ。まるで、今にも泣き出しそうな、かわいそうなヤツ。
「こんな時こそ、だな・・・。願いを述べてみてはどうだ? 何でも出来るのだぞ」
「・・・しても、意味無い気がする。きっと満足とか、できないよ」
「だが、だがな・・・」
ハンドルのゴムの部分がひしゃげるほど、強く握る。
「我には、これしか出来んのだ」
ぽっ、バベルの表紙に水滴が一粒、落ちてきた。黒い表紙が光る。
「あっ・・・・・・、」
前髪がグシャグシャになるのも構わず、私は空を見上げる。
「雨だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
俯いていたから、空の様子がわからなかった。今日は合羽を持っていない。
チャリに跨って、ペダルを踏みしめる前に、バベルを鞄の中へしまおうとした。しかし、
「このままで、良い。しっかりと乗せておいてくれ」
頷いて、勢いよく走り出す。
吹き飛ばすみたいに速く。流れるように速く、風に逆らって走った。学生の可愛い傘も、車の音も、信号も、虫の臭いも、全部、消えた。
部屋のベッドで横になって、バベルをタオルで丁寧に拭いていた。
「あんま濡れてないね。シワっぽくもなってないし」
「そうか。それはよかった」
大学ノートのバベルは眠る前のように穏やかな雰囲気だった。私も眠くて、目を閉じかけながら、でも手は休めなかった。
「バベル・・・。どうして、私のところに来たの?」
「それは・・・、我にも解らん」
「なんだ、適当だな、結構。自分では選べないんだ?」
「ああ、そうだな。持ち主の願いが叶い、満足すると、持ち主は我の記憶を失い、我はその者の元から消える。我はまたどこかへ落とされてゆく。それの繰り返しだ」
「消え? 消えるの?」
「ああ」
「願いを叶えて、満足したらだろ? じゃあ、私がこれから願い事しなかったら消えないよね?」
「それはわからん。こんなことは経験がない」
「え・・・・・・」
バベルは息をあまり吸ってないみたいだ。呼吸をしているのかはしらないけど。
「何千年も前のことは忘れたが、これまでの持ち主は、我が説明した途端何十もの願いをいいつけた。代償をも省みず、我を離そうとしなかった。それは持ち主がなんど変わっても同じだったのだ。ただただ、黙々と繰り返すのだ。そのうち説明するのも面倒になった」
最後のページを拭き終わった。
「おまえのような人間は初めてだ」
タオルをバベルに半分だけ掛ける。掛け布団みたいに。
「おまえが我をせき止めたのだ」
「だから我は、―――――」
「・・・・・・寝たのか。・・・・・・・・・・・・ふむ」
「汝、女というものはだな―――――」
目覚めると、視界は真っ暗。
慌てて体を起こすと、バベルが傍にあった。
「・・・ぉはよう」
「ああ。良い朝だ」
今日も歩いて行くのに、私の横には自転車。カラカラカラカラ・・・と音をだしてゆっくり進んでいる。
バベルは籠の、鞄の上。真っ黒の表紙は綺麗に光るぐらいだ。
朝に、聞いてみたことがあった。
バベルに名前を書いてもいい? と。
無くしたりしたときに困るから、と。
バベルは、少し考えさせて欲しい、と言った。
断られたわけではないので、私はどの辺に白のマジックで川本曖子を書こうか考えた。
今日も放課後はすぐに来たけど、私はいつもより早く帰る。バベルにどこかへ寄ろうって誘われたからだ。私はその行く道も大事にしたいから、時間があったほうがいいと考える。
「ばいばいっ」
「あ、バイバイ」
道三くんに挨拶した。後頭部を見られてるような視線があって緊張した。階段を飛び降りて、走る。ガチガチにつり上がった頬を下げる。更に走る。
どこに行こうか迷って、私は適当に歩き、思いついたところにした。子どもの頃よく遊んだ神社だ。
「っきったなくなったなぁ・・・。こんなんじゃなかったのに、昔は」
石段に座って、バベルを膝に乗せた。
さわさわと風が吹いて気持ちいい。人の声もしなくて、かなりいい場所だ。
「なんでどっか寄ろう、なんて言ったの?」
「ああ、話があるのだ」
ここに来るまで静かだったのに、そんなに改まってする話なんだ。私は静かにして、耳を澄ます。
「・・・おまえは、何も願わないと言った」
「おまえは、満足できないと・・・」
立て続けに言って、バベルは息を詰める。私は俯き、バベルを見る。
「我は、それでは困るのだ」
低い声は控えめで、聞こえにくかった。
「我はおまえの願いを叶えたい。叶えたい。」
前髪が付くほど、私はバベルに近づく。
「我に手はない。我は本だ。おまえがもし泣いたとしても、どうにもできない。」
「我にはこれしか出来――――――」
「そんなことっ・・・・・・ないって・・・」
一番近くで喋る。よく聞こえるように。
「私は、昨日の話なんて、絶対誰にも話さない。聞いたって、つまらないし引かれる。バベルは、話していい気がした、何となくっ、だけど・・・。でもよかったって思う。」
額を擦りつけて、私は言う。
「これから先、どうなるか確かに不安だよ。私の夢なんて叶うかなんてわかんないし。でも、そんなこと言ってもキリないし、私は結局寂しくて、孤独が好きで、こんな風に話せる人なんていないんだよ絶対」
「だから・・・」
バベルの端を握る。ギュゥウっと音がして、バベルが曲がる。
「だから一緒に居て欲しいんだよ。道三くんでもなくて、友達でもない。」
「願い事なんかない。私はこうやって一緒に居てくれる、バベルが居てくれればいい」
「・・・・・・・・・」
「そんなことで、本当に良いのか。」
「よい。道三くんとはこんなとこ来れない」
「・・・・・・・・・わかった。名前を書いてもよいぞ」
「・・・え? いいの?」
「ああ」
「やった!」
どうせなら、表のど真ん中に。
「そこは・・・・・・」
「ん〜?」
「いや、いい・・・」
逆にダサイか? ま、いいや。綺麗に書けたし。
「そうだ、私の名前知ってるよね? おまえゆってるけど。川本、あ、い、こだよ?」
「わかっている。これだけやられては分からない訳はない」
「ははは! そうかっ」
立ち上がって、綺麗に書けた川本曖子を見る。太陽にかざして、きらきらした。
「やぁ〜。ホントに今日はいい日だね!」
のびーっとやって私は腕を真上に。
「ああ、そうだな。そうだ曖子、お前の夢とは何だ?」
「んぁーーーーー!? あぁそれは、―――――」
「―――――――――っ!」
そのままバベルは空中に舞った。
ぱらぱらとまっしろのページが眩しい。
私は手をかざして、見上げる。
どんだけ、流れが速くても、その中身がぎっしり詰まってればそれはそれでいい。
はやいはやい、追いつけないって嘆いてる方が、もったいないんだ。
「・・・っ・・・っっ」
「バベル、落としてごめん。ホントごめん・・・」
例えば、今願い事をするとすれば、なんだろ。
や、それはしないって決めた。
私は早々満足しない。
結局、絶対。