六十歳の《無能》
王都の西区、その中でも大通りから二本ほど奥へ入った場所には、貴族が馬車を止めるような立派な店など一軒もなかった。石造りの建物が肩を寄せ合うように並び、朝になればパンを焼く香りが漂い、昼になれば職人たちの怒鳴り声が聞こえ、夕方になれば仕事を終えた男たちが酒場へ吸い込まれていく。そんな、ごく普通の人間たちが暮らす区画だった。
その通りの片隅に、《シオン雑貨店》という小さな店がある。扱っているのは冒険者向けの保存食や薬草、安物の短剣、旅人用の外套、日用品、それから店主が気まぐれに仕入れてくる地方の珍しい品々。王都でも指折りの名店というわけではないが、三十年近く同じ場所で商売を続けてきたおかげで、近所ではそれなりに知られている店だった。
「親父さん、これ三つ貰うぞ。あと、いつもの傷薬も二本な。明日から東の街道を護衛するんだ」
「三つじゃなくて四つ持っていけ。あっちの街道はこの時期になると雨で馬車が遅れる。保存食一つを惜しんで腹を空かせても、護衛料金は増えないぞ」
「また始まったよ。商売人なら一つ余計に買ってくれてありがとうって言うところじゃないのか?」
「だから四つ買えと言ってるだろう。立派に商売してるじゃないか」
カウンター越しにそう返すと、革鎧を着た若い冒険者が呆れたように笑った。結局、男は保存食を四つ買い、傷薬も二本持っていった。扉の向こうへ消える背中を見送りながら、店主であるシオンは椅子へゆっくりと腰を下ろす。
今年で六十歳になる身体は、昔のようには動かなかった。立ったり座ったりするだけで膝が軋み、重い木箱を運べば翌日まで腰に響く。若い頃に冒険者として無茶をした影響もあるのだろう。右肩には古傷が残っており、冬になると何十年も前に魔物から受けた傷が、忘れるなと言わんばかりに痛み始める。
それでもシオンは、この店が嫌いではなかった。
朝になれば店を開け、馴染みの客とくだらない話をする。昼には近所のパン屋から買ってきた固いパンをスープへ浸して食べ、暇な時間には仕入れ帳を整理する。夕方になれば店を閉め、気が向けば馴染みの酒場で一杯飲む。若い頃に夢見ていた人生とは随分違うが、六十年も生きれば、そんな日々にも十分な価値があることくらい分かるようになっていた。
「……俺も、本当に爺になったもんだ」
呟きながら右手を見る。皺が増え、指の節も太くなった手は、侯爵家の令息だった頃とは似ても似つかない。剣を握り、荷物を運び、帳簿を書き、何万回と商品を客へ渡してきた手だ。美しいとは思わないが、嫌いでもなかった。
店の奥にある古びた棚へ目を向けると、そこには一枚の金属板が置かれている。才能を確認するための簡易鑑定板で、冒険者時代に中古で買ったものだった。今では使うこともほとんどないが、捨てる気にもなれず、何十年も同じ場所へ置いてある。
シオンはしばらくそれを眺めた後、自嘲するように口元を緩めた。
「結局、六十まで変わらなかったな」
五歳の誕生日を迎えた子供は、神殿で才能鑑定を受ける。それは平民であろうと貴族であろうと変わらず、火魔法や水魔法、剣術や錬金術といった才能がそこで初めて明らかになる。そして才能は、その人間が将来どの道へ進むのかを決める大きな指標になる。
もちろん、才能がなければ何もできないわけではない。剣術の才能を持たない人間でも剣は振れるし、適性さえあれば魔法の才能がなくても簡単な術式くらいは扱える。しかし習得速度も、成長の限界も、才能を持つ者とは明確に違っていた。
そして、ごく少数ではあるものの、どの才能も確認できない子供も存在する。
その鑑定結果が――《無能》。
シオン・アルヴェリアが五歳の時に与えられたものも、それだった。
ただ、《無能》には一つだけ奇妙な特徴がある。何の才能も持たないまま人生を終える者が大半である一方、ごく稀に途中で鑑定結果が《無銘》へ変化する者が存在するのだ。《無銘》になった者は、その後、それまでの人生や経験、願いに影響されたかのような特殊な才能を発現することがある。
だから五歳のシオンは、完全に見捨てられたわけではなかった。
むしろ名門アルヴェリア侯爵家の血を引いているからこそ、周囲は期待した。
父ガルディスには《魔剣》があり、兄レオンには《剣将》があった。姉リシアも《氷魔法》という優れた才能を授かっている。そんな家に生まれた《無能》なのだから、いずれ並外れた《無銘》へ変わるのではないかと、家族だけでなく周囲の貴族たちまで勝手に期待していた。
十歳になっても、何も起こらなかった。
