第一話『後顧の憂いを胸に』
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ございません。
作中の用語、歴史、文化、習慣などは創作物としてお楽しみ下さい。
――うちの親父に狐耳が生えた!? そんなバカな!!
いやいや、今となってはそんなことはどうでもいい。
現在、中年親父の狐耳なんぞ、大きな問題ではなかった。
祖父さんが死んだ後の神社は大変なことになっている。
神の眷属である神使狐の片側を亡くした『七ツ星神社』は、数々の不可解な事件が起きていたのだ。
発かれる賽銭箱、獣の爪痕のようなものが残った鳥居、正体不明の怪奇現象まで。
その脅威は、俺達家族にも牙を剥こうとしていた。
そんな中で、『彼女』が現れる。
◇◇◇
夜中の二時半。
八十九歳になる祖父さんが危ないと聞き、急いで寝室に向かった。
眠る祖父さんの周りを、家族と医者の先生が既に囲んでいた。
宮司をしている父に、その手伝いをしている母。それから、中学三年生の妹。
お医者さんは顔なじみの近所の病院の小西先生。
一週間前から具合が悪いと言って寝込むことが多かった祖父さん。
みんな、市の大きな病院に行けと勧めていたが、猛烈に嫌がっていたのだ。
祖父さんは昔から病院嫌いだった。
近所に住む先生に訪問診療をお願いした結果、ただの風邪で、数日安静にしていれば良くなると言っていた。なのに――。
顔を歪め、苦しむ祖父さん。
今、救急車を呼んだと、父が言っていた。
それを聞いた祖父さんが、掠れた声で「余計なことをしてくれた」と言う。
「おい、話が、ある。先生は、席を、外してくれないか?」
病床の祖父さんは先生を追い出し、突然家族の前で語り出す。
「みな、すまん。すまん、かった」
何に対する謝罪なのか。
自分も禿げているのに、長い間父を禿呼ばわりしていたことか。
それとも、あいさつ代わりに母の尻を撫でていたことか。
酔っ払うたびに、俺に猥談を語って聞かせようとしたことか。
妹に、最近の中学生はどうして体育の時間にブルマを履かないのかと、並々ならぬ興味を示していたことか。
祖父さんのことを考えれば考えるほど、しようもない思い出ばかり浮かんでくる。
とんでもないエロジジイだったのだ。
早くに祖母さんを亡くし、寂しかったのだろうと思っていた家族は、皆、祖父さんに優しかった。
そんな祖父さんも、神社に居る時だけは真面目な人だった。
うちは代々神職を家業とする一族で、大昔からある神社を守っていた。
宮司を務めていた祖父さんは近隣住民の信頼も厚く、日々の参拝客もそこそこ居て、季節の催しは賑わっていた。
ニ代前は神主業だけでは食べていけなくて、兼業だったと聞いたことがある。
祖父の力で、神社の威厳と信仰心を復活させたのだ。
そんな祖父さんの謝罪とは、なんなのか。
家族は悲痛な表情で病床の祖父さんを見ていた。
「父さん、もういいんだ。あとのことは私達に任せて、ゆっくりと」
「わし、狐だったんや」
「は?」
「狐。狐と言っているやろ」
突然の発言に、家族は言葉を失う。何も言えなくなった。
母は、大粒の涙を零し出す。
家族が悲しい顔をしていたので、場の空気を少しでも明るくしようと気を使った祖父さんの、渾身のギャグか何かとばかり思っていたのだ。
母は泣きながら「お義父さん、またそんなことを、おっしゃって……」と言っている。
何故か母にだけ何度も狐ギャグを繰り返していたようだ。
それを聞いて笑う祖父さん。
笑い声が止めば、シンと静まり返る室内。
祖父は急に真面目な顔になり、「よく、聞け」と言った。
こういう顔をする時に言うことは本当だと、家族の誰もが知っている。
しかしながら、語られた内容はとんでもないことであった。
祖父は、自分は人間ではないと言い出す。
父が「人間でなかったら何者なんだ?」と聞けば、この神社を守る狐の片割れだと言った。
確かに、うちの神社を守る狐の像は一つしかない。
だが、そんな突拍子もない話を信じることは出来なかった。
そんな俺達に向かって祖父は言う。
「ならば、封じられし神より授かった力を、開放してやる」
刹那、母と俺以外の家族に変化が起きる。
「――は?」
父の禿頭に狐の耳が生えた。
妹のスカートの裾からは、尻尾のようなものが見える。
ちょうど、時刻は丑三つ時。
あやかしにでも化かされているのではと思った。
何度も瞬きをして、頬も抓る。
だが、禿げた父の頭からは耳が映え、ピコピコと動いている。
