8 『限界の果てに』
え……と、な……?
唐突に響いた声に、早綾が霞目ながら目を見開いた。
見開こうが閉じようが、真っ暗な視界に変化はない。だが変化は明快だった。早綾を縫い止めていた黒槍の二槍が引き抜かれたのだ。そして暗中で剣戟らしき金属音が続けざまに打ち鳴らされる。一箇所どころか縦横無尽に響き、空中でもお構いなしだ。下手に起き上がっても戦闘の巻き添えを喰らうまである。
エトナは軍経験で夜目が利く、と早綾は朧げながら思い出す。
だから光もなく渡り合えているのだろう。渡り合えるだけの実力も持っていたようだ。
だがエトナはアトラ=ナクアの黒脚に刺し穿たれて重傷だったはず。意識を取り戻して自立しただけでも問題と言うのに、激しい戦闘など以ての外だろう。無理は禁物ではないか。あまりのことに、見当違いな怒鳴り声を出そうとしてしまいそうだった。
意識を取り戻したなら、強大な怪物に立ち向かわずに逃げて欲しかったからだ。
何故ならばアトラ=ナクアは自分たちの手に負える敵ではない。戦力として十分なイルルと魔剣を持った早綾の二人を相手取っても、怪物に太刀打ちできなかった。最善策は迷宮外に一刻も早く出て、ギルドに救助要請を行うことだ。これでは早綾の二の轍を踏んでしまっている。
どっちが阿呆らしいんだ、と早綾は声を大にして言いたい。エトナだけでも逃げてくれ、と叫びたい。
だが口元はどれだけ努力してもピクリともしなかった。
「なに、勝手に諦めているんですか! ぼうっとしてる場合じゃありません! サーヤ!」
叱咤と同時に、何やら投げ込まれて寝転がる早綾の身体にぶつかった。多量の出血で意識も明確に掴めていないが、反射的にそれへと手を伸ばす。
触感で物体の外形を脳内でなぞっていく。
柔い表面と仄かに温かみの残る生々しい筒状の物体──それと硬く鋭利で、触れると安心感を覚える剣。
これは斬り落とされた右腕と魔剣だろう。感情が麻痺したのか、そのことに些かの衝撃もなかった。
だがエトナはどうしろと言うのか。まさか戦えということなのか? そうならあまりに無謀にすぎる。剣があれど利き腕がないのだ。振るう姿は不格好だろうし、力を込めるのも困難なのは目に見えている。戦闘に参戦するにはお荷物以外の何者でもない。賢しいエトナがこんな判断をするはずもないか。
エトナの真意を図りかねる早綾は、自動的に傍観に徹することになる。
もしかすれば彼女がアトラ=ナクアに打ち勝つかもしれない。
彼女が一目散に逃走の道を選らばないのは、ひとえに勝利できると確信しているからだろう。
──エトナ……。
迷宮に幾度も疾風が駆け巡る。一つの気配は中空、地上問わずあらゆる方向から攻め、もう一つの気配は不動で迎え撃っているようだ。前者がエトナ、後者が怪物だろう。アトラ=ナクアは俊敏に動けるようだが、閉鎖的な迷宮という環境が災いして行動が制限されている。図体ばかり巨大でも、第一層との相性は非常に悪いだけなのだ。然れば大きな的でしかない。さながら鬼と大立ち回りを演じる一寸法師のようだ。
早綾には音を聞く以外に戦況を知る術はない。果たしてエトナは優勢なのか否なのか把握できず、やきもきして仕方がない。
片腕の欠損と槍の怪我による凄絶な痛みのなか、金属同士の多重奏が重なり響く。
「イルル! さっさと起きてください! 寝てる場合ですか!」
「ぃ…………たた、ちょ、っと……むちゃくちゃ、いうなぁ……」
交錯する戦闘音の狭間で、掠れ声が上がる。
ぶつぶつと聞き取れないほどの小声が囁かれたのち、うっすらと鬼火に似た火の玉が具現した。焔は闇を照らし、早綾の歪んだ視界に光が届く。
先ず目に入ったのは自らの身体の悲惨さだ。左肩と右腿の中心箇所から出血して右肩が切断されている。
そしてエトナで見かけた『茨の模様』が体表に浮かび上がっていた。
更には、手元に放り出された右腕と魔剣。実際に目にしたことで悲鳴を上げそうになるが、喉から発されるのは潰れた呻きだけ。暗闇に隠されていた患部のグロテスクさに、麻痺していた痛覚がぶり返す。