十二歳で王立学園へ入学しても変わらず、十五歳になっても《無能》のまま。十八歳で学園を卒業する頃には、期待していた人間の大半がシオンのことを諦めていた。
誰よりも諦められなかったのは、当時のシオン自身だった。
「……馬鹿だったな、本当に」
六十歳になった今だから、そう思える。
あの頃は毎日のように剣を振った。魔法理論を勉強し、薬草学や錬金術まで試した。何か一つでも自分の《無銘》を目覚めさせる切っ掛けになるのではないかと、必死になって探し続けた。
兄を見れば嫉妬した。
姉を見ても嫉妬した。
父から何か言われれば、それが心配から出た言葉であっても「無能だから馬鹿にしているのだ」と勝手に受け取った。使用人たちの視線にも敏感になり、やがて家族と食事をすることすら避けるようになった。
そして何より、五歳の頃に母を亡くしたことが大きかった。
母エレノアは、シオンが才能鑑定を受けた時にはすでに重い病に侵されていた。日に日に身体が弱り、最後には自分の足で寝台から立つことすらできなくなった。優秀な治癒術師や医師を何人呼んでも原因は分からず、シオンが五歳だったその年のうちに、三十歳という若さで亡くなった。
幼かった自分は、母が死んだことと《無能》だったことを、どこかで結び付けてしまっていたのかもしれない。
もし自分に治癒の才能があれば。
もし《無銘》へ変わって、奇跡のような力を手に入れていれば。
母を救えたのではないか。
そんな子供じみた考えを、随分長い間捨てられなかった。
十八歳になったシオンは、最終的にアルヴェリア侯爵家を出た。父から告げられた時には、自分はとうとう見捨てられたのだと思ったものだ。怒鳴り、父を責め、兄や姉ともまともな別れをしないまま屋敷を飛び出した。
だが今なら分かる。
父はシオンからアルヴェリアの名を完全には奪わなかった。平民として暮らしていけるだけの金を渡し、王都で身分に困らないよう必要な書類まで用意していた。いざという時には連絡できる人物の名前も教えられていたのに、若いシオンは意地になって一度も頼らなかった。
あれは追放だったのだろうか。
六十歳のシオンには、もう分からない。
少なくとも、十八歳の自分が思っていたほど単純な話ではなかったのだろう。
家を出てからは冒険者になった。才能がないのだから当然大成などできず、剣一本で魔物を薙ぎ倒す英雄にも、強大な魔法を放つ冒険者にもなれなかった。それでも七年ほど続けるうちに、危険な場所へ近づかないこと、逃げるべき時に逃げること、食べられる植物を見分けること、仲間の顔色から疲労を判断することだけは上手くなった。
仲間からは何度も、「シオンは戦うより生き残る才能がある」と笑われた。
才能鑑定では何も出なかったのだから、それを才能と呼んでいいのかは分からない。それでも、嫌な言葉ではなかった。
二十五歳を過ぎた頃、冒険中に右肩を大きく負傷したことを切っ掛けに冒険者を辞め、小さな商会へ入った。最初は荷運びだったが、冒険者として各地を歩いていた経験が役に立ち、やがて仕入れや隊商への同行も任されるようになった。
商人として生きた十年間には、本当に多くのものを見た。
北方のローデン山地で巨大な金鉱が発見され、価値のなかった山間部へ一攫千金を狙う人々が殺到した。女性たちの間では、それまで雑草同然だった薬草から作られた美容薬が大流行し、王都の店へ貴族の馬車が列を作ったこともある。
その頃には《ベルナード大商会》が王国中へ支店を広げていた。若い頃には潰れかけの小さな店を営んでいたという創業者カイル・ベルナードが、いつしか「商王」とまで呼ばれるようになっていたのを覚えている。シオンが勤めていた商会も、何度かベルナード大商会を通して商品を仕入れたことがあった。
三十五歳を過ぎる頃には、長年貯めた金を元手に独立した。
それが今いる、この店だった。
大成功したわけではない。豪邸を買えるほど儲けたこともなければ、貴族相手に大きな商談をしたこともない。それでも借金で首が回らなくなったことはなく、腹を空かせることもなかった。少しずつ馴染みの客が増え、気付けば「親父さん」と呼んでくる若者まで現れた。
四十代、五十代になると、若い頃とは違った楽しみも増えた。
客として訪れる旅人から外国の話を聞き、元騎士から昔の戦争について教えてもらい、酒場では引退した役人や薬師とくだらない話をした。若い頃にはただの出来事として受け止めていた事件について、何十年も経ってから意外な真相を知ることもあった。
十一歳の時に病死したと教えられたアストレア国王が、本当は長期間毒を盛られていたらしいと知った時など、さすがに驚いたものだ。かつて王宮に出入りしていた老薬師から聞いただけなので犯人までは知らなかったが、その毒の特徴と当時の症状については酒を飲みながら随分詳しく教えてもらった。
