二話 日常編(プロローグのそのあと二)
「運命、居るんでしょ。さっさと開けなさい!」
そう言いながらも、今まさに運命の部屋に乗り込もうとしているのは、言わずもがな麗奈だった。
その姿は怒りに満ちてはいるものの、それ以上に美しくもあった。大人の女性の片鱗を魅せつつも、年相応のまだまだ少女らしさも残した雰囲気は、まさにこれから蕾が花開く瞬間のようだ。潤いを保った艶のある細く絹のような黒髪は、殆ど弄られることもなく左右に分けられ、肩辺りの長さで切り揃えられていた。また、そこから現れる顔立ちは純然足る日本人と言った彫りの浅いものだが、大きな黒い瞳と整った容姿、その雰囲気と相まって大和撫子のようだ。
ただ、体型のとある部分だけは麗奈も日本人の平均値を下回っている。身長や体重、足の長さなどは問題ない。ただ一つだけが大きく下回っているのだ。そう、主に胸囲の部分で。俗に言う、まな板なのだ。ブラなんて必要ないんじゃないか、と言う程度にはまな板なのだ。そして、それを麗奈は深く気にしている。それはもう、人様の家に乗り込んでくるほどに。
そうして、美羽の妨害など何のその、引き留めようとする言動を軽くあしらって、麗奈は運命の部屋の前に佇んでいた。しかし、それもここまで。後ろで美羽が諦めの表情とともに事態の幾末を見守る中、運命の返答が無いことを確認し、麗奈はドアを勢い良く開け放った。
そして、ついに部屋の中の全貌が明らかとなる。麗奈はドアが開くとともに怒りの第一声を上げた。
「運命! ミューに足止め頼むなんてそれでも男……なの……?」
だが、それは思わぬ光景によって萎んでいった。あまりの光景に、麗奈が呆然としてしまったのだ。ちなみに、ミューとは美羽の愛称なのだが、今の所は麗奈くらいしか呼んでいない。美羽本人は気に入っているらしいが、友人は普通に美羽と呼ぶ。
それはさておき、麗奈と美羽の目に飛び込んできた光景だ。そう、部屋の真ん中で何を言うでもなく、黙したまま運命が土下座している光景だ。これは予想外だった、と麗奈のその様は物語っていた。
部屋と廊下に何とも言えない静けさが流れる中、初めに音を発したのは運命だった。運命は土下座したまま、麗奈に向かって話す。
「VRでは本当にすんませんでした。前にあれだけ気を付けるなんて言っておきながら、結局また同じことを繰り返して、麗奈が怒るのも当然だ。こんな事しても、簡単に許されるとは思ってない。罰も甘んじて受ける。ただ、誠意を持って謝りたいと思ったんだ。それだけは分かってほしい。ごめん、本当にごめん」
それは運命に出来る最大限の謝罪だった。麗奈に許してもらえるなら、このくらい恥じでも何でもない、と言わんばかりの態度だ。
これには麗奈も若干臆したのか、言葉に詰まってしまう。だが、このまま何も言わないわけにはいかない。麗奈はおずおずと、しおらしい様子を見せながらも運命に近寄る。そして、膝を折って運命の肩に手を置くと、形のいい唇を開く。
「……い、いいよ。そんな改まって謝られると、私の方が辛いよ。許すよ、許す。だから、頭を上げて……なんて絆されると思ったの、運命!」
優しげな態度から一転、麗奈は運命が頭を上げた瞬間にその顔面を右手で掴み上げ、指の先が白くなるほどの力を加える。所謂、アイアンクローと言われるものだ。
運命は予想だにしなかった麗奈の暴挙に、ただただ自身の顔に張り付いた右手を外そうともがく。しかし、どうしてか麗奈の右手はびくともせず、下手に抵抗したが故に力が更に増してしまう。そして、それは骨だけに留まらず、眼鏡をも軋ませる結果となっただけだった。
「ぐぼっ、ちょっ、麗奈! 痛い、痛いからアイアンクローは止めろっ! 軋む、色々軋んでるからっ!」
「あんたはもう少し、誠意ってもんを学びなさいよ! 何が許してほしいよ! クッションとか舐めてんの!」
「いや、だってこれは正座したら足が痺れるし! ちょうど部屋を見渡したら、あったから!」
運命の足の下には、なるほど、確かに白と黒のボーダー柄クッションが敷かれている。それも、運命が土下座すると正面からはクッションが見えないようにされていた。正直に言って、これは小細工以外の何物でもないだろう。麗奈が怒りを増加させるのも頷ける。
それに加えて、運命の言い訳がまた麗奈の怒りに油を注いだ。運命は謝りたいのか、怒らせたいのか。ここまでの経緯だけを見る限り、怒らせたいとしか思えない。