悶える早綾の周囲には、アトラ=ナクアと対峙する血塗れの少女が立っていた。茨を連想させる紫模様に縛られたまま、肩で息を零しながら戦闘態勢で構えている。両手に小刀をしかと握っていた。
腹部からの失血は服を派手に汚しており、見るからに酷くなっている。
火の玉の下には、先ほど射抜かれた位置から変わらずイルルが俯せに倒れていた。赤に濡れる白ローブの隙間から覗く素肌には茨の模様が刻まれている。何よりエトナと違い、起き上がれてはいない。三人の中で最も体格が小さい彼女には、空いた穴が大きすぎるのだろう。
だが這い蹲って壁際に移動している最中だ。
皆、諦めてなんかいない。今だって立ち向かおうと行動を起こしていた。
「魔術、まだできますか?」
「……一発だけなら」
「そうですか。……では、まだ取っておいてください」
目も合わせず短く会話すると、エトナは眼前の怪物へと疾走する。負傷者にも関わらず球のように躍動する。目前にいたと思えば、次の瞬きの間に壁へ、次にはアトラ=ナクアの天辺へと身体を躍らせた。疾風の如き速度、早綾は一瞬後に認識することしかできない。
獲物は一刀。それも小さく些細な小刀だ。
アトラ=ナクアの首筋を狙い、銀閃が走る。
──硬質な反響。
鮮やかな一閃を阻んだのは、怪物の脚もとい黒槍だ。
槍を薙いでエトナの攻撃を弾くと、更なる追撃としてもう一本の黒槍が彼女の身体に接近する。
空中に逃げ場はない。危機的状況に彼女は左手で応える。
「づぅ……!」
わざと槍を左手で受け、左腕の筋力で致命傷を避けた。
急場の判断としては及第点か。しかしエトナの手数はそこで尽きてしまった。
苦悶を押し殺し、地に足が着くのを待つ──だが怪物の攻撃手段は未だ存在する。
精一杯のエトナに、血を滴らせる斧が鬼火の光を浴びてギラリと照り返す。
……全てを見切って、なおかつエトナの行動にぴったり合った的確な攻撃であった。
動体視力は常人を凌ぎ、判断能力も獣のそれではないモンスター──アトラ=ナクア。
単純な強さ故に、勝つ術を見出せない。格の違いは身に染みた。
「ぁぐっ────」
──果ては、蛙のひしゃげたような音。むせた咳き込みと水っぽい音が広がった。
見ずとも結果は把握できる。アトラ=ナクアにエトナは敗北したのだ。
目の当たりにしたくない。意固地な早綾の気持ちと相反して、絶望の現実は目を逸らすことを許さない。大斧の刃が空中に舞うエトナを捉え、勢いそのままに彼女は迷宮の壁に激突したのだ。嫌な音が盛大に弾けて、力なく彼女の身体は壁下に落下する。一応、兇刃は短刀で防いだらしい。首や胴体が断ち切られる事態に陥ってはいない。九死に一生と言うか、エトナの反射神経が優れていたのか。
だが暗がりに沈むエトナの様相は惨憺たるものだ。
……ああ、終わり……これで、ぜんぶ。
最後の希望も潰えた。壁に寄りかかるイルルも虫の息に近い。照明を為す鬼火は揺らいでいた。
本当に終幕。閉演ブザーが鳴り響き、観客席は疎らな拍手を送る。──案の定の結末だ。
抗う者は瀕死であり、活路はどこにも見当たらない。急所らしき首狙いは辿り着くまでが一筋縄ではいかない。エトナの先ほどの顛末でそれは明らかだ。心臓狙いも大差ない。そもそも人体ならいざ知らず、アトラ=ナクアのような化け物だと心臓部の位置が不明だ。だからエトナも一見、目に見えた急所である首元を狙ったのだろう。しかしそれも容易に阻止された。
ここには『妥当』な終わりがある。
弱者が弱者らしく圧し潰され、強者が強者らしく悠然と見下ろす。これ以上ない図式だ。
胸を去来したものは……悲愁だけ。憤懣の心地すら湧かなかった。
ただ、酷く眠い。痛みは依然として身体を苛むものの、脳内に押しかかる睡魔の手に掛かりかけていた。
微睡みの絶望に身を委ねてしまいそうになる。
「し──死ぬつもりなんですか!? サーヤ!」
……死ぬつもりなんか、ない。でも仕方ないじゃないか、こんなの勝てっこない。
突然の叫びに、早綾は薄れかける意識を繋ぎ止める。
