第86話
のろのろと奥に下がると、靴を脱いで傘を置いて、凪砂くんは中に入ってきた。膝の下に手を入れて背中を支えて、カバンごと私を抱え上げる。
あまりに軽々と持ち上げられて、何が起こったのかよく分からない。けれど、凪砂くんの身体の感触は落ち着いた。ゆらゆら揺れて、頭も余計気持ちがいい。
寝室ではなくリビングに向かう凪砂くんに、首を傾げた。
「…ベッドじゃないの?」
「…汗でべたべたのまま寝たいのか」
「…そっか」
そうだね、と答えて目を閉じた。リビングに入ると、ソファの上に乱暴に投げられた。断りもなく勝手にクーラーのスイッチを入れた音がして、ソファが沈んだせいで凪砂くん座り込むのが分かった。
眠い、と思うのさえも億劫になるほど重くなってくる意識の中、頭の先に僅かに触れる凪砂くんに対して口を開いた。
「…ねぇ、学部飲みの日も、同じ…?」
「あの日のほうがお前は酷い。もろに寝てたからな」
「ふぅん…」
「つか、学習しろよ。襲われても知らねぇぞ、俺に」
「…凪砂くんに、かぁ…」
閉じられた目蓋の裏に浮かぶのは、凪砂くんの顔だ。
『凪砂くん、ぎゅー』
聞こえてきた自分の声に、少し驚きながらも、思い出したことに気付いた。私、確かに、ぎゅってしてって、頼んだんだ、と。
そうだ。寝てたら、凪砂くんが引っ張ってくれて、家まで連れてきてくれて、家の中に入って、ベッドに運んでくれて。
『は? え、お前、何言ってんの?』
そうだ、そうだ、凪砂くんも、すごく動揺してた。
『凪砂くん、好きー』
あとは…なんだっけ、何を言って、何を言われたんだっけ。
よく覚えてない…頭の下に滑り込んできた手と…。
キス、したんだっけ…でも、エッチしちゃったんならしてるんだろうか…なんてことを考えて、口を開いた。
「…凪砂くんなら、いいかなぁ…」
そして、意識は飛んで行った。
ふと、意識を取り戻してみると、見慣れた天井が目に入った。
クーラーもきいてて涼しい部屋の中、ごろんと横を向くと、テーブルの上にはコップが置いてある。中にはお水が入っていた。そばにはルーズリーフとペンが無造作に置いてあって、「鍵、ポストに入れた」と書いてあった。
そっか…凪砂くん、帰ったんだ。
時計を見ると、1時を回っていた。シャワー浴びてちゃんと寝よう…と、体を起こす。
──そして、はたと止まった。
私、凪砂くんに、何て言ったっけ。
「あ、あれ…?」
凪砂くんなら、いいか、って…なに…。
思わず口元を手で覆った。あれ、は…凪砂くんなら、襲われてもいい、という…。
どう、しよう。
だらだらと冷や汗が流れる。しまった。
凪砂くんを好きになってしまったと、気付かれたら、どうしよう。




