第60話
言葉を失った私を、どう思ったのか。凪砂くんの腕にいっそう力が籠った。凪砂くんの胸に押し当てられた自分の胸から、奇妙なほどに速い鼓動が伝わってしまうんじゃないかと、そんなことすら考える余裕がなくて。
何か言わなきゃ──と、口を開きかける。
そのとき、凪砂くんが、もう一度耳の隣で口を開いて。
「…って言ったら、お前はどうすんの?」
──パンッ、と渇いた音が、響いた。
一瞬だった。私が凪砂くんから離れて、その頬を思いっきり平手で打ったのは。
強く抱きしめられていたその腕からどうやって逃れられたのか、分からなかった。もしかしたら、力が込められたのは一瞬で、私が振りほどこうと思えばいつでも逃れられたのかもしれない。その程度の力で抱きしめられてただけだたのかもしれない。
そう思うと、哀しかった。凪砂くんを忘れていないという、その事実を突き付けられて。忘れてないどころか、凪砂くんが私を好きなんじゃないかと期待するほどなんだと。
私は、まだ、心のどこかで凪砂くんが好きなんだと。
そんなこと、知りたくなった。
「最低っ…」
酒に酔って寝た相手を無防備に部屋に入れるなんて期待してるとしか思えないと、言われて。どこかで凪砂くんのことを信じてたからだと思ったけれど。もしかしたら、凪砂くんなら許せると、思ってたのかもしれない。そう思うと、哀しい。悔しい。
頬を押さえた凪砂くんは静かに私を見ていた。次に何を言うのか待ってるかのように。わななく唇を噛みしめて、もう一度、開いた。
「なんでっ…そんなこと、言うの? なんで…」
「泣くほど、哀しかったわけ?」
「哀しいに決まってるでしょ! だって──…」
だって、まだ、凪砂くんのことが。
「お前、新也先輩が好きなんだろ? だったら何で、俺の告白に動揺したわけ?」
「っ…」
言い訳できない。涙が出るほど動揺している理由も、哀しい理由も、思わず叩いた理由、も、全て、凪砂くんのことを、まだ好きだから。
「…帰ってよ」
でも、そんなこと言いたくなくて、全部放り出した。凪砂くんは何も言わない。
「…帰って」
「キスしてくれたら」
「いい加減にして! もうからかわないで! 二度と来ないで!!」
喚いた私に、凪砂くんは溜息をついた。なんで溜息なんてつかれなきゃいけないの。
「あのな、」
「何も言わないで! もう顔も見たくない! 学校でも話しかけないで! 学部飲みの日のことを、誰かに言いたいなら言えばいい! だからもう来ないで!」
凪砂くんの言葉を遮って、喚いた。凪砂くんは黙ったけれど、食べかけだったオムライスに手を付ける。一口分くらいしか残ってないとはいえ、この空気で、よくそんなことが、平然と。




