(2)
「塚本。三年が呼んでる」
クラスメートからそう言われて廊下に出ると、ニーナが不機嫌そうに壁にもたれていた。長い手足も、壁にもたれてうつむいた憂鬱な視線も、気だるげな表情も、モデルの一枚の写真みたいに様になっている。だから通りすがる男はみんな、一瞬はニーナのほうを見ていく。無防備なニーナは突き刺さる視線を気にしない。
ニーナは汚い男になんか興味ないのだ。
あえて声をかけずに、教室から半分出て半分入っているような状態でいると、ニーナのほうからこちらに気づいた。
「直」
ハスキーな声が俺を呼ぶ。うん、と、返事をしたら少し上ずった。
「どうしたの」
「お願いがあって」
「お願い……?」
ニーナは内緒話をするように声を潜めた。あのねあのね、二組の山本さんってね、同じクラスの飯田くんと付き合ってるのよ……。だなんて、女子たちが窓辺でそんな話をしていたときのことを思い出した。
「付き合ってることにしてほしいの」
「誰と誰が?」
「あたしとあんたしかいないでしょ」
「どうして?」
「ゴースト彼氏よ」
意味がわからない。
「ま、わかんなくていいけど」
ニーナがつんとすましてそう言って、俺はようやくこれが「お願い」なんていう甘いものじゃなく、ただの命令なんだと気づいた。俺には利益も拒否権もない。タンバリンを持った猿のオモチャみたいに黙って頷いていればいいのだ。
ニーナは「とにかく来なさいよ」と俺の手をむんずと掴むなり、強く引っ張った。見た目よりもずっと柔らかい手でドギマギした。でもニーナはそんなこと気にしていないみたいだ。
ずんずんと大股に歩いてニーナが向かったのは、体育館の裏だった。一人の男子生徒が顔を真っ赤にして、もじもじしながらニーナのことを待っている。
……ああ、ゴースト彼氏ってそういうことね。
「荒川さん、俺、荒川さんが初恋の人で……」
ニーナは水戸黄門の印籠のように、その男子生徒の前に俺を突き出す。
「あたしの彼氏。てわけで、さよなら」
一方的にそれだけ告げると、ニーナは俺もその男子生徒もおいてけぼりにして帰ってしまう。パンツが見えそうなくらい短いスカートがひるがえる。ニーナの脚は他の女子生徒よりずっと長くてスラッとしていて、スカートの中をのぞいたらどこまでも続いていそうだ。
いつか誰かが、あの脚がどこまで続いているか確かめに行くんだろうか。誰が? 俺が? 澪が? それとも、合コンで知り合ったような“繁殖活動”のお盛んな運動部が?
知らないうちに目の周りの筋肉に力が入っていたみたいで、眉間のあたりが不自然に痛んだ。
やっぱりニーナはニーナだ。俺のことなんか、鼻くそくらいにしか思っていないのだろう。まあ実際何をとったって、澪と比べれば鼻くそみたいなもんなんだけれど、実際にそうやって現実を突きつけられるとちょっとへこんだ。きっと俺に彼女ができたって、ニーナは澪に「直に彼女ができたんだって」なんて話したりしないだろうと思う。
俺なんて、たかがその程度の存在なのだ。
ニーナに告白した男子生徒と目が合う。
もちろん、彼だって。
「あ……」
こんなふうに告白をぶった切られたのは初めてみたいで、ほとんど泣きそうな顔をしていた。ニーナもバカなやつだ。自分がこっち側の立場になったらきっと大暴れして俺に当り散らすだろうに、人にそう接するのには一ミクロンも罪悪感を感じないんだから。
「ごめんなさい」
言ってから、間違えたと思った。俺が謝っても彼のプライドを傷つけるだけだ。
要するに、俺もニーナ以外の人間なんて耳くそくらいにしか思ってないのかもしれない。