5 『階層主』
──それに、最初に気付いたのはエトナだった。
タータルの影を目を皿にして探す二人から、些か離れた位置を維持して彼女は歩いていた。隊列の殿のような位置取りである。後方警戒を自ら務め、明らかに背後への意識がおざなりな二人を見守る役目だ。照明係のイルルと早綾が先行しているため、エトナの周囲は薄闇に塗れている。だが早綾よりは軍経験のおかげで夜目は利く。明かりがなくても別に不自由しない。
エトナは暗中で片手に持った短刀を持ち替え、闇に紛れて接近するゴブリンを討つ。
必要最小限の動きで仕留めると、何事もなかったように二人に付いていく。
音も立てず、気取られず。単純な邪魔者を排除することに理由はない。
……強いて言うなら、サーヤに無駄な心配はかけたくないから……ですかね。
はてさてイルルが大ポカを犯したことで、必死に依頼達成を目指さねばならなくなったのだが──。
実際のところ、現状エトナの意識は依頼関係に向いていない。元からイルルを仲間に加入させるか否かのみで受領した依頼。生活費にかかわるが、切迫した問題でない今は気楽でいい。しかし彼女が現在、依頼になおさら意識を割いていない理由は他にある。
妙なのだ。迷宮内の嫌な雰囲気、不吉な兆候らしき違和が無視できないほど多い。
迷宮内で出会う冒険者の少なさ、はぐれモンスター多数、そして何より。
「……あまりに、静かすぎます」
独りごちるエトナは洞窟内の闇を意識する。
胸を占める異物感。半年ほど通い詰めた迷宮でないような感覚が心の隙間に吹き込んでくる。
早綾やイルルに伝えるべきだろうか。過る不安が迷いを生むも、結局エトナは却下した。
ただ予感がするだけだ。何か客観的に見て、異常を感じ取るに値する証拠がなければ駄目だろう。
早綾を無駄に不安がらせたくない。
──魔剣の件もあります。サーヤは今、精神的にどこか不安です。私が支えてあげませんと……。
昨晩の宿屋で話した内容を思い返す。路上生活を脱出するに足る資金を得たため、昨日は宿で夜を明かしたのだ。勿体ぶって今まで通り路上で寝るのは不用心極まりない。大金を持った以上、それなりの防犯意識を持たねばならない。半年ぶりにまともに室内で休息をとった。
そこで早綾が拾ってしまった魔剣について話し合った。
魔剣とは魔導具の一種である。有り体に言えば『身体能力や魔力の補助、あるいは特質さを秘めた剣』の俗称が魔剣だ。どこでも売買される安い品ではない。由緒正しい家柄に伝わる宝刀、大昔の遺跡に残された宝物庫……現在に至るまでに魔剣は宝扱いなほどである。
この魔剣が、郊外の草原で骸を晒していた誰かの私物だとしよう。だとすれば死骸の彼はなかなかの実力者か貴族かであり、この魔剣はやはり貴重な物品なのだろう。
あまりに目立ちすぎれば、面倒事に巻き込まれる可能性は高い。
そして最大の問題点は、早綾とエトナの見解は一致した。
魔剣を握ったときだけ早綾の性格にズレがあることだ。
早綾自身も薄く自覚していたようだが、傍目からは一目瞭然だった。優しい対応びくびくした様子が豹変して冷静に。エトナの励ましに対する冷徹さを含んだ封殺。血が苦手だった彼が、嫌がる素振りも見せずモンスターを斬り払ったこと。ゴブリンの死骸を何の感傷もなさげに扱ったこと。
物腰柔らか、悪しく捉えるならば弱虫の彼に似合わない所業の数々だ。
普段通りに振る舞う早綾だが、どこか無理している。彼にこれ以上負荷をかけたくはない。
──強烈な視線。ひりつく緊張感。匂い。戦場で幾度も嗅いだことのある死の匂いがする。
不吉な予感が本格的に鎌首をもたげ、全身に鳥肌が立つ。
本能が激しく警鐘を鳴らす。肉食獣の鼻先にぶら下げられた心地すらあった。
依然として確たる証拠はないが、もはや自分を誤魔化すのも限界だ。
決心し、前方の二人に呼び掛けようと息を吸う──しかし何を考えたか彼女は声を上げるのを止めた。
その隙は致命的だ。エトナに気配を悟られることなく、その『闇』は背後に迫り。
彼女を、毒牙にかけた。
※※※※※※※※※※
「サーヤ逃げ……!」
早綾が異常に気付いたのは、背後から唐突に突き刺さるエトナの声でだった。
