第三十一話 『驚くべき事実』
黒い獣は体を低くして、大きく跳躍する。
恐ろしくて、ギュッと目を閉じたが、衝撃はやって来ない。
ふわりと、柔らかな風を感じるだけだった。
相変わらず、頭は割れるようなズキズキとした痛みを訴えている。
もう、声が枯れていて、叫び声も出せない。
息を吸い、呼吸を整えようとするけれど、途中で咳き込んで、激痛が全身を駆け巡る。
俺は一体どうしてしまったのか。
冷や汗がつうと額から頬へと伝っていった。
瞼を開けば、黒い獣があやかしを蹂躙している様が見える。
三本の尻尾は逆立ち、怒りを表しているのが分かった。
圧倒しているのは一目でわかったが、急に黒い獣がびくりと体を揺らす。
てん、てんと後退したかと思えば、大量の血を吐き出していた。
その刹那、黒い獣と目が合う。
あれは――ミケさんだ。間違いない。
この前見た時は、モチと同じくらいのサイズの狐姿だったのに、今日はどうして、あんなに大きくなっているのか。
目は血走っていて、いつものやさしさは感じられなかった。
限界状態であると、すぐに気付く。
咳き込むたびに血を吐き出していた。
もしかして俺を、この七ツ星神社を守るために、無茶をしているのだろうか?
もう、いい。ミケさんは頑張った。だから――。
残った力を振り絞り、彼女に手を延ばそうとすれば、頭上に何かの気配を感じた。
――だから、止めいと言ったろうに。
この声は、蘆屋大神。
もう、見上げる余裕なんてないけれど、呆れている感はひしひしと伝わっている。
ミケさんはあやかしに対し、低い声で唸っていた。
あやかしは、ミケさんから受けたダメージで動けないように見える。
頭上でトンと地面を叩く振動が伝わり、しゃらんという音が鳴った。蘆屋大神が持っている錫杖だろう。
何やら呪文のような言葉が聞こえたかと思えば、周囲が一瞬だけ光り、次の瞬間、ドーンという爆音と共に雷が地面に落ちてきた。
あやかしの居た場所に、火柱が上がる。
地面からビリビリと電撃のようなものが伝わり、俺の意識も遠のいていこうとしていた。
――ああミケさん、助けられなくってごめんなさい。
謝罪の言葉は、カラカラに乾いた口から発せられることはなかった。
◇◇◇
それから三日三晩、俺の意識は戻らなかったらしい。ミケさんも。
偶然にも、同じようなタイミングで、二人仲良く目覚めた。
病院に居るかと思えば、自分の部屋で眠っていた。
怪我は思ったよりも軽傷だったのか。
枕元には涙目の父の姿があった。どうやら多大な心配を掛けてしまったようだ。申し訳なく思う。母はミケさんの傍で看病をしているらしい。
それにしても不思議なものだと思った。
あれだけ感じていた後頭部痛みは綺麗さっぱりなくなっていた。恐る恐る触れてみれば、傷なんて何もなくて、ぎょっとしてしまう。
後頭部に衝撃を受けた瞬間、頭が割れて脳の中身が飛び出したかと思った。
けれど、現実はそうではなかったようだ。
「父さん、俺に、何が――」
父に問いかければ、頭上から返事が聞こえた。
『魂と直接繋がる鞘で殴れば、痛いに決まっておる』
んん? 魂と直接繋がる鞘?
