(1)
「初恋の定義を知ってる?」
「初めての恋ってことじゃないのか?」
「……初めて“叶わなかった”恋のことだとあたしは思うわ」
ニーナのあっけらかんとした笑みを、ぶりっこの味が俺に忘れるなと言う。
ニーナが転校してきた小学三年生の頃からずっと、ニーナは澪の親友だった。
少なくとも、澪はそう思っているはずだ。ううん、澪だけじゃない。二人は、まわりの友達みんなが認める大親友。一度も喧嘩をしたことはないし、高校は違うけれど毎週のように一緒に遊んでいる。
けれどもニーナはずっと前から、澪のことを友達だなんて思っていない。
そしてそれを知っているのはニーナと俺だけだ。
「あーあ、澪、まだ帰ってこないの?」
ニーナはその長い手をぐうんと伸ばして俺の漫画を数冊手元に引き寄せた。自分の部屋にいるかのようなくつろぎっぷりだった。
「あんた、澪に何か言ったんじゃないでしょうね?」
ニーナが俺の家に遊びにくる目的は澪だが、澪の高校はここから電車で一時間半もかかるので、澪が帰ってくるまでの間ニーナは俺の部屋にいる。俺の漫画を勝手に読んでいたり、ベッドに寝ていたり、ゲームをしたり、いろいろなことをしている。
本当はニーナは澪と同じ高校に行きたがっていたが、澪は凡人じゃ手の届かないようなすごく頭のいい私立高校に受かってしまった。もちろんニーナはバカだからそこには落ちて、近所の高校にかよっていた。弟だけど澪とは全然似てもにつかない俺は、バカだからニーナと同じ高校だ。
「なんでそんなこと、今さら」
バカバカしい、というニュアンスをこめて言ったら、ニーナはあからさまに不機嫌そうになった。
「だって澪、この前の日曜日、合コンに行ったのよ。今まで全然男にキョーミなかったのに、わたしそろそろ彼氏作らなきゃとかナントカ言って。あんたが何か言ったんじゃないかと思って」
「それで?」
「澪ってば彼氏作ったの。ラグビー部だって。写真みたけど、いかにも男って感じ」
まずいものを食べたみたいにニーナはべえっと舌を出す。高校三年生にもなるのにその仕草はすごく子供っぽくて、そのアンバランスな感じがおかしかった。
「そりゃ、男でしょ。澪は男っぽい男が好きだもん」
「知ってる。でも、それにしてもアレはない。だってすっごく黒いもの」
「肌?」
「眉毛」
ニーナが言いたいことはだいたいわかったけれど、それにしても眉毛が黒いからってそんなに苦々しく言わなくてもいいだろうと思った。
つまりニーナは、澪のタイプが日本人の男っぽい男であることが嫌なのだ。それはニーナがハーフだからだということも関係しているだろう。
ニーナはお母さんが日本、お父さんがドイツ人のハーフで、元をたどれば何代か前はフランスやらイタリアやらの血も少し混じっていたらしい。そのせいか外見はいかにもヨーロッパ人という感じで、背は高いし本当は金髪碧眼だ。表情が乏しいから、どことなくアンティークドールに似ている。
けれどもニーナは自分の外見が嫌いみたいだ。せっかくの金髪を高一の春に黒染めして、普段から焦げ茶色のカラコンを入れるようになった。彫りが深いからやっぱりまわりからは浮いて見えるけれど、本人はそれで満足しているらしい。
ただ……。
「絶対あたしのほうがいいわよ」
どうしても変えられないものはある。
「どーせカイショーなしだからすぐに別れるに決まってる」
「カイショーってなに、ニーナ」
ニーナは答えにつまる。背伸びして難しい言葉使うからだ、バカ、と思っていたら、少し経ってからぼそぼそと答えが返ってきた。
「それは、あれ。あたしのほうがイイオンナってことよ」
ちょっと違う気がした。
甲斐性なしの意味はよくわからないけれど、澪に彼氏ができたことにニーナが不満を抱いているっていうのはよくわかった。
「ラグビー部ってことはさぁ、ぜーったいお盛んだよ」
汚らわしい! と叫んでニーナはオーバーな仕草で頭をかく。
「なにが?」
「繁殖活動」
その直接的だけど婉曲した表現は、まるで下ネタを恥じらう女子たちが仲間内で使う隠語みたいだ。豪快でサバサバしたニーナらしくないその言葉になんだか俺は照れてしまって、「バカなこと言うなよ」と意味もなくスマホの電源を入れたり落としたりした。
繁殖活動、だってさ……。
けれどニーナはちっとも照れずにツンとすまして言葉を続ける。
「トイレいっても洗わないような手で澪に触るなんて汚らわしいと思わない?」
「ニーナはラグビー部に偏見を持ちすぎだって」
「あたし、澪には清らかなままでいてほしいの、ずっと」
目を閉じて、祈るようにそういうニーナの横顔を俺は直視できない。
頼むから、はやく澪に帰ってきてほしかった。
澪が帰ってきたら、きっとニーナは真っ直ぐに澪のもとに行って、俺に愚痴っていたことなんか微塵も感じさせずに彼氏のことを尋ねるのだろう。澪はきっと、嬉しそうに答えるのだろう。澪の答え次第では、また俺に愚痴を言いにくるんだろう。
ため息をつく。
「何あんたいっちょまえにため息なんかついてんのよ、むかつく」
ニーナに噛み付くようにそう言われたけれど、答えることなんてできやしなかった。
「いや、ニーナ、うるさいなと思って」
「はーっ? 何よなによ、」
その言葉と、階下から「ただいまピーマン」という言葉が聞こえてくるのはほぼ同時だった。ニーナがぴょんとベッドの上で飛び起きて、「おかえりマンゴー」と返事をした。どういう意味なのかわからないけれど、二人の暗号みたいなものらしかった。
「ニーナいるの?」
「いるよ、直の部屋。今いくね」
満足げに微笑んで、ニーナは俺の部屋を出て行った。
ただし、去り際に、
「直のくせに」
さっきの続きの言葉を吐き捨てていくのは忘れていなかった。
ニーナだな、と思った。
俺も満足してちょっと笑った。