妹のスカートの下からも、ふわふわモコモコの狐の尾が出てきていた。
俺の体も確認したが、なんの変化もなかった。
祖父はこちらを見て、「そうか、お前が」とだけ呟く。
「……とむ、どうか、みけ……のことを、頼む……」
「――え?」
一体どういうことかと聞く前に、祖父は息を引き取った。
体にすがろうとすれば、祖父の体が一瞬光に包まれる。
布団の中に居たのは、黒い狐だった。
家族は皆、呆然としていた。
◇◇◇
祖父さんの死は秘密裏に処理された。
医者の先生が取り計らってくれたのだ。
先生は信仰深い水主村神社の氏子で、祖父さんの言った途方もない話を信じてしまったのだ。
まあでも、目の前に居た狐耳の父親を前にすれば、信じるしかなかったと言うか。
翌日、祖父の葬儀『神葬祭』が行われる。
神葬祭は亡くなった人を家に留め、守護神になってもらうための大切な儀式だ。
祖父さんは居なくなるわけではない。
日々、俺達を見守ってくれている。そう思ったら、寂しくないような気がした。
父は儀式用の装束を纏い、狐の耳は烏帽子の中に詰め込んでいた。
妹は尻尾を紐で縛り、ボリュームを押さえ、長いスカートを履いていた。
二人とも大変そうだ。
いろいろと冷や冷やしていたが、何事もなく神葬祭は終わった。
祖父さんがこの先もずっと、この家を守ってくれるように、皆で祈りを捧げることになった。
◇◇◇
近親者が亡くなった場合、喪に服すのは当たり前だが、神職者の場合、ちょっと大変な事態となる。
死は当事者以外にも穢れとなり、神社に近づけなくなる。
だが穢れと言っても、死を忌避する意味合いはない。
『穢れ』は『気枯れ』と読み、生命力が枯渇した状態を示す。
清浄な気を回復させるために、日を置かなければならないのだ。
身内の場合、穢れから回復するまで二ヶ月ほど掛かると言われていた。
だが、宮司である父が二ヶ月も休めば、神社は大変なことになる。
どうするかと言えば――。
「さあ、勉、中に入るんだ」
「……マジか」
「まじだ!」
辿り着いたのは、森の中にある川。
ここで、穢れを払うために禊を行うのだ。
禊というのは自身の穢れを払い、体を洗い清める儀式。
禊の服装は褌。
もう一度言う。服装は褌だ。
褌は家で巻いて来た。
誰も居ない森に分け入り、服を脱ぐ。
父は毛糸の帽子を脱いだ。
狐の耳がぴょこんと出てくる。なんていうか、中年の獣耳とかキツイしエグイ。
なるべく見ないようにして、服を畳んだ。
最後に、白い鉢巻を額に撒く。
森の中で褌一丁、鉢巻き姿の親子が誕生した。
一方は獣の耳を付けている。
狐耳の中年親父なんて、事情を知らない人から見たら確実に変態だ。
地元民に見つからないうちに、さっさと禊を終わらせなければならなかった。
本日は四月十五日。
日本海側の春はひどく冷える。
川の中はさらに悲惨なことが予想された。
だが、神様のために、頑張るしかない。
禊のやり方は、多岐に渡っているらしい。
うちは水主村家に古くから伝わる方法で執り行われる。
まずは褌姿で祓いの祝詞と唱え、その後、準備体操をして体を解す。
それから滝の水を木桶に汲み、頭から被る。
とりあえず、父がやるのを先に見守ることにした。
父はごくりと息を呑んでいた。
冷たい水が恐ろしいのだろう。
だが、意を決し、頭から冷水を被っていた。
「ぬおおおおおん……!!」
まあ、あげるよね、悲鳴。
俺も心を決めて、水を被った。声をあげるのはなんとか我慢をした。
それから、気合を入れて川の中へと浸かる。
言わずもがな、死ぬほど冷たい。
五分間、水の中で耐えなければならないのだ。
水の中では、舟の櫂を漕ぐような動きをする。気合いの入った掛け声つきで。
父と二人、震える声で大声を張り上げ、身を清める儀式を続ける。
途中、あまりの過酷さに、父の耳がぺたんと伏せられ、ふるふると震えていたが、なるべく見ないようにしていた。
やっとのことで禊を終わらせる。あとは午後から隣の市の宮司さんにお祓いをして貰えば、穢れを払うのは完了となる。
「――ああっ」
父が情けない声をあげた。
なにかと思えば、タオルを家に忘れたと言う。
「マジかよ……」
「まじなんだ……」
仕方がないので、体は着て来た下着で体を拭く。
「――ああっ」
またしても、父が悲惨な声をあげた。
「パンツ忘れた」
「マジか」
パンツを履いていないなんておくびにも出さず、親子二人、澄ました顔をして車に乗って帰ることになった。