切迫した叫び声に竦められた瞬間、早綾の隣に『何か』が後方から転がってくる。
反射的に視線はそれに目が向く。不格好に着地し、赤黒い染みが滲むそれは人型だ。
灰色の髪を地面に流し、目元は髪で隠れている反面、覗く口元は力なく開いていた。彼女の武器だったはずの二振りの短刀は、手に一本だけ握られているだけとなっている。何より目を引くのは、脇腹付近から淀んだ赤色の染み。命の欠片が零れ落ちるさま。
彼女が誰なのか。頭では理解している。だが到底、早綾に容易に飲み込めるモノではない。
「エ、トナ……?」
「──【日輪の輝き】【笑むは蜃気楼の揺らめき】【火炎の渦よ、巡り巡りて獄に舞え】」
早綾が震える声で呼び掛ける傍ら、厳しい顔でイルルは間髪入れず魔術を扱う。彼女の周囲に魔力が渦を巻いて、中空に火炎の螺旋を描き出す。慌てて早綾は倒れているエトナの襟首を引っ張り、飛び退いた。そんな様子の彼に構わず、イルルはランタンを背後に向かって投げつける。思わず早綾もそちらに目が向く。
闇を切り裂きながら回転するランタンは、終ぞ地面に落ちることはなかった。
硝子の割れる硬質な響き。空中で鋭利な枝に突き刺さったランタンは壊れ、腸を晒した。
突き刺した物体の正体は、イルルに取り巻く炎が紅く照らしている。
その、異形の姿が白日の下に晒され──早綾は瞠目を返した。
──例えるならば蜘蛛と獣の複合体か。
上半身は黒毛を濃く生やした獣のようだ。外形からは何の動物か判断できない。闇と同化するみたく暗色の瘴気を纏っているようで『獣』であることしか分からない。ただ赫色の双眸が黒色に穿たれ、ルビーめいた輝きを見せている。肩からだらりと垂れ下がる逞しい双腕は、大斧を掴んでいるようだ。薪割りのごとく、人間の天頂に叩き込めば真っ二つにできそうな大きさである。
そしてこのモンスターは、土埃塗れの王冠を被っていた。いや、めり込んでいると言うのが正しいのだろうか。サイズが明らかに合っておらず、王冠が今にも弾けそうだ。また肩や腰には、汚れの目立つブレスレットやネックレスがかかっている。いづれも先日のゴブリンが所持していた財宝の数々に酷似していた。
下半身は大蜘蛛。アラクニアも巨大蜘蛛のモンスターだったが、それと比較にならない大きさだ。通路を身体一つで塞いでおり、深黒の足が十本で巨大な体躯を支えている。蜘蛛の足は普通、八本のはずだが……。
その異形の姿は、早綾の知識に残るギリシャ神話の怪物や絡新婦を思い起こさせる。
もっとも上半身は美しい女性などではなく、畏怖を覚える黒い獣なのだが。
「うわぁ──」
「なんだ、これ……」
無意識のうちに早綾は後退る。腰が抜けてしまいそうだ。イルルも怯みの声を漏らしていた。
半年もの間、迷宮第一層に入り浸っていたはずだが──こんな化け物、見たことがない。
それどころか他の冒険者からも聞き及んだことすらない。第一層は大型モンスターが出現したとしても、精々が人と同じ体格までのはずだ。しかし眼前で睨む化け物は、タータル並みどころか三メートルは軽く超す巨大さを闇に潜ませている。明らかな異常事態だ。
そして。思い過ごしか知れないが、化け物の瞳が早綾を射抜いているような気がする。
ぎゅうと、動かないエトナの襟を知らず握り締めていた。彼女の草臥れた手汗が滲む。
恐怖と惑乱で埋め尽くされる脳内は混沌の坩堝と化す。
未知の敵。禍々しい姿形。だが何よりも早綾の思考を奪っているのは、手に掴んだ少女だ。
「エトナ……エトナ、しっかりして!」
早綾は急いで抱き抱え、エトナの顔に近付ける。
端正な顔立ちは苦痛でか歪んでいた。眉は曲がり、瞼は辛そうに閉じられている。掠り傷が散見され、ところどころ血が滲んでいる。大怪我ではないが、親友の痛ましい姿に鼓動が早まった。
腹部に空いた丸い失血部分を抑えると、どくりどくりと彼女の脈動が伝わってくる。
生きていることに安心を覚えたが油断ならない状況に違いない。
血を浸した手が生々しさを実感させる。熱い。生の証左はあまりにもグロテスクだった。
「なんだ、これ。この模様……」
今まで動転して怪我にしか目がいかなかったが、エトナの全身には奇怪な紫の模様が浮き出ていた。
茨を象る不吉な模様は彼女を縛り付けるよう──心なしか、模様がぎちりぎちりと蠢いている気がする。