麗奈もそうとしか思えなかったのか、こめかみに青筋を立てる。そして、情状酌量の余地なしとして手加減する事を止めた。そうして改めて加えられた握力は女子の平均、いや、男子の平均すら軽々と超えたものとなった。
「それが舐めてるって言ってんのよ!!」
「――――っ!」
運命の声無き悲鳴は、このあと麗奈の力が弱まるまで延々と続いたのだった。
「お兄ぃ……、さすがにそれはないわ。妹の私でも理解に苦しむよ」
唯一、廊下に居たままだった美羽は溜め息混じりの侮蔑を運命に送りながら、自分の部屋へと帰って行った。事の顛末を見る気も失せたようだ。いや、ある意味これが顛末でもあるのだが。
◇
美羽が去り、麗奈の握力も限界を迎えた頃、運命への肉体的な制裁は終わった。しかし、未だ顔の痛みが取れない運命は、床に寝転がりながら呻いていた。
「ううっ、まだ顔が……。絶対に痕が残ってんだろ、これ」
「別にいいじゃない。どうせ、普段から隠してる顔なんだし」
顔を両手で覆い隠す運命を、麗奈はベッドに腰掛けて眺めていた。そして、つまらなそうに頬杖をして軽口を吐く。
だが、それに運命は痛みを堪えて否を唱える。
「そう言う問題じゃねぇだろ! 痛い上に、ある意味ホラーなんだよ! おかしいだろ、顔全体に手形って!」
「眼鏡、壊さなかっただけマシでしょ。あんたが眼鏡、眼鏡って叫ぶから仕方なく外してやったんだし」
「ざけんな! 体罰だぞ、体罰!」
抗議を軽くあしらわれた運命は憤慨した面持ちで、麗奈に人差し指を突き出す。しかし、それも麗奈の氷のような笑みによって急速に萎縮へと移り変わっていく。
運命の顔色が青白くなり、目が右往左往と泳ぎ回る。そこに麗奈はただ一言だけ零す。
「反省、してないようね?」
「ひっ、冗談です。冗談だから、猛省してるから!」
「前も同じようなこと言ってたわよ、運命」
完全に怯えきった運命に、麗奈は呆れた表情を浮かべる。運命が学習しない馬鹿だから呆れたのか、はたまた、そんな馬鹿を嫌いになれない自分に呆れたのか。どちらにしても、麗奈に怯えきった運命には怒っているようにしか見えなかった。
そこに麗奈が呆れた表情をそのままに、運命に一つの条件を提示する。提示と言っても、運命に拒否権はない。必ず飲ませる、と麗奈が強かに決めているのだから。
「だから、私も考えたの。運命、あんたに条件を提示してあげる」
「条件?」
「そう、条件。私が運命を許してあげるための条件よ」
ここにきて、ようやく麗奈が柔らかい笑みを見せた。そう、運命の気が緩む程度には柔らかい笑みを。
そうして、麗奈は条件を告げる。気の緩んだ運命にとっては、不意打ち意外の何物でもない条件を。
「条件は一つだけ。至極簡単よ。私のお願いはどんな事でも聞くこと。そうねぇ、具体例を挙げるなら、ゴールデンウイークの大型イベントには一緒に参加すること。夏と冬の二大イベントにも一緒に行くこと。あとは、そう、私と一緒に美容室でそのボサボサの髪を切ること。今はこのくらいかな」
「いや、あのな。俺も無理難題じゃなきゃ、麗奈のお願いは聞くぞ? 今の三つのお願いだって、全然構わん。美容室は若干行きたくないが……。ただな、どんな事でもってのは流石に……」
「運命は文句言えるような立場だったんだ? 知らなかったなぁ、私」
あまりにも承諾し難い条件に運命が口ごもる中、麗奈は握力の回復を確認する仕草とともに運命を見据えた。口答えはいらないの、麗奈の眼はそう語っていた。
これには運命も先ほどの制裁が脳裏を掠め、ただただ頷くほかなかった。
「いえ、滅相も御座いません! 謹んでその条件を飲ませていただきます!」
「そう? なら、よかった。また、お灸を据えないと駄目なのかと思ったじゃない」
「ははは……。いやだなぁ、麗奈のお願いだぞ。何でも聞くに決まってんだろ。何言ってんだよ、全く」
運命が頷いたことで麗奈の表情にも笑みは戻ったものの、運命はそれでも生きた心地がしない。麗奈が帰るその時までは、運命も不用意な発言は出来ないのだから。もしそんな事をしたのなら、今度は何をされるのか。考えただけで運命は身震いをする。
そんな事を考えていたのが悪かったのか、麗奈が運命にとっての悪夢を告げた。
「そっか、ありがとう。そうと決まったら、先ずは美容室よね。待ってて、今から予約入れるから」
麗奈は言うや否や、スマートビジョンと呼ばれる携帯端末を取り出す。これは携帯においてあらゆる革新、進化が行われた後に生まれた次世代機として登場した携帯端末の最新機器だ。