母の病について知ったのも、三十代を過ぎてからだった。
医学研究院が発表した《魔晶蓄積症》という新しい病名。その症例を新聞で読んだ瞬間、シオンは母のことを思い出した。体内に微細な魔力結晶が蓄積し、臓器の働きを少しずつ阻害していく病。通常の治癒魔法では傷付いた臓器を一時的に回復させるだけで、結晶そのものを取り除けない。
記事には、治療へ使われる薬草の名前まで載っていた。
何度も読んだ。
何度も、何度も読んだ。
あまりにも悔しくて、その記事を切り抜いて何年も保管していた。母が亡くなった時代には知られていなかった治療法が、たった数十年後には存在していた。その事実だけは、六十歳になった今でも忘れることができない。
「あと三十年早ければ、か」
店内に自分の声だけが響いた。
母が亡くなったのは五十五年も前だ。
父がどうなったのか、兄や姉が今も生きているのかさえ、シオンは知らない。
家を出た直後は意地になって故郷の情報を避けた。数年経てば戻りづらくなり、十年経てば今さらどんな顔をして会えばいいのか分からなくなった。そして二十年、三十年と経つうちに、帰らないことそのものが当たり前になってしまった。
会おうと思えば、会えた時期はあったはずだ。
それをしなかったのは自分だった。
「六十年か……長かったような、短かったような」
シオンは椅子から立ち上がろうとして、胸の奥に小さな痛みを感じた。
最近は時々あることだった。
医者からも心臓が随分弱っていると言われている。長年の無理と若い頃の怪我、それから単純な老化。薬を飲んだからといって若返るわけでもない。六十歳まで生きれば十分だと、自分ではそう思っていた。
この世界では、平民の多くが六十歳を迎える前に亡くなる。治癒魔法があるとはいえ、病気も怪我も完全になくなるわけではない。冒険者として何度も死にかけた自分がここまで生きたのだから、むしろ運が良かった方なのだろう。
だから、死ぬことそのものはそれほど怖くなかった。
怖いのは、死ぬ間際になって急に思い出すことだった。
その日の夜、店を閉めたシオンは二階にある小さな寝室へ上がった。夕食を作る気力がなく、昼に残したパンを少し齧っただけで寝台へ横になる。窓の外では雨が降り始めており、屋根を叩く静かな音が部屋に響いていた。
胸の痛みは、いつもより強かった。
「……今日は、駄目かもしれないな」
不思議と冷静だった。
助けを呼ぶための鐘は寝台の横にある。鳴らせば隣家の人間が気付いてくれるだろうし、運が良ければ医者を呼んでもらえる。それでも手を伸ばそうとは思わなかった。
身体が、もう十分だと言っている気がした。
天井を眺めながら目を閉じると、なぜか最近の記憶ではなく、遠い昔の光景ばかりが浮かんできた。
まだ元気だった頃の母が、自分を膝へ乗せて笑っている。
剣の稽古を終えた兄レオンが、幼い自分へ木剣を渡してくれた。
姉リシアが魔法で作った小さな氷の花を見せてくれた。
そして父ガルディスが、十八歳になった自分へ袋を差し出している。
当時のシオンは、その袋を床へ叩きつけた。
金なんていらない。
そんなものを渡して自分を追い出すのか。
確か、そんなことを叫んだ。
今になって思えば、父は何か言おうとしていた。
だが若いシオンは最後まで聞かなかった。
「……父上は、何を言おうとしてたんだろうな」
六十歳になっても答えは分からない。
兄にも酷いことを言った。
姉にも随分心配を掛けた。
母が亡くなった時には、自分のことで精一杯で、同じように母を失った兄や姉が何を感じていたのか考えたことすらなかった。
今なら、もう少し上手くできる気がする。
剣の才能なんてなくていい。
魔法が下手でも構わない。
《無銘》にならなくてもいい。
そんなものを待ち続けて、周囲の人間を妬んで、十八年を無駄にする必要などなかった。
もっと母のそばにいればよかった。
もっと父と話せばよかった。
兄が強いなら、素直に凄いと言えばよかった。
姉が心配してくれたなら、鬱陶しがるのではなく礼を言えばよかった。
そんな簡単なことに気付くまで、四十年以上も掛かった。
「母上を……救いたかったな」
胸の痛みがさらに強くなる。
息を吸っているはずなのに、空気が入ってこない。指先から感覚が消え始め、雨音さえ少しずつ遠ざかっていく。
シオンは死を悟った。
それでも最後に浮かんだのは、名誉でも財産でもなかった。
