第55話
6時頃、チャイムが鳴って凪砂くんが来た。無言で扉を開けると、凪砂くんより先にケーキの箱が飛び込んでくる。
「あ、これ?」
「ん。冷蔵庫入れといて」
晩飯終わったら食お、と言いながら入ってきた凪砂くんの足元はやっぱり雨に濡れてぐしゃぐしゃだった。溜息をついて、用意していたタオルを差し出す。
「これで足拭いてからあがってね。濡れちゃう」
「おう。先輩とのデートはどうだった?」
「…凪砂くんの所為で最悪よ」
「あ? 何で俺の所為?」
心外だと言わんばかりに顔をしかめて見せた凪砂くんからふいっと顔を背けた。何だよ、と後ろから声が聞こえるけど、無視してキッチンに戻り、冷蔵庫にケーキを入れて、IHのボタンを押した。
「おい」
「何よ」
「何よじゃねーよ。現場にいもしなかった俺の所為にするなんて理不尽だろ」
「だったら連絡取って来ないでよ」
先輩とデートって知ってるくせに、と付け加えた。そんなの俺の勝手だろ、と、まさに自分勝手なことを言う。
「タオルどうすればいい?」
「洗濯籠に入れといて」
「晩飯なに?」
「中華スープとオムライス」
「どーも」
靴下も脱いでぺたぺたと裸足で床を歩く音。このやり取り…夫婦みたい、と卵を割りながら思った。
「…ねぇ凪砂くん」
「なに?」
「この関係、いつまで続くの?」
「前も言ってたな、そんなこと。俺の気が済むまで」
「だからいつになったら気が済むのっ」
「んー、いつだろうな」
卵を混ぜていると、ぬっと凪砂くんが横に立った。微かに雨の匂いがする凪砂くん。
「…なによ」
「お前、俺のこと“凪砂くん”って呼ぶ気になったんだ?」
──ぎくっと手が震えて、ボウルを落としそうになる。
「…呼ぶ気になったとか、そういうのじゃなくて…その、なんていうか…昨日、ちょっと昔の話したから、」
「言うほどしてないし。ふーん、俺の名前呼んでたら先輩に嫉妬でもされた?」
ご明察、と言いたいのはやまやまだったけど、なんとなく言えなかった。
ぐっと押し黙り、凪砂くんから離れたかったのと、ケチャップライスをのせる食器を取るために食器棚を開ける。1人暮らしにしては大きな食器棚の上段から食器を出そうと背伸びをした。
「お前、小さいな」
伸ばした私の腕の隣に凪砂くんの腕が伸びた。並んだ腕は、男女の腕の差がありありと出てる。長さも、太さも。
自分の背中に僅かに触れたのが凪砂くんだと分かり、昨日の夜を思い出してぞくっと体が震えた。何でもないように片手で大きなお皿を2枚取った凪砂くんの腕は引っ込む。




