9 『決着』
膨れ上がるエネルギーが体内を跳ね回っていた。
痛みなる灼熱の感覚も今は些細な問題だ。思考回路は潤滑、身体の具合はすこぶる良好。大怪我も利き腕の不在も、大量の失血も、模様が文字通り身体を縛り付けてくることも、片腕の喪失によるバランス感覚の消失も──まるで気に触れなかった。寧ろ体内の風通しが良いくらいだ。満ち溢れる不可解なエネルギーの奔流は左手から、正確には魔剣から流入してくる。
傍目から見れば、片腕のない死骸が起き上がったかのようだ。
しかしその実、早綾の脳内は冷静でありながら『灯火』を持ち合わせている。
黒の瞳は生気でギラギラと輝く。食屍鬼との最大の差異はそこにあった。
一層、凶悪な気配を噴出する禍々しい剣を握り、早綾は一歩──アトラ=ナクアへと歩を進める。
──魔剣のおかげで身体能力はすごくなってるけど、エトナみたいに飛び回るのを僕が真似する必要はない。エトナより重傷だし、走り回ればすぐにこけてしまう。だから僕は……正面戦闘しかない。
正直なところ、小細工なしの正面戦闘は厳しい。先ず手数が違いすぎる。早綾の有効打になり得る武器が魔剣一本なのに対し、アトラ=ナクアは黒脚二本と大斧一振り。こちらの攻撃を受け止め、残りの武器で無防備の身体を滅多打ちにできるのだ。一対一では無謀なのはこの面が大きい。また怪物の脅威は他にも、見た目通りの膂力、獣並みの基礎能力がある。
手負いの早綾では手に余る相手なのは百も承知だ。
だが──身体中に漲るエネルギーが主張する。
今このときこそが、如月早綾の絶好調なのだと。
「……サー、ヤ……」
思考する早綾を他所に、照明の明かりの強さが増す。ちらりと視線を向けると、茨模様に締めつけられたイルルが苦痛に歪む表情のなか、小さく微笑みかけてきた。やってしまえ、と背中を押されている気がした。だから早綾は薄闇の取り払われたアトラ=ナクアを真っ直ぐ睨みつける。
先刻から微動だにしないアトラ=ナクアは泰然と早綾を見下ろしていた。王冠がめり込んだ頭部や黄金の装飾品で飾りつけているため、さながら王のようだ。大上段に構えて人間を見下す、怪物の王。
瘴気で面は拝めないが、赫色に濁る双眸と視線が確かにぶつかる。
戦意が燃え上がり、早綾の形相は餓鬼のそれと化す。容貌の美しさも合わさって鬼めいていた。
右方から無音で黒い残像が突き破ってくる。──常人の視力で捉えられぬほど迅疾だ。
正確無比に放たれた槍。早綾は左腕をだらりと垂らした状態から斬り上げる。
絶妙なタイミングだ。振るわれた魔剣は黒々とした槍を捉える。
「……【茨よ】」
頭をよぎった文言を呟くと、意匠の凝った剣身が黒紫色の輝きを放った。否、光っているのは剣身に刻み込まれた文様だ。エトナが言うところの、文字魔術の刻印。洒落たデザインに見えるそれには、何らかの意味があることは知っていた。魔術的な意味合いで早綾に解読することは不可能だったけれども。
すなわち魔剣個別の特性だ。身体能力上昇と魔力の補助は魔剣全ての特徴だが、他にも魔剣にはそれぞれ
個性が備わっていることがあるらしい。昨晩、宿でエトナから教わった話だ。きっとこの容器を漂わせる輝きは、魔剣の特性に纏わるモノなのだろう。直感的に早綾はそう感じた。
訪れた変化は一目瞭然だった。
早綾の身体に浮かび上がっていた『茨模様』が薄れて消滅し、魔剣と接触した黒脚に移ったのだ。
茨模様は黒脚を締めつけるように蠢く。万力を想起させる強力な呪縛のようである。
突進の勢いは瞬く間に鈍くなって、早綾は歩行者を避けるような緩慢さで黒槍を回避した。
「──■■■■■■■!?」
事ここに至って、初めてアトラ=ナクアの悶絶した声が出る。驚愕と動揺に揺らぐ濁った声色。獣よりもノイズが激しい耳を刺す咆哮だ。普段の早綾ならば、耳を塞いでも不快感が消えない叫びに苦悶していただろう。しかし今の早綾はまるでお構いなしだ。
覚束ない足取りは、不思議なことに確信と自信を持ち合わせているようにも見えた。
──立ち向かえ。
己のうちに響く言葉を握り締めて前へ、前へと突き進む。
そんな彼に怪物の追撃が一向に放たれない所以は、震える怪物の身体を見れば推測できる。闇の瘴気や色合いのせいで見辛いが、『茨模様』が黒脚からアトラ=ナクアの体表を侵していた。黒槍は黒脚、つまりアトラ=ナクアの身体の一部だ。そのため茨模様の影響が全身にまで広がったのだろう。