暗闇に紛れて見えないが、エトナは致命傷を防いだだけでなく意外と無事だったのだろうか。否、咳き込みは酷さを増し、嗚咽の唸りも吐血の水音も耳に入る。執念と意地で意識を保っているようなものだろう。イルルも同様に違いない。苦し気な表情は痛ましい。
では、早綾は。異常な眠気に襲われながらもエトナの声に耳を傾ける早綾は、何なのだろう。
「……血反吐を吐いても、弱くても、立ち上がってください! 死ぬなんて……ぐッ、許しませんよ!」
なんて、手厳しい言葉の数々か。必死の滲む叫び声は甘さの欠片もなかった。
暗闇に響き渡るエトナの叫びは命令口調ばかりで、本当に勝手だ。
早綾のことばかりを口にして。自身の傷には頓着せず、身体に響くだろうに声を張り上げて。
……僕のことなんかどうでもいい……今、命の危機に瀕しているのはエトナもなのに。
吐露するような愚痴に似た、しかし痛切な味のする不思議な気持ちが溢れ出す。
不愉快ではない。温かい。温度を持った叫びだった。
「これから頑張っていくんでしょう! 認められる人になりたいんでしょう!? だったらここで立ち上がってみせてくださいよ!」
──まさか、と思った。打ち消した結論が真実であるとようやく悟る。
エトナは真剣に『魔剣を使って戦え』と右腕ごと投げ渡したのだ。
そんなもの、馬鹿げた判断と非難されても仕方がない愚行ではないか。お世辞にも利口と言えない早綾ですら取り下げた考えだ。脳味噌を筋肉と入れ替えられたのかと疑う思考回路に違いない。蛮勇が実を結ぶなど幻想なのは自明の理だろう。聡いエトナなら尚更、理解しているはずだが……。
それでも。
エトナは早綾に愚かしさを重ねろと言うのか。
無謀でも自棄でも玉砕覚悟でぶつかれば、もしや起死回生の一手になり得るかもしれない。
そんな自暴自棄に陥っているのなら──。
「誰より先に、私に認めさせてみてくださいよ! サーヤぁッ!!」
その言葉で「ああ」と思った。
違う。違うのだ。鈍感な己が恨めしくなった。
これは破れかぶれの言ではない。藁にも縋る慟哭などでも決してありはしない。
真に頑張る気があるのなら、この場でやってみろと。
男らしさを主張するのなら、この劣勢にこそ立ち向かえと──激励しているのだ。
勝利が目的ではなく、立ち上がる姿勢こそが、諦めない意思こそが『頑張る』真の意義と言っている。
無暗にぶつかれということではない。あくまで手札の一つとして手元に置かれただけだ。
だが必ず立ち上がれ。努力を放棄し傍観者気取りで俯瞰など、早綾が目指す男らしさはない。
──本当、馬鹿じゃないの……エトナ。僕が、どれだけ痛いか、どれだけ死にそうか、わかってるんだろ。この状況はみんなの命がかかってるのもわかってて……本当、君は自分勝手だ。
けれどそれは本当にエトナらしくて、応えなければ──それこそ嘘ではないか。
一つは、掛け替えのない相棒が呼んでいること。
もう一つは、大事な想いを無意味にしてはいけないこと。イルルを救うために振り絞った勇気を、早綾を守るために身代わりになったイルルの善意を、損なうなどと。無駄に帰してしまうのを許容しては駄目なのだ。
立ち上がる『理由』なんて、二つだけで十分じゃないのか。ちっぽけな彼にはそれだけで十分だ。
今一度、勇気を。この胸に勇気の灯火を。
「……け……え、う、ごけ、うごけ。動けぇぇえ───!」
魔剣を左手で握り締めて、左腕を乱暴に扱いながら立ち上がる。
軋む軋む。古びた屋台骨みたく身体の節々が絶叫する。だが構うものか。
全身全霊を足に込め、満身創痍は百も承知だとばかりに裂帛の気合いを叫んだ。
──ありったけを。僕のあらゆる全部を犠牲にしたって、僕は。
そうしてふらりと、早綾は立ち上がる。幽鬼の如き面妖さを醸す異様な雰囲気を立ち上らせて。
左手の魔剣が、光もない暗黒の中で一際妖しく煌いた。
『魔剣オルドニクス』
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