間違いなく以前のエトナの身体にはなかった代物だ。
正体不明。おそらくはあの化け物の仕業なのだろうが、拭って消えるものではない。
何にせよ『善い』ものであるはずがない。
迷宮外に出て医者へ掛からねば。顔を蒼白に変えながら、早綾は叫ぶ。
「イルルちゃん! 逃げないと──」
「……あたしは無理っぽい」
炎の螺旋の中での彼女の呟きに対する「どうして」の声を、寸でのところで押し留めた。
イルルは化け物の牽制を務めているのだ。
位置関係上、化け物の真正面にはイルルが炎を纏って対峙している。早綾や気絶しているエトナに、化け物が手を出さないのはそうした理由だ。互いに相手の出方を窺った、睨み合いが続いている。だから早綾も攻撃の雨曝しを受けることなく、悠長にエトナを抱き抱えていられるのだった。
イルルが逃げの手段を選び取った瞬間、化け物はその一瞬を見逃さず仕掛けてくるに違いない。
彼女の言から察するに、渦を維持したまま動けないのだろう。だからこの状況は難儀なのだ。
皆揃っての撤退は不可能である。であれば……。
「サーヤ」
炎の渦の間隙から、内側に立つイルルのあどけない横顔が覗く。
笑顔ばかり浮かべていた少女の表情は真剣そのもので、眼前の化け物へと向いたままだ。
「どっちか、選んで」
心を射抜かれた気持ちがした。
逃げて──あのときエトナは言った。つまりあの怪物は、いつも頼り甲斐のあったエトナが勝てない敵だ。
図体も大きく、強者が発する圧力を持つ相手。
雄々しく立ち向かうのは愚行だ。一時撤退してギルドに報告し、討伐隊に一任するのが賢明だろう。いつも冷静で、いつも真っ当なエトナが言った通りなら間違いない。全幅の信頼を置けるだけの実績も安心感も、彼女は持ち合わせているのだ。
ならば迷う暇はない。昨日会ったばかりのイルルを囮にでもして、迷宮外へひた走るべきだ。
──そ、そんな。でも、やっぱり僕は。
姑息? 否、迷宮都市では誰もがしている常套手段だ。
自分が身に染みて理解できている。幾度も幾度も騙された経験のある早綾ならば。
イルル自身が納得するかなど関係ない。今ならば逃げ出せる。
それにエトナの容態は悪い。なるべく早く医者に診せねばらない。だからこれは彼女のためにもなる。
イルルも重々承知しているはずだ。にも拘らず釘を刺さないということは黙認も同然である。
逃げろ、ときっとイルルも言っているのだ。一言も呟いていないが、そう思えば楽だった。
──逃げればいい。僕はだって、弱いんだし、エトナを早くお医者さんに診せないとだし、イルルは強いんだし、僕なんかがこのままここにいたって……。
けれど。
本質的な話として、だ。
自分より小さな女の子が果敢に戦闘の意欲を見せる横で、女々しく逃げ出すなんて──果たしてそこに早綾が憧れる『男らしさ』があるだろうか? 『強さ』があるだろうか?
……そんな無様を晒して『男らしくなりたい』と。『認められたい』と。口が裂けても言えやしない。
勿論、逃走は臆病者の特権ではない。賢者の賛美されるべき行動と分かっている。
だからこれは愚か者の意地でしかない。非難され、エトナからも詰られるだろう大馬鹿だ。
「こんなの、僕のわがままだ」
自分だけでなくエトナの命にも関わることだ。勿論、容易く賭けられるような代物ではない。
実際、彼女の患部にあり合わせの布地を巻く今も、心のどこかで後悔している。
どうして自分は逃げないんだ。戦闘開始前の今なら、負傷も少なく帰還できるだろうに。
エトナのことが心配ではないのか。あの声が、苦しみの息遣いが聞こえないのか?
昨日会ったばかりの少女と唯一の相棒。天秤に乗せればどちらが重いかは明白なのに──。
──ごめん、エトナ。痛いだろうけど、苦しいだろうけど、待っててほしい。
迷宮の隅に避難させ、早綾はなけなしの勇気を振り絞って。
炎熱を感じながらもイルルと肩を並べ、異形の化け物を見据える。
──だって。ここで立ち向かわなくちゃ、僕はきっと一生駄目なままだ!
心して、魔剣の柄に指を這わせた。
「一人で戦うより、二人の方が早く終わるよね……!」
「──もっちろん! やるよっ、サーヤ!」