終いには身体中に鎖を巻かれたかのように、身動きがとれなくなっていたのである。
怪物の口が裂け、覗く鋭利な牙が歯軋りを起こしていた。
「■■■■■■ッ!」
隆々の筋肉を震わせて、アトラ=ナクアは必死の様子で斧を振り上げる。
黒脚とは違い、確かに全力で受け止めざるを得なかった一撃。
片腕かつ、ふらついた様子の早綾ならばこれで仕留められよう。
実際それは事実だ。早綾自身も防ぐ手立てはない。酔拳の要領で避けるなら神頼みする以外ないのだ。
「に……【日輪の輝き】【信ずる真炎の光芒を見よ】【爆炎こそは生命の息吹】!」
大斧を乾坤一擲と振り下ろすアトラ=ナクアの右肩──丁度そこが爆裂し、態勢を崩す。
吹き飛ぶとはいかないまでも、大斧の狙いが狂う。人体を縦に寸断せんとした刃は、早綾の頭一つ横の空を裂いた。地面に深々と突き刺さり怪物は呻吟する。渾身の一撃が仇となり、前のめりで地面に縫いつけられた。つまり早綾に首元を差し出したも同然の位置となったのだ。
これで飛ばなくても済む。望外の幸運を妙な心地で受け取る。
壁際で魔力を際限ぎりぎりまで使い倒れ込む少女に、視線を向けず背中で応えて『終わり』に向かう。
「■■■■■■■■■■───ッ!!」
間近でアトラ=ナクアは吼え猛る。我が身の危地に、本能が悲鳴を上げずにいられなかったのか。
ぎちりぎちり、と束縛する文様を力一杯に振り切り……後退しようと八足を動かし出す。斧を手放し、後ろ向きでも頓着せずに逃げようとしているのだ。もしくは以前の不意打ちよろしく、背後から狙い撃とうと言うのだろうか。
この期に及んで仕切り直しされるのは体力的に厳しい。アトラ=ナクア本体は無傷に近いのに対し、早綾たちは皆死に瀕している。生きているだけでも奇跡だ。もう一度は間違いなく『ない』、最後の機会はこれきりなのは頭で理解しているつもりだった。
しかしアトラ=ナクアの抵抗も意味を失う。
「…………は。逃がし、ませ……ん」
だが──鬼気迫る気迫を発するエトナが、退散しかかるアトラ=ナクアの背後に立っていた。
彼女の得物である小刀二振りを構えて怪物を待ち受ける。両目の綺麗なスカイブルーの色は血で濁り始めていた。額を滴る血液は彼女の凄みを助長させている。負傷だけに着目すれば、触れると折れてしまいそうな大怪我に違いない。けれどもその瞳が語る。『逃がしはしない』。確信めいた思考が走る。エトナは何があってもアトラ=ナクアを取り逃がしなどしないだろう。
ならばあとは、確実に仕留めるだけだ。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──ァッ!?」
アトラ=ナクアの断末魔を無視して、胴体の下に潜り込んだ早綾は左腕に精一杯を込め。
剣の刃は情け容赦なく喉笛を抉った。
──死力を尽くした戦闘はこうして幕を下ろす。
数秒後にはアトラ=ナクアは痙攣すらも途切れ、絶命したことは間違いない。
それを確認すると達成感で震える早綾は、堪え切れず片膝をついた。
「お……終わっ、た……?」
「──はい、終わった、ようですね」
倒せた。無理を押し通し、一度は諦めた勝利が手に残った。
その事実が信じがたくて思考が空白に満たされる。
勝ち目のない戦闘を引っ繰り返した。いや、それよりも自分が立ち上がっていることに驚いた。
──は、ぅ。早く迷宮、から……出て、お医者さんのところに皆を連れていかない……と。
余韻に浸っている時間はない。この場の全員が満身創痍。このまま迷宮にいたら、他のモンスターや他の冒険者に見つかってしまう。そうなれば止めを刺されたり追い剥ぎされたりと、碌な運命が待ち受けていない。だから早急にイルルを背負って退却したい。
しかし無理に無理を重ねた結果として、早綾は糸が切れたように倒れ込んだ。
急激な眠気が襲い掛かってくる。今度は抵抗もできない、あまりにも──失血が多すぎた。
「サーヤ……!」
「ああ──素晴らしい。素晴らしい戦いだったぞ、少女。我が国が健在であれば勲章ものだった」
そんな、誰とも知れぬ男の愉悦に富んだ声色と拍手を耳に残して。
呆気なく早綾は意識を取り零した──。