その声は父のものではなく、若くて凛としたような男の人の声。
慌てて声がした方向を見れば、なんと、蘆屋大神が居て、軽蔑をするような冷たい眼差しでこちらを見下ろしていた。
「え、あ、蘆屋大神、様!?」
眉間に皺を寄せ、ジロリと睨みつけながら「如何にも」とおっしゃっていた。
ご機嫌を窺えば、最悪だと言う。
蘆屋大神は父に依り代を準備しろと命じていた。出来るだけ小さな物が好ましいと居ていた。
父は跳ねるように立ち上がり、一礼をすると一階へ駆け降りて行く。
どうやら、神社を離れると気分が悪くなるらしい。そこまでして傍に来てくれるなんて、優しい神様だと思った。
父が持って来たのは、お隣さん家のハムスター。キンクマという種類で、アニメに出て来そうなコミカルな顔付きをしている。名前ははむ子と、ケージに小さな看板のようなものがかけてあった。
お隣さんは信仰熱心な氏子さんで、少しの間神事に使わせて欲しいと言えば、深く追求せずに貸してくれたと言う。
一応、父は額に汗を浮かべながら、依り代への負担がないか聞いていた。心配は要らないという答えが返ってくる。
蘆屋大神はひまわりの種を食べているはむ子さんを一瞥し、「まあいいだろう」と言って錫杖を地面に叩き付ける。
シャランとした音と同時に、はむ子さんがポテンと倒れた。
すぐにむくりと起き上がったかと思えば、チュウチュウと不満そうな声をあげる。同時に、いつもの蘆屋大神の不機嫌な声が頭の中に聞こえてきた。
――獣臭い箱だ。早う身どもをここより出せ。
父は返事をしてゲージを開き、慎重な手つきではむ子さんin芦屋大神を出す。
両手で依り代となったハムスターを持っていた。
つーか、キンクマハムスター、でかいな。
若干、父の手のひらからはみ出している。
そんなことはさておいて、蘆屋大神の話を寝台に寝た状態で聞くことになった。
――まず、あの刀、『永久の花つ月』だったか、あれはお主と関係深い神具である。
驚きの事実。
『永久の花つ月』は、俺の体の一部らしい。
鞘は魂を守る結界の役割を果たしており、叩いたら直接こちらへダメージが来ると言う。
「だから、あんな風に頭が割れるような痛みがあった、というわけですね」
――左様。
俺の魂を守る鞘であやかしを叩いたのは、どうやら二回目らしい。
以前、神社で倒れたことがあったけれど、あの時にも『永久の花つ月』を使ってあやかしを倒そうとしていたとか。
その時の記憶がないのは、蘆屋大神が消していたからだと言う。
――二度と、あのような真似をせぬように、記憶を消したのだ。だがまさか、そこまで日も開けないうちに、同じ行動を繰り返すとは。
お恥ずかしい限りで。反省はしている。
無理はするなと怒られてしまった。
――でないと、あの神使を荒ぶらせる結果となる。
神使、ミケさんのあの姿は、怒りに身を任せ、神力ではなく、妖力を使って具現化されたものだと教えてくれた。
神力は神聖な魂を磨き、人々の信仰の力を受けて高まる力で、妖力は自らの負の感情を糧とし、人々の悪いを受けて高まる力、らしい。
ミケさんは妖狐になりかけていたと言う。
蘆屋大神は、そんなミケさんを痛烈に批判する。
――あれは呆れた神使よ。己の感情を支配しきれず、悪の力に身を任せるとは。
違う。ミケさんは俺達を守ろうとして……。
でも、その個人を助けたいという気持ちが神に仕える御使いとして、相応しくない行動なのだろう。
全ては俺に責任がある。どうか彼女を責めないでくれと、頭を深く下げた。父も同様に、平伏していた。
――もしも、あれが神使でなくなった場合、お主は責を負うことになる。
「それは、はい。いかなる罰も、受けるつもり、です」
神の怒りに触れ、頭の上に雷が落ちてくるかもしれない。
怖い。怖いけれど、当事者のミケさんはもっと怖いだろう。
この件に関しては、深く考えないようにした。
――ふうむ。楽観的な男よの。
いやいや、そんなことは……謙遜しかけて、ハッとなる。
「あ、蘆屋大神様、もしや、頭の中の考えていることも筒抜けで?」
ハムスターに身を移した蘆屋大神は目を細め、意地悪を言うような声で「チュウ」と鳴いた。
その刹那、部屋の中の張り詰めた緊張感がなくなった。
父の手のひらに鎮座していたはむ子さんは、ころんと転がり、次の瞬間にはハッと目覚める。
「父さん、蘆屋大神様は、お帰りに?」
「みたいだな」
二人揃って大きな息を吐き、脱力する。
結局、『永久の花つ月』の謎は解明しないまま、新しい朝を迎えることになった。