(6)
「直!」
その次の休日、ニーナが突然俺の部屋に入ってきた。いつもさらさらのロングヘアが、強風の中を走ってきたかのようにうねっている。部屋着でベッドに寝転がっていた俺は、そのあまりの剣幕に飛び起きて、「何事だよ!」と大声でニーナに問うた。ニーナは「大変なのよー!」と地団駄を踏んだ。
「澪が今日、彼氏とデートなの!」
俺はそのままベッドに倒れ込んだ。
「何倒れてんのよ」
「なんだ、そんなことか、と思って」
デートなんていつもしてるじゃないか。
「そんなことか、じゃないわよ」
ニーナがベッドに寝転ぶ俺の手首を取る。一瞬時が止まって、俺の息が詰まる。そのまま引っ張ってニーナをベッドに引きずり込んでしまおうかと思ったけれど、わずかばかり残っていた理性がそれを止めた。するとニーナが逆に俺を引っ張った。
いったいなんなんだよ?
俺をベッドから引きずり下ろして、ニーナは叫んだ。
「あとを付けるわよ!」
「っはぁ?」
俺は今にも駆け出しそうなニーナを引き止めて、尋ねた。
「待て、説明を求める」
「あのね、あのね直」
ニーナの話はあっちこっち飛んでわかりにくかった。ニーナ自身とても混乱しているみたいだった。何度も聞き返して、ようやく俺は事のあらましを理解した。
今朝、澪とニーナがMINEで話しているときに、澪が言ったのだそうだ。
『初めてって、痛いのかな?』
と。
俺はそれを聞いて頭が痛くなった。ニーナが言いたいことがわかったからだ。つまり、ニーナは、今日澪がその“初めて”を迎えるんだと思っているんだろう。そんなの考えすぎだろうよ。考えすぎ、考えすぎ……。
何度も何度も俺はニーナにそう言い聞かせたが、ニーナはちっとも聞かなかった。そりゃニーナにとっちゃ一大事だろうけどな。何も俺を巻き込まなくたって……。それに、澪が仮にそのラグビー部の彼と“初めて”を迎えるんだとして、俺らがそれを止める権利などどこにもない。世の中には知らないほうがいいこともあるのだ。
けれども俺は結局ニーナに勝てなくて、パジャマがわりのジャージ姿のまんま家から引っ張り出されたのだった。
澪は十時に駅で彼氏と待ち合わせらしい。
駅までチャリをこがされた。もちろん後ろにニーナを乗っけて。ニーナは「特急直号」とそれを名づけて、やれ速くこげだとか、やれ優しく運転しろだとか、文句ばかりつけていた。俺はそれを鼻であしらいながら、まるでデートみたいだなあと見当違いなことばかり考えていた。
駅前の駐輪場にチャリを置いて、俺たちは澪を探した。三十分ほどあちこちまわって、駅前の喫茶店からちょうど彼氏と一緒に出てきた澪を見つけた。俺たちは昔の探偵のように電柱の影に隠れた。
「直のバカ野郎」
「なんでだよ」
「ムカつくのよ」
ニーナが人差し指の爪をぎりぎり噛んでいる。でも、ニーナがムカついている相手は俺じゃないだろう。
澪の彼氏は背が高くて、さっぱりした短髪やシンプルな私服が男の俺から見てもかっこよかった。その隣を歩く澪はあの夜選んだ花柄のワンピースを着ていて、大学生のようにも、それ以上にも見えるくらいに大人っぽい。ムカつくくらいお似合いな二人だった。
二人はそのまま駅前の裏路地のラブホ街へと入っていく。
「どうする?」
俺はちょっと気恥ずかしくなってニーナに尋ねた。ニーナが俺の頭をはたく。
「追うわよ」
「でもここから先、アレだけど」
「アレとか言わないで。もしかしたら澪とクソ彼氏、たまたま近道で通っただけかもしれないし」
そうであることを願っている、って言葉、付け足したほうがいいぜ?
俺たちは十メートルくらいの感覚をあけて澪たちのあとを追った。澪たちはまさかつけられているなんて思いもしないのだろう。堂々と二人腕を組んで歩いている。澪の履いているヒールの足音だけが響き渡っていた。ニーナがあと三軒、とラブホ街の終わりまでのカウントダウンを始める。
「あと三軒通り過ぎれば終わりよ」
けれども、ニーナの祈りは通じなかった。
二人は終わりから二軒目のラブホの、七色のピラピラがついたイカれた門をくぐって仲良く入っていった。レインボーキャッスルとかいうこれまたイカれた名前のラブホだった。
俺は慌ててニーナを見た。
その時のニーナの表情といったらなかった。絶望? そんな言葉じゃ軽すぎる。自分が信じてたものを全部粉々に打ち砕かれたような顔をしていた。
「止めたらよかったな。ごめん」
思わず謝罪が口をついて出た。ニーナの瞳に涙がふっくらと浮かび上がり、彼女は突然弾かれたように俺の頬を叩いた。ビタン、という音が路地中に響き渡った。
「直のバカ野郎!」
彼女は声を殺しながらそう叫び、俺の胸の中に飛び込んできて、けれどもか弱い女子のようにおいおい泣くことなく、俺の胸を叩いた。何度も何度も叩いた。ニーナの力は意外に強くて、胸にずんずん響いて痛い。咳き込みそうになったけれど、こらえて、俺は馬鹿みたいに突っ立って「うん」と頷いた。
「謝るくらいなら、あたしのこと、抱きなさいよ! あたしのこと抱きなさいよ!」
ほとんど息のようなかすれ声で、ニーナは言った。俺の胸ぐらを掴んで、そう、言った。
お前はヤケになってるだけなんだよ、と茶化すことはやろうと思えばいくらでもできただろう。でも俺にはできなかった。そんなことしたらニーナは一生俺のことを許してくれないだろうから。俺に迫られた選択はイエスかノー、ニーナを抱くか抱かないかだけなのだ。
正直言って、ニーナを抱けるチャンスなんて今くらいしかないだろう。でも……。俺は自分の気持ちがどこか冷めていくのを感じていた。
「抱かないよ」
俺はニーナの肩を掴んで引き離した。ニーナが半開きの口をぱくぱくさせる。
「俺はそんなニーナのことは、抱けないよ」
「直、あんた……」
ニーナが何か言おうとした。
でも俺はニーナがそれを口にする前に、踵を返してその場を立ち去った。ニーナを置いてけぼりにすることに抵抗はあったが、とてもじゃないけれど、ニーナの顔を見ていられなかった。それ以上ニーナと一緒にいたら、俺が壊れてしまいそうだった。
駅まで戻って、気分が悪くなって駅のトイレでゲロを吐いた。朝ごはんを食べ忘れていたから、出てきたのはほとんど胃液ばかりだった。
こんな思い、とえずきながら思った。こんな思い、ぐっちゃぐちゃに丸めて全部吐いてトイレに流してやる、と。けれども捨てきれないものが胃の底に残った。それを恋というのだと、俺はその時初めて知ったのだった。