第106話
思考が追いつかなかった。
今しがた出来上がったばかりの記憶をなぞるように、光景を思い出す。こちらを見ていた瞳、小さく呟いた苛立ち混じりの声、一瞬で起き上がった腕、眼前に迫った彼、何かを拭うような唇の感触。
「…え、」
「…先輩と付き合わないなら、さっさとそのレース降りろよ」
思わず腕を引くけど、掴まれてて離れない。何度引いても離れない。ドクドクと音が聞えるのは自分の心臓のせいだと気付いた。手が離れないのはそもそも私の腕に力が入ってないからだとも。困惑してるのに泣きそうな顔をしてるんだってことも。
「な…っ、なに…? なに、なの…?」
「終着点なんて見えてねーじゃん。降りろよ。早く」
「なに、言ってるの? て、いうか、何で、」
「初めてじゃないんだから、いいだろ」
初めてじゃ、ないって。
そうだ。多分、キスはしてるはず。体を合せておきながらキスはしてないなんて、そんな謎の義理というか、なんというか、そんなことがあるはずない。
「で、でも、」
「…お前、また同じことすんの?」
「な、なにが?」
「出来レースに乗ったヤツはゴールしなきゃいけないとか、まだ思ってんの?」
何のことを言われてるのか気付いて、心臓が更にうるさく鼓動を始める。
「…心底イラついた。何言ってもその気にならないし、なったと思ったら先輩が何か言えば簡単にそっちに尻尾振る。俺を振り回して楽しい?」
「ふ、りまわしてるのは、凪砂くん、じゃん…」
「振り回したくもなるだろ。好きって言ったり嫌いって言ったり、なんなの、お前、情緒不安定すぎだろ。お前の意味分からん体裁なんてどうでもいい」
「だから、分かってるようなこと、」
「は? 何も間違ってないじゃん。体裁のために俺を振ったくせに、何言ってんの」
今度は、震えだった。凪砂くんに捕まれた腕が小刻みに震える。
「振っ…っては、ないでしょ…振ったのは凪砂くんのほうで、」
「形式的な話はしてねーんだよ。実質的にだよ。俺がお前のこと好きだって言ってんのに、体裁気にしてひっしーと付き合ったのはお前だって言ってんだよ」
──え。
思わず凪砂くんを見てしまった。そこで、自分がずっと床を見つめる余裕しかなかったことに気付く。
「ま、待ってよ…何で凪砂くんがそれ、知ってるの…」
「は。だってもう時効だろ。ひっしーに吐かせた」
「なっ──」
「お前、俺のこと、もう好きじゃないって言ったくせに」
そして、後悔する。心の壁を抉り壊すような目が待っていたから。逃げる前に、起き上がった凪砂くんが自由な手で顎を掴んだ。
「っ」
「新也先輩が好きだって言っただろ。だからお膳立てしてやったろ。それなのにいつまでふらふらしてんだよ。お前はどこまでその出来レースを引伸ばすの…」
もう一度キスされるかと──予感したのか、期待したのかは、分からない。ただ、いずれにせよその両方に反して、凪砂くんは額を肩に載せただけだった。
「な、ぎ…」
「…いい加減、後悔させんな。俺を振るなら早く振ってくれ。体裁なんかじゃなくて、心から。じゃないと何のためにこっち戻ってきたか分かんねー…」
「それって、どういう、」
「…ごめん。マジで、あの時ごめん」
肩が熱いのは、夏か、恋か、涙か。
「ガキだったんだ。許して。もう苦しい。…俺と、付き合って」




