アオとミドリ
46&96 4話 星空
ナァ・クショロとスズガミ・ムツキの戦いは終わった。両方どこかへ逝ってしまった。
「やっぱり、闘っているんだ。寂しいことだ」
「何を言っているんだ、次は自分かも知れないというのに」
クロは呟いた。大岩が川を塞いだように何かがせき止められ、溜まっていく。その岩を動かしたいのに、動かないでいて欲しいとさえ思う。
「いいんだよ。俺はさぁ、きっと……」
「滅多なこと言うんじゃねぇぞ」
「あぁ、ごめんね。見てしまったんだっけ?そう、この世界で死ぬという事は、灰になるか、石化するかのどちらかなんだよ」
酷いものを見てしまったね、と頭を撫でてやりたい。慰めて、もう何もしなくていいと言ってやりたい。けれどもそれは許されない。到底許されることではない。俺らは戦っている。それは勝ち目のない、泡の水になってしまう戦い。終わればまた、新しい誰かが誰かと戦うのだ。自らの命と相手の命の限り。
砂時計。そうこの世界は言われていた。時間が交差して行く世界。矛盾し、網羅している世界。
「天の川みたいなんだ、此処は」
アオ・ローズィは時折変なことを言う。もうとっくに慣れてしまったが、彼の言う事は突拍子もない上に、脈絡がない。彼の中では繋がっているそうだが、理解の範疇を越えていた。
「此処は彦星様と織姫様を繋ぐ天の川だよ」
自分で言ってずいぶん酷いと思う。天界のあの、零れそうなほど美しく着飾った川と、この薄汚れた砂ばかりの地上とでは、月と鼈ばかりか、月と塵ほども違う。だけれども同じなのだ。そう思えるのもおかしな話だ。けれどもこれは譲れない。自分が否定しようと、他の誰かが否定しようと。アオは自分の中にいる自分を否定して、そして目の前のクロの様子を窺った。
「天の川ねぇ。ちっともロマンチックじゃないよな、此処は」
「冷めた言い方しないでよー。ちゃんと根拠はあるんだよ、ほら!」
指差す向こうは星空、天の川。優雅に瞬く星々はこの地上を見てはいない。
「人は星、砂は空。俺らと同じで立っているんだよ、星は」
「変なことを」
「ふふ、そう言うよ。普通はそうなんだ」
ローズィは変わり者だった。ずっとそうだ。彼は何もかもを楽観視する。でもきちんと捕らえているんだ、その真意を。誰も読めない神の手帳でも覗き見ているように。羨ましいと思ったこともあった。けれども彼はそのせいで苦労をしていた。対についてずっと彼は悩んでいた。大切でこの上ない存在を、生かすか殺めるか、で。どちらの選択肢も存在しないと知っていながら彼は悩んでいた。クロは羨ましいとさえ思った。
「俺はね、この世界の砂になってしまう存在なんだ。けれど、それはどれも同じことなんだ。どこへ行っても、何になっても、結局はこの大地を覆う砂と化す。あの星もそうなんだよ、彦星様も織姫様も、空へといつかは消えてしまうんだ」
「そう言うものか?」
「そう言うものだよ、フィーナ」
この世界では対がどちらかを迎えに行く。啓示が来るんだ。歌のようなものが脳に直接。お前の番だ、お前の番だ、と。そこから選択肢は二つになる。生かすか死ぬか。両極端で正直受け止めるのもつらかった。けれども、フィーナはそれを否定していた。アオは目を瞑って眠りについた。
「なぁ、飯食おう」
そう声を掛けられたのは朝日が昇り始めた頃。フィーナは鬱々しい表情だった。あぁ、可哀そうだ。可哀そうだ。けれども助けることは叶わない。返したのは言葉だった。
「うん、食べようか。今日はなんだい?」
「握り飯」
「それはいいね」
最後の晩餐という絵がかつてあった。それはキリスト教という宗教の絵だった。壁画だと聞いている。ジーザス・クライストという人物の人生最後の晩御飯を描いた絵だそうで、しかし、裏切り者が弟子の中に居るとその晩餐で言ったその瞬間の絵。残酷なものだな、と思った。聞いた時は。今は違う。どうして晩餐にそんなことをしたのだろうと、不思議でならない。死ぬのなら、蟠りを残さず去りたいものだ、そう思っての行動なのか。しかしここで何を思っても、その絵は今ない。見ることすら叶わない、過去の遺物。
「はは、やっぱり冷たいんだね」
「仕方ない。温かいものは冷えてしまうんだ」
ここはそういう世界だった。生き物ですら冷たい。生きていることは確かなのだろうけれども、温かみがなかった。それでも人間だけが唯一、温かさを持っていた。
朝日が昇るにつれて星は消えていった。一つ二つ、三つ四つと。最後に残っていた星も消えていく。
46&96 5話 バツゲーム
ミドリ・ジェナー。この名は偽りだった。だけれど、私は私だった。これが戦う理由だった。これしか戦う理由がなかった。そのことがとにかく嫌だった。けれど、同種に出会うとそれが和らいだ。と同時に劣等感が湧いて出た。
「天の川は綺麗だ。けれど、二人を別つ大きな分厚い壁でしかない」
あの子は、シロ・ルフェナは強い子だ。とても簡単に壊れてしまいそう。なのにとても強い。きっと壊しても壊しても何度でも、立ち直るのだろう。私とは違う。そういつでもそうだった。同種に出会えて浮かれて、劣等感を抱いてそして突き放していくんだ。天の導きが頭に響いた。行くしかない。砂の天の川は暗く静まっていた。
