精霊 朝月
明け方近くに、白は目を覚ました。
不思議な気配を感じて。
今までに感じたこともない、すごく強い魔力。
それが、部屋の中に湧き上がっていた。
窓からの月明かりを浴びて、一人の精霊が部屋の中に『立っていた』。
立っていた、と表現するのが本当に正しい。
その精霊は、背の高い人間ほどの大きさをしていた。
人でないとわかるのは、その強い魔力と、美しい姿。
白は、その精霊を正面から見たわけではない。
ほとんど背中しか見えない、わずかにだけ斜めの姿。
なのに、美しいと感じるようなきらきらとした、神秘的な雰囲気がその精霊には、あった。
その精霊は、静かな月の光を浴びて、一人の少年を見ている。
そこには今、もう一人いるのだが、なぜだか、白にはその金髪の少年を見ているのだと思えた。
白の守護精霊、シャーロットが慌てたように白と、その雪のように白く美しい精霊の間に割って入った。
人間を超える様な大きさの精霊。白は、話にだけは聞いたことがあった。
それは『精霊王』と呼ばれるような、人智を超えた力を持つ精霊の姿。
この白い精霊は、精霊の王だとするならば、光の精霊王だ。
けれど、それはありえなかった。
白き光の精霊王は、聖なる力の象徴。神の力と呼ばれるもの。
なのに、この精霊からは、光の精霊らしからぬ、美しい中に禍々しいまでの妖艶な気配が漂っていた。
白とシャーロットの緊張する中、その精霊はゆっくりと振り返る。
全身を覆う、雪のように真っ白な衣。
白く、一本一本は絹の糸のように細い、長い髪。
肌も爪も、その艶を称える唇さえも白い、美しき精霊。
《青き精霊の主よ。》
聞惚れるような、染み渡る声がその精霊から発せられた。
精霊シャーロットが、怯えたようにびくりと震える。
その声は守護精霊の契約にすら、響く魔力を持っているようだった。
《名を――。》
ためらう様に口を開く、最高位の精霊の声は、白の頭の奥にまで入り込み、切ない響きを伝えた。
シャーロットが慌てたように、魔力をさえぎる結界を張る。
その透明な青い壁に遮られ、ようやく、白は意識を正常に保つことができた。
《名を、伝えてはくれないか? 朝月と。そう、呼んで欲しいと。》
結界を通してさえ、切なく響く精霊の声。
朝月と名乗る、美しい精霊。
天女のような容姿を持つとはっきと感じるのに、その目元だけがなぜか、白からは隠されていた。
《ギレイに。私に名をくれた者に。》
「朝月さん?」
白は、うっとりとその顔を眺めていた。
ずっと見ていたくなるような、心地よい不思議な気持ちが白を満たしてた。
《そうだ。そのように、呼んで欲しい。彼にも。》
精霊の白い唇が綻び、笑ったのがわかった。
その艶やかな様に白は見惚れる。
「どうして、顔を隠してるの?」
白は精霊の顔が総じて、美しいものだと知っていた。
だから、見てみたいと、切望するほどに、白は思っていた。
美しい精霊の中の、最上級の精霊の顔を。
自分がその精霊に惹きよせられていることに、白は気付いていなかった。
シャーロットが、敵わぬ相手に威嚇を発する。
それは、まだ攻撃の前段階。
ただ魔力を溜め、それ以上、主に近付けば撃つという警告。
しかし、朝月は笑った。
《すまぬ。そう、怒るな。若き精霊。》
数千年を生きるシャーロットに向かい、朝月は若い精霊と呼ぶ。
朝月の生きた年数は、計り知れないものだった。
《人を魅了するのは私の業だ。やろうと思ったわけではない。》
ゆっくりと朝月が一歩後ろに下がった。
それで朝月の姿は、月明かりから隠れ、闇の中に淡く光る存在となった。
《お前を、私の虜にしたくはない。私の目を見れば、人は魅了され心を失う。》
悲しむように、朝月は顔をわずかに伏せた。
《私はこの子の母を虜にしかけた。お前と同じように、精霊を見る者だ。》
くすりと、何かを思い出したように、朝月は笑った。
その優しい唇だけの微笑が、また美しく白の心を揺さぶる。
《この子はたまに無茶をする。》
眠っている儀礼を振り返り、ふわりと朝月は浮き上がった。
体の大きさなど感じさせない、空気のような身軽さで。
精霊とはそういう存在なのだと、白は思い出す。
朝月のあまりに強い存在感に、白は彼女が精霊であることを忘れかけていた。
眠る儀礼の真上に、寄り添うように横になり、朝月は儀礼の体に触れそうな位置で宙に浮いている。
《名を呼んで、もっと頼れと言ってくれ。一人で傷つくことはないと。》
儀礼の耳に囁くように、朝月は言う。
けれど、目の前で心地良さそうに眠る子供には、朝月の声は聞こえない。
誘うような、朝月の切ない声の響きに、白は思わず自分の服の胸元を握り締めた。
《伝えてくれ。私の声は届かない。》
朝月は愛しそうに、優しく儀礼の髪を撫でる。その髪は枕の上に静かに散った。
白は知らない。こんなにも心を訴える精霊を。
今まで会ったどんな精霊だって、こんなに、人間のような濃い意識を持った者はいなかった。
儀礼の眠る場所で、朝月はゆっくりとその身を空気に溶かしていく。
《そうすれば。私はまた、お前の助けにもなることだろう。》
消える寸前、朝月はその美しい顔をほんの僅かにだけ覗かせた。
白い袖の影に一瞬だけ見えた輝く瞳は、光の精霊には似つかわしくないほど魅力的な気配を放ち、朝月の唇は誘い込むように、妖艶に微笑んでいた。
「すっごく、綺麗な精霊……。」
白の口からは知らず、言葉がこぼれ落ちていた。
その顔は上気し、時を忘れたように朝月の消えた中空を眺める。
「あんなに心配してた。ギレイ君、何してきたんだろ。」
朝月の染み入る声を反芻していた白は、ようやく聞いた言葉の意味を理解できるまでに落ち着いた。
呆然と、白は眠り続ける儀礼を見る。
「無茶して、一人で傷ついてって……。」
白衣に身を包む、研究者にしか見えない少年。
儀礼の周りの精霊たちは、口々に彼を守るのだと言う。
思わず、白はベッドの上で拳を握っていた。
「私も。私も守るよ。みんなの大切な人なら。」
幼い頃から身を守るためにと、鍛えられた白の体は、じっとしていることに耐えられなくなってきていた。
《だめよ。》
靴を履こうとした白の前に、青い透明な壁が現れた。
その障壁を張ったのは、白の守護精霊。
けれど、シャーロットは安堵したように微笑んでいる。
《あなたは先に体を回復させなくちゃ。》
元気の出た白に、嬉しそうにシャーロットは笑う。
優しい精霊の美しい笑み見て、白はおとなしくベッドに戻った。
部屋の中に白い光が満ちていく。
窓からは朝の光が差し込み始めていた。