その実力は凄まじく、まず電池切れと言う概念を無くした。それは全く新しい技術でもって、自動充電を可能にしたからだ。インターネットに接続するだけでそこから電力を供給し、更に電池パックにおいても電力供給による損耗を限りなく減らす。言うなれば、半永久的動力炉を持っているのだ。
これだけでも革新的な物だが、それだけの次世代機ではない。OSやメモリー、通信速度などの何から何まで、あらゆる面において従来のPCをも軽々と上回る能力を有していたのだ。そう、VRと言う凄まじく容量を食う物にさえ楽々接続し、気軽に遊べるほどの能力を。
麗奈が持っている物は、その中でもつい一週間前に出たばかりの最新型の物だ。色調は淡いピンクに纏められ、形は丸みを帯びた薄い四角形をしている。ちなみに、スマートビジョンはホログラム機能を搭載しているのだが、麗奈はそれをあまり好まない。そのため、従来の携帯同様のタッチパネルで操作方法を設定している。
それはさておき、麗奈がすぐにでも美容室に電話しようとしている件だ。これに往生際の悪い運命が待ったを掛けた。
「あ、慌てる必要はないんじゃないか。予約入れるにも、来週の土日どっちかしか行く時間作れないし」
「何言ってるの? 美容室の予約は当日にするものでしょ? 今から行くからよろしくって伝えるのが美容室での予約。これくらいは一般常識よ?」
それはどこの一般常識だ、と運命は切に叫びたかった。だが、そんな事はしない。したところで、麗奈にとっての一般常識を懇々と説かれるだけなのだ。いつものように。狂った一般常識を。
故に、運命は湧き上がる衝動を抑えて言う。
「今日はこれから予定あるんだよ。何より、もう美容室に行くような時間帯じゃないし」
「大丈夫、予定無いことは知ってるから。時間帯だって、まだ大丈夫よ。行きつけの美容室でね、閉店時間少し過ぎても開けてくれるから」
いや、何も大丈夫じゃねぇから、とも運命は叫ばない。そんな事をしても、麗奈は変わりなく押し切ってくるに違いないのだから。だからと言って運命は諦めるつもりもない。根気はいるが、この会話を長丁場にさせれば麗奈も美容室の件を次回に持ち越す。そうすれば、のらりくらりと逃げ回るだけで済む。運命はそう踏んだのだ。
だが、現実はそう甘いものではなかった。
「あ、ごめん。運命が何か考え込んでたから、電話掛けちゃった。あ、もしもし、麗奈です。そうです、はい。今日これから行くので、よろしくお願いします。違いますよ。私じゃなくて、ちょっと髪切ってほしい人がいるので。はい、それじゃあすぐに行きますね。よろしくお願いします、と。ん? どうしたの、運命。そんな四つん這いになって」
「……何でもない。何でもないさ」
麗奈の電話が終わった頃、運命は最早逆らう気力さえ奪われ、嘆くことしか出来なかった。ほんの一瞬、その瞬間を見逃してしまった運命。残ったものは、諦めの選択肢だけだった。
そして、次の瞬間には更なる試練が運命を襲う。
「運命……、タンスの中にエロ本隠すのはどうかと思うよ? うわっ、これ幼なじみ物? こっちは……」
麗奈があろうことか部屋の隅に置かれたタンスを漁っていたのだ。それも、運命が隠し持っていたエロ本の入った場所を。麗奈はそれを無造作にタンスから出すと、そのまま運命に見せる。
運命は羞恥心と驚愕から声を裏返して叫び、顔を真っ赤に染めた。
「っ!? ちょっと待てぇ! お前は何を勝手に人の部屋漁ってんだ!」
「いや、だって美容室に行くんだから部屋着じゃ、ねぇ?」
「ねぇ? じゃねぇよ! そこは部屋着かラフなのしか入ってないから! クローゼット、クローゼットに出掛ける用の服入ってるから! さっさと、そこ閉めろ!」
麗奈もまた気まずいのか、運命から視線を逸らす。次いで、運命に言われるがまま漁った物をタンスに戻して閉めた。その後、静かにクローゼットに向かう。出来るだけ運命から距離を取って。
だが、狭い部屋の中でそんな事をされれば運命とて気付く。自分で漁っておいてそれはないだろ、と泣きたくなりながら。
「……運命。上はこれとこれね、下はこれで。じゃあ、私は一回家に戻るから。十分後に、家の前で待ち合わせね」
クローゼットにて服を選び終えた麗奈はそれだけ言って、そそくさと部屋から去っていく。残された運命は、受け取った服と麗奈の去っていったドアを何度か見やり、そして悶えた。
最早、言葉はいらない。ひたすらに羞恥心によって呻くだけだ。更に、運命はまたこれからすぐに麗奈と顔を合わせなければならないのだ。余計に羞恥心を駆り立てるというもの。運命の口から出たものは、形容しがたい思いの丈の詰まった叫びだった。