7 『末路』
茫然と立ち竦む早綾の周囲を闇が包んだ。
迷宮本来の暗闇に一筋の光明もない。一寸先すら見通せない。眼前で腹を貫かれ、膝立ちで顔を伏せたままのイルルも埋没した。アトラ=ナクアの禍々しい姿も視界から消える。イルルが空中に浮かしていた火玉の消失する最後、瘴気の向こう側でアトラは薄ら笑いに口元を歪めていた。
慌てて剣を握る。一瞬にして思考が氷のように冷却された。
しかし為す術などありはしない。
視覚を封じられた現在、まともな戦闘など成立するはずがないのだ。
こうなれば魔剣で強化されようとも、五感など殆ど意味をなさない。
獣臭さに満ちた迷宮で嗅覚は使い物にならない。知覚し行動に移せるまでが遅く、何より嗅覚では攻撃の感知が大雑把だ。触覚に頼るのはあまりに悠長すぎる。味覚など言わずもがなだ。
唯一か細いながら可能性があるのは聴覚だが。
気付くべきだった。アトラ=ナクアが最初にエトナを葬ったとき、音などしなかったではないか。
沈黙の暗殺者。それこそがアトラ=ナクアの真髄であると……その瞬間まで到達できなかった。
豪風が頬を叩いたとき、全てが終わっていた。
「あ────」
零れたのは間抜けた声だ。
熱い。寒い。相反する感覚が右肩が灼熱の痛みを迸らせる。
──どうして右腕の感覚がないのか。
どうして呼吸が荒くなるのか。
体温が徐々に失われていくのは何故なのか。
意識が靄に覆われていくのは何故なのか。
どうして人工的なまでの冷徹な思考が消え、こうも困惑と恐怖が綯い交ぜなのだろう。
心地の良い冷たさでなく、不安感のみが心を占めた。
認識せざるを得ない。全ての答えは最悪の現実に帰結していた。
魔剣を掴んでいた右腕ごと、すっぱりと断ち切られたのだ。
「あああ、ああああああァぁ────ッ!!!」
早綾の絶叫が迷宮内に木霊する。
痛みと精神的な衝撃に堪えられず地面をのたうち回り、涙と涎と鼻水で顔中を汚し尽す。泥や砂にも構わず己を苛む痛みのままに這いずった。長い髪の毛も絡まって、酷い状態だろう。イルルとタッグを組んで、一時的に拮抗状態で立ち回った者と思えぬ醜態だ。
ここには泣き虫の如月早綾しかいなかった。
魔剣がなければ早綾など木っ端にすぎない。冒険者の端くれすら名乗るに烏滸がましい弱者だ。
全部を拾い上げようとした傲慢は、全滅という最悪の結末で幕を下ろすに相応しい。
身の程を弁えなかった早綾は『欲張りは命取り』という冒険者の鉄則を逸脱していたのだ。
無様を晒す早綾に、無情にもアトラ=ナクアの刺突が襲う。
「ぁ、ああ、が……」
更にもう一本。
「────ぁ」
遂に早綾は沈黙する。まるで昆虫標本のような有様で地面に縫い付けられた。
右腿に一本、左肩付近に一本。身じろぎすらも難しい。苦痛に泣き叫ぶ気力はたった二撃で朽ちてしまった。口角が電気的な痙攣を起こし、喉から調子外れの声が飛び出るだけだ。
絶対に逃れ得ない。不運にも気絶できていない今、早綾の胸中を埋めたのは謝罪だった。
末路を招いた懺悔だ。力不足が理由の死には自己責任が付き纏う。
──ごめん、なさい。ごめんなさい。僕が、僕がちゃんとしていれば……。
何を「ちゃんとしていれば」なのか。イルルをちゃんと見捨てて迷宮外に逃げ帰っていれば、なのか。少なくとも、その道筋を辿るのであれば全滅は免れたかもしれない。だがつまりそれは、イルルの存在を否定する暴虐の言葉に他ならない。早綾もそんなこと望んではいなかった。
ならば小金持ちを良いことに胡坐を掻かず、危険な迷宮に足を踏み入れたことだろうか?
それとも魔剣を手に入れ、エトナの言う通り売却しなかったことだろうか?
早綾自身も判然としない。ただただ心中で詫び続ける。それ以外のことなんて、何もできなかった。
──やっぱり、僕は変われなかったな……結局、僕はこんな、駄目で終わる。
自嘲のままにからっぽに笑いたかった。掠れた息しか漏れない。
思えば納得の終幕かもしれない。泣き虫で、痛がりで、弱気で、それほど頭も良くなくて、非力。如月早綾の性格は男性らしさに欠けていて、非常に軟弱だった。一人で立ち上がれもしない。
酷薄な迷宮内においては、こんな軟弱者が生きていたのが不思議だったのだ。
いつしか早綾の脳裏に昔のことが映り出す。俗に言う走馬燈という奴なのだろうか。
平凡で温かい現代での生活。
目覚ましの代わりに母に起こされて、もう制服に着替えている妹やコーヒーを啜りながら新聞を読む父と朝食を食べる。そのあと嫌々な早綾に構わず、えらくご機嫌な母に髪を梳かされて身嗜みを整えられた。妹と一緒に家を出て、登校時刻ぎりぎりに教室へ到着する。勉強は苦手だった。特に数学と化学の授業は、いつも眠気との戦いだった。学校では女の子扱いで可愛いがられて、身の置き所が分からなくなっていた。けれど、皆との学校生活は楽しかった。
──既に過去になった、取り戻しがたい日常だ。
鮮烈で厳しい異世界での生活。
浮かんだのは最近の迷宮都市での生活だった。最初の頃は目覚めるとき、いつも背中が痛かったように思う。路上の凹凸は布を敷いてカバーし切れない。そうして起きた早綾を、灰髪の少女が「おはようございます」と慇懃に挨拶してくれる。昨晩のご飯だった熱血さんの店で食べ残しておいた食べ物を口に入れて、迷宮都市に流れる川から水を汲んで、顔と髪を洗うとギルドへ向かう。柄の悪い冒険者たちから嘲笑されながら、最低級の依頼を引き受けて、日没までに完遂しようと迷宮へ繰り出す。
──荒んだ毎日だったけれど、相棒と一緒に過ごした大切な日常だ。
改めて涙が溢れてくる。今際の際に無力さの口惜しさを噛み締めた。
闇の何処かから死を象った斧が振り下ろされるのを、ただ待つだけなんて。
「──全く、阿保らしいです……よ、サーヤ」




