第59話
「…き、す?」
「キス」
「…え、いや、ちょっと…それは、ちょっと! 無理に決まってるでしょ!?」
聞き間違いじゃなかったと気付いて、思わず声が裏返る。慌ててソファの隅に寄って距離をとった私を、凪砂くんは鼻で笑った。
「あの夜は自分からねだったくせに」
「だっ、だからあれは意識なくてっ…っていうかそれ言わないで!」
「してくれないなら、出て行かない」
「付き合ってもないのにできないでしょっ」
「あの夜は──」
「だからやめてよ!!」
何度も何度も繰り返す凪砂くんの口を手で塞いだ。顔が熱いから、真っ赤になってるのは自分でも分かる。そんな私を見下ろす凪砂くんの目は細くなって、強い力で私の手を引き剥がす。その口元は楽しそうに弧を描いていた。
「まぁ、俺も優しいよな? お前女だし小さいし、いつでも襲えるのに」
「お、襲わないでよ…?」
「強姦罪は重いからなぁ」
ぞくっと体の奥が震える。昨日の夜と同じだ。
不意に掴まれていた手が引っ張られて、凪砂くんの胸に飛び込む形になった。驚く間もなく抱きしめられて、心臓が飛び上がる。
「なっ…」
温かい。力が強い。体が大きい。
「凪砂くんっ」
「言おうと思ってたけど。卒業式のあれ、嘘だから」
「あ、あれって…?」
イヤというほど脳裏に焼き付いてる卒業式の記憶。普段なら思い出したくなくても思い出せるのに、今は状況が状況なだけに、頭が真っ白だった。
「お前のこと、そういうふうに見たことないってやつ。嘘だから」
──え。
真っ白だった頭が、その言葉でいっぱいになる。
「俺、言ったよな。お前のこと、そういうふうに見たことないから、って。あれ、嘘」
「嘘…」
待って、待って。
だって、それは、私の告白に対する、凪砂くんの返事。全てを言いきった私に対する、凪砂くんの返事。
私のことを恋愛対象として見たことがないというあの返事が、嘘?
「そ、れじゃ…」
じゃあ、あのとき両想いだったの?
なに、それ?
「俺、お前のこと好きだったよ」
ゾクッ──。
耳元で囁かれたその言葉に、脳内で何かが反応したのが分かった。
なに。どういうこと。これは。
あ、だめだ。だめだ、だめだ、だめだ。
いやだ、認めたくない。
燃えるように熱い体が、昨日とは違う。彼氏がいたことないから緊張してるわけじゃない。
いま、私、そのセリフに、期待した。
“じゃあ、いまも好き?”と。
やめてよ。折角、凪砂くんのことを忘れてたのに。久重先輩が好きなのに。久重先輩と多分両想いなのに。凪砂くんさえいなければ久重先輩と付き合えるって思った矢先に。
ずるいよ。