自分の店については、以前から手伝ってくれている若者へ譲るための書類を作ってある。残った金も大した額ではないが、世話になった人間へ分けるよう遺言を書いた。人生の後始末なら、とっくに済ませている。
だから残っているのは、叶わない後悔だけだった。
「もし……本当に、もしもだ」
掠れた声で呟く。
そんな奇跡が存在しないことくらい、六十年も生きたシオンには分かっていた。
それでも死ぬ人間が最後に見る夢くらい、好きにしてもいいだろう。
「もう一度だけ……やり直せたらな」
その瞬間だった。
長い人生の中で、何百回、何千回と確認してきた自分の中の何かが、初めて変化した。
目で見えたわけではない。
声が聞こえたわけでもない。
それでもシオンには、なぜかはっきりと理解できた。
五歳から六十歳まで、一度として変化しなかった自分の才能。その空白に、初めて何かが生まれている。
《無能》。
五十五年間、自分へ付きまとい続けたその言葉が消えていく。
代わりに現れたのは、シオンが若い頃、狂おしいほど欲し続けていたものだった。
――《無銘》。
「……は?」
死にかけているというのに、思わず間の抜けた声が漏れた。
十歳でもなく。
十八歳でもなく。
三十歳でもなく。
よりにもよって六十歳。人生が終わろうとしている今になって、ようやく《無能》が《無銘》へ変わった。
「遅すぎ……だろ」
笑おうとしたが、もう声にはならなかった。
だが変化は、それだけでは終わらない。
《無銘》だった何かが、シオンの六十年間をなぞるように形を変えていく。
母を失った後悔。
父と分かり合えなかった後悔。
兄や姉を妬み続けた後悔。
若さを《無銘》への期待だけで浪費した後悔。
それでも冒険者として歩き、商人として働き、小さな店を持ち、多くの人と出会い、どうにか六十年を生き抜いた人生。
そのすべてが、一つの願いへ収束していく。
もう一度だけ。
ただ一度だけでいい。
あの日から人生をやり直したい。
やがて《無銘》だったものへ、初めて名前が与えられた。
――固有権能《たった一度のやり直し》。
意味を理解した瞬間、シオンは目を見開いた。
「待て……まさか、本当に――」
最後まで言葉を続けることはできなかった。
視界が白く染まる。
胸の痛みも、指先の冷たさも、身体を押し潰していた六十年分の重さも、一瞬で遠ざかっていった。
次に聞こえてきたのは、雨音ではなかった。
「――シオン様。そろそろお支度をなさいませんと、才能鑑定に遅れてしまいますよ」
若い女性の声だった。
聞き覚えがある。
だが、どうしても名前が思い出せない。
シオンはゆっくりと目を開けた。
見慣れた狭い寝室は消えている。代わりに視界へ飛び込んできたのは、天蓋の付いた大きな寝台と、磨き上げられた家具、朝日を通す分厚いカーテン。そして自分の店などとは比べものにならないほど豪華な部屋だった。
身体を起こそうとして、違和感に気付く。
身体が軽い。
右肩が痛くない。
膝も腰も、何ともない。
何より、寝台へついた自分の手が異様に小さかった。
「…………え?」
声まで高い。
シオンは呆然と両手を見つめ、それから転がるように寝台を降りた。足が床へ届くまでの距離がおかしい。ふらつきながら部屋の隅にある姿見へ向かい、鏡の中を見た瞬間、呼吸が止まった。
そこにいたのは六十歳の雑貨屋ではない。
まだ頬に幼さを残した、五歳の少年だった。
そしてシオンは、この部屋を知っていた。
アルヴェリア侯爵家で暮らしていた頃、自分に与えられていた子供部屋。
五十五年前に捨てた故郷。
「シオン様? 本当に急いでくださいませ。旦那様も奥様も、もうお待ちになっています。本日は大切な才能鑑定の日なのですから」
背後から聞こえたその言葉で、シオンの思考が完全に止まった。
才能鑑定。
その言葉を忘れるはずがない。
人生で初めて《無能》と告げられた日。
そして――。
「……奥様?」
シオンは振り返った。
「ええ。エレノア様も今日は体調が優れない中、シオン様の鑑定には必ず付き添いたいと仰っておりますから」
その名前を聞いた瞬間、シオンは鏡の前で立ち尽くした。
母がいる。
まだ、生きている。
六十年間の人生で何度願っても、二度と会うことのできなかった母が、この屋敷のどこかにいる。
自分が《無能》なのか、《無銘》なのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
五歳のシオン・アルヴェリアは、小さく震える手を強く握った。
五十五年前の今日。
一度目の人生が狂い始めた、才能鑑定の日。
そして今度は――まだ、母を救えるかもしれない日だった。