天の川。ここは戦場。手に握るは剣、胸に仕舞うは真、見つめる相手はかつての親友。
「久しぶりだねぇ。いつ振りだろうか」
「何をほざくか。いつ振りも何もないだろう」
「世の中の関節は外れてしまった。あぁ、何の因果だろうか。それを直す役目を背負うなどと」
昔諳んじた有名な悲劇の一節。この一節がとても印象的でそうして気に入っている。そう言えばこんな一説もあった。『人を殺める、なんとむごたらしいことか。かほど非道無慚なことかあろうか』と。この世界はやはり関節が外れてしまっているのだろう。それを直す役目が降り注いだという訳か。何と重く、大きいものだろう。ミドリは空を一度仰いで剣を立てた。思いを胸に押し込めて、一呼吸の後、剣を交え火花を散らす。
「馬鹿を言うな。この世の関節がどうした。外れたのなら折ってしまえ、切ってしまえばいいのだ。そうすれば、もう二度とそんなことは起こらないのだから」
剣を交え互いに動き続ける。一度も掠ることはなく、ひたすらに凌ぐ。金属音のぶつかる音は小気味良く鳴って、次の一手を阻む。進展のないまま、二人は距離を置いた。じっと待つ。地を蹴った。
これは芝居なのだ。ミドリはそう強く思う。ああ、憎たらしい、汚らわしい。そう彼が嫌いなのだ、そうなのだ。自分が自分としてここに存在している、この剣は相手を殺すための物。そうだ、振り抜け、払いのけろ、隙を窺え、目を離すな、糸を張れ、待て、待て、待て。ひたすらに待て。今は時ではない、時を計れ、瞬間を狙え。ミドリは呪文を唱えた。
静かな砂浜は二人を包んでいた。優しく冷たく、色鮮やかに包んでいた。
いまだ。
「こんなバツ、いらないというのに!」
ミドリは叫んでいた。嫌な感覚が手に伝わる。重みがあった。しかし消えていく。形が崩れていく。抱きしめようとした。けれども留まることはなく消えていく。
「私は。私は……、また、大切な者を失うんですね?」
一掬い、砂と化したアオの体を握りしめ、両の手で包み、祈るように叫んだ。
「ああ、この汚らわしい体、どろどろに溶けて露になってしまえばいいのに。あぁ、どうしたらいいのだ。この世界の営み全てが、厭になった。厭になった!!!」
彼はウィリアム・シェイクスピアのハムレットが好きだった。そんな彼が変わっていると思った。けれど、彼はきっとハムレットのように己が憎く、その憎しみを誰かにぶつけようとしたのだと思う。愛しい人をも失い、母からも疎まれ、最終的には死んでしまうのだ。この世界もそんな狂った世界だ。どうあがいても死んでゆく、関節の外れてしまった世界。彼にはそうしか見えなかったのだろう。アオは散乱していく意識でそう思った。
悔しいと思った時には無となっていた。砂になったのだと理解した。目の前に大きな硝子の壁が現れた。その向こうで無数の生き物が蠢いていた。そちらへはどうしてもいけなかった。硝子の表面を触れたはずの手は無かった。たくさんの砂の上に自分がいるという状況を把握した。そうして落胆し、絶望し、希望した。ここは関節の外れてしまった世界の中心だ。アオは自分の存在をここで認めた。
暫くして指先が動かなくなっていることに気が付いた。関節が曲がらない。鉛を持っているように重い。動かすのも気怠い。近くに影が落ちた。ミドリは動かせるだけの範囲でその方を見た。
「ミドリ……。なんで、泣いているの?」
「私はね。私は彼と対だった。双子のようなものだった。一緒に過ごした日々がとても懐かしい。私と彼は、あっちでも親友だった。あっちでも、やはり私が彼を殺した」
そう咎人だった。許されるはずもない。けれど彼だけは違った。許容し包み込んでくれた。自分の中の狂気を慰めてくれた。それがある日。狂気に歯止めが利かず暴走した。何もかもが憎くなった、殺してやりたいと強く願った。そうして彼を殺してしまった。また、彼を殺してしまった。ミドリは胸内で語った。とてもシロには言えなかった。
足はもう動かない。腕ももう動かない。心臓が痛い、呼吸が苦しい。冷えていく、熱が奪われていく。ああ、眠たい、眠たい。視界がぼやけて霞み、その中でふと思い出した。私は伝えねばならない。
「シロ・ルフェナ。……。さいご……、うつ、くしい。名を……。……、たい、せ、つに。ね……――――――――」
瞼を閉じたミドリ。微笑みを湛えたまま死んだ。いや、石になった。彼はとても変わっていた。不思議な空気を持っていた。天の川とハムレットが好きで、決して浪漫主義者ではなく、人生を悲観して、それでも楽天的な。ミドリ・ジェナー、それが彼の名。
「美しい名を大切に。……うん、分かっているよ。名前は大切にしなければいけなかった。ミドリ、きっと本当の名を、本当の名を聞かせてね」
叶わない約束だと分かっていた。口に出さなければ何にもならない。感情が溢れてきた。クロとはもう分かり合えることのできない感情が、ここに来て増えた。一つ、二つ、三つと。それはまるで追い打ちをかけるように、クロは別個だと強く、強く訴えてくる。
シロは目を瞑った。そして目を開け問うた。
「ねぇ、僕らはどうしてここに来てしまったの?」