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ギレイの旅  作者: 千夜
10章
279/561

アルバドリスクの絵本

「ギレイ君、字はすごくきれいだね。」

流れるように書きだされたアルバドリスクの文字は、手本の様に綺麗な字だった。

ギレイの話す言葉の方は、少したどたどしさが残っているというのに。

「はは、ありがとう。僕は、国外の言葉は文字で覚えたんだよね。本読んだりして。だから、音には弱いんだ。母さんも、ドルエドの言葉を普通に話してたから、アルバドの言葉はあんまり使わなかった。それに、自国ドルエドの文字は本で覚えたんじゃなくて祖父に習ったから……気をつけないと見せるのが恥ずかしいくらい汚い字なんだ。」

照れ笑いのようなものを浮かべて、儀礼は苦笑した。


「マルコさんの字が僕の理想。」

「マルコさん?」

誰? と白は首を傾げる。

「昔の、字が綺麗な人。凄い博学で、色んな国の文字が使えたんだよ。どれもが手本みたいに綺麗な字なんだ。今でも、教本とかに載ってることがあるんだよ。」

自分のことででもあるかのように、嬉しそうに儀礼は話す。

その笑顔は輝いていて、本当にその人物のことを尊敬しているのが白にはわかった。


「ギレイ君の字も、お手本みたいだよ。」

白が言えば、儀礼はまた、照れたように笑った。

「母さんの国の字だから、書けるようになりたくて、小さい頃たくさん練習したんだ。知ってる? アルバドリスクの絵本。子供向けの、挿絵が綺麗な本。それ見て書いたんだ。」

儀礼の言う絵本に、白は心当たりがあった。

呪いをかけられた王子が冒険をするというような話だった。

子どもの大好きな夢物語。

美しい絵で彩られたその話は、白も幼い頃に読んでもらって、とても気に入っていた。

表紙の絵の主人公が兄とよく似ていて、白は読んでもらう度に、兄が冒険に出ているような気分でよけいにどきどきしたのだ。


 冒険物語の主人公に容姿は似ていた兄だが、性格は物凄く現実主義だった。

幼い白にも容赦がなかった。

ぬいぐるみを相手にごっこ遊びをしていれば、「人形がしゃべるわけないだろう、お前はバカと言われたいのか?」などと言い、「自分の国のことでなくとも、知らなければ恥になることもある。ちゃんと勉強をしておけ」、と5歳の白の前に世界地図と、各国の情報資料を積み上げた。

これだけ言うと厳しい兄のように思えるが、そうでもない。基本はとても優しかった。

今思えば、なぜか兄は、白がウサギのぬいぐるみを相手にすると、機嫌が悪くなっていた気がする。

白の兄は、ウサギが苦手だったのかもしれない。


 儀礼は研究室を借りる手続きを始めた。

それに、借りる機材がたくさんあると言う。

白は、少しその場を離れることにした。


 そして、儀礼が一人で受付をしているわずかな間に、白は、見知らぬ男に絡まれた。

白は何もしていない。相手がわざと、ぶつかるように歩いてきたので、かわしただけだ。

それで、怪我をしただの、危ないことしやがってだのと怒鳴られても困る。

研究者にしては少し体格がいいが、冒険者というには迫力にかける機嫌の悪そうな男。

昨日、ギルドに入った時には、もう少し強そうな冒険者に絡まれた。

管理局もそう言うものなのかもしれない、と白は考えた。


自分から壁に激突したくせに、と白は、その男に気圧されることなく睨み返していた。

「私がその子の兄ですが、弟がどうかしましたか?」

受付けの手続きを終えたらしい儀礼が、男が頭ごなしに白を怒鳴りつけているのに気付いて、歩いてきた。

儀礼の態度は、「兄、弟」と名乗ることを楽しんでいるようにも見える、笑みの浮いた顔。


「弟ぉ!? そいつ、女の手洗い所から出てきたぞ。弟だと言うなら、何をしてきたんだ。その容姿をいかしてよからぬことでも企んでいるんじゃないのか?」

にやにやと頬を歪め、あくまでも、白を悪童に仕立てたいらしい男が笑う。

しかし、その言葉に白は顔面を蒼白にした。

今の姿では、そこに行ってはいけなかったのだ。

そんなことにさえも、気付かなかった。

ずっと気を張っていたはずの白は、いつの間にか、どこか緩んでしまっていたことに気付く。


「弟は、まだフェードに来て間がないんですよ。だから、わからなかったんです。」

にっこりと微笑み、それが当然のことであるように、儀礼は言う。

 白はフェードの常識や文字の読み書きなど、日常生活に困らない程度には知識がある。

兄の教育方針の賜物だろう。

フェードだけでなく、どこの国に行ったとしても、最低限の会話と読み書きはできるはずだ。

管理局などで使う正式な文書を作れ、と言われると困るが、読んで理解して記入する程度のことならできる。


(ギレイ君、それ、嘘だよっ!)

状況の悪化しそうな言葉にどうしよう、と白は焦る。

(こんな時にシシがいてくれたら。)

白は思う。

『黒獅子』と呼ばれる少年が一睨みするだけで、大抵の研究者は逃げていく。

ランクの低い冒険者は無意識に、獅子に道を譲っていた。

光の剣を抜きにしても、武人としての獅子の気配はそれほど強いものだった。

その強い気配には、白は安心する。白の張る気配の、さらに広い範囲に獅子の意識があるのだ。

白が気付くよりも早く、獅子は他人ひとの気配に気付く。

白の動く気配を、戦闘中の動作すら、獅子は認識していた。

見守るようにあるその意識のおかげで、白は冒険者ギルドで自由に動くことができた。


「読めないにしたって、色やマークでわかるだろう。」

ついに儀礼に向かっても、怒鳴るように男は言った。

「それでも、そこですよって案内されたら疑わないでしょう。それがその町の人の趣味かもしれないんですから。僕だって、何度も女湯やら、女性用更衣室やらに間違って案内されましたよ。その都度、僕は男ですって、説明しなきゃならないんだぞ? 普通言うか? 僕は男なんですが、トイレどこです、って。男性用シャワー室聞いて、女性用の浴室に案内されるんだぞ?! 相手は、言葉が不便なんですね、わかってますよみたいな親切心いっぱいな顔してんだぞ、どうしろって言うんだ。」

目に涙を浮かべ、ほとんど愚痴のようなものを、息継ぎもなく儀礼は語った。

言われた男の方が、呆然と表情を固めている。

「……お前、男か?」

儀礼を指差し、ポツリと、男が呟いた。


 その瞬間に、儀礼の片側の頬が大きく引き上がった。

「僕、この子の兄ですが、と最初に名乗りましたよね。―― ああ、でもそれは、ではなかったですね。」

色眼鏡を外し、儀礼は白衣を整える。現れた茶色の瞳、揺れる金の髪。

そして一歩踏み込むと、ぼそり、と儀礼はその男の耳に何かを囁いた。

「以降、お見知りおきを?」

くすりと笑って、儀礼は言った。

色気を感じさせるような、目を引く綺麗なものなのに、底の知れない恐怖を抱かせる、不思議な笑み。


 今度は頬に冷や汗を流し、白の代わりに男の方が、顔面を蒼白にさせた。

白は状況が分からず、首を傾げる。

《ギレイ・マドイと申しますって、言っただけよ。》

姿が見えないのをいいことに、儀礼の口元で聞き耳を立てていた、精霊シャーロットも、聞こえたのはそれだけ、と白と一緒に首を傾げる。

なんとなく、精霊シャーロットに、儀礼の魔力の影響が出てきている気のする白だった。

白は未だに、「ギレイ・マドイ」=『蜃気楼』だと知らない。

そして、『蜃気楼』が管理局のSランクだと知っているかも怪しい。

儀礼が有名になった数ヶ月、白は生きるために、とにかく逃げるのに必死だった。

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