割れないマグカップ
(2月中旬)
1月末に病院を退院した私は漸く、私の部屋に帰ってきた。
私の記憶喪失の程度も日常生活に支障が出る部分の記憶の喪失は無く、あくまで記憶が喪失しているのは人物や交友関係だった。
しかしそこもクリア。何故なら私には杏奈以外に友達が居ないらしいのだ。(杏奈調べ)
私のスマートフォンを見てもSNSはおろか、連絡先にも杏奈以外の登録者はいなかったのだった。
そこはほら、私が美人過ぎるからだろう。
そう言えば医者のおじ様、佐渡先生はなんと佐渡病院の院長だった。
頼りない中肉中背白髪パーマと思っていたが、とても親身になってくれた。
そこもほら、私が美人過ぎるからだろう。
幸い、私は貯金が出来る女だったらしい。
併せて私の親が私を捨てる時に一緒に持たせた通帳にはそれなりにお金が入っており、当分生活の心配はしなくて良さそうだった。
児童養護施設の院長もよくネコババしなかったものだ。
やはりそこもほら、私が・・
「育ちゃん、カレー出来たよ!」
私のナルシズムを遮る様に杏奈の声が響く。
「はーい、今行くー!」
私の家(前は杏奈と私の家)は2LDKの賃貸マンションだった。
駅から徒歩40分!5階立ての角部屋!
広めのLDKに更にバス・トイレ別!
徒歩40分以外破格だった。築年数は18年と少し気になったが、リノベーションをしているお陰で新築みたいなキレイさだった。
家賃もお手頃で、二人どころかファミリーで住んでも問題なさそうだ。
しかし、この部屋を決める時に杏奈は渋ったらしい。エレベーターがないからだ。
真夏の暑さの中で5階まで階段を上がる作業は杏奈にとってはマラソンと同義らしかった。
自室を出るとなんだか懐かしい匂いがした。
記憶には確実に無い私の心の中の丸刈りの少年が、具沢山のどろどろのカレーを頬張る情景が浮かぶ。
「腹減ったー、私大盛で!」
テーブルに着きながら注文をする。
私の体重は退院時に元の体重から8kgも落ちていた。
体重計の針が42kgを指していた時の杏奈の顔が忘れられない。
「育ちゃんは沢山食べないとだから特盛だよ~!」
杏奈の笑顔の裏に浮かぶ策略が手に取る様に分かる。こいつ顔にすぐ出るな。
「私より12cmも身長高いのになんで私より軽くなってるのよぉ・・」
ブツブツと呪詛を振り撒きながら、私の前に特盛のカレーが到着する。
「いただきます。」
うん、美味い。スパイスが効いたルーに豚肉の脂の甘味と野菜の甘味が合わさって食欲をそそる。
しかし凄い量だな、お米3合はあるんじゃないか?
食べ進めていると、杏奈が前の席に着いた。
「美味しい?育ちゃん料理だけは出来ないからね~、私が定期的に作りに来てあげるからね!」
・・・眩しい。天使がいる。
正直記憶が無くなった今、昔の自分に感謝している。よくぞこの子と仲良くなったな、自分!
「ありがとう、杏奈。助かります!」
「お鍋に2日分くらいは残ってるからね、タッパーに分けて保存して、ちゃんと温めなおして食べてね。」
「それくらいは出来るよね?」
そんな屈託のない笑顔で言われたらやりたくなくてもやらなくてはという気分になってしまう。
「や・・、が、頑張ります・・」
杏奈が手をたたく。
「よし!タクシーも来たみたいだから私は帰るからね!」
「何かあったらすぐに連絡するんだよ?何時でも気にしないで良いからね?」
カレーを食べながら相槌を返す。
「ん。」
「じゃあ、またね!育ちゃん。合鍵は・・」
「持っていっていいよ。私まだ孤独死したくないし。」
「分かった!じゃあばいば~い!」
嵐のような天使が帰って再び静寂が訪れた。
カレーを食べ終えて空腹が満たされた。
喉が渇いたな。
杏奈が用意してくれたマグカップ並々の麦茶は飲み干してしまっていた。
立ち上がり、冷蔵庫を開けて麦茶を注ぐ。
生きている事を実感する。
喉を鳴らし水分を吸収すると、空気が胃に余計に入って苦しくなる。けど今はそれが良い。
「もー、食えねぇし、飲めねぇ。」
汚い言葉を吐きながら、キッチンの流し台にマグカップを置こうとした時に急な目眩に襲われた。
「つっっ・・!」
思わず両手でキッチンのヘリを掴んで堪える。
「うぉぉ、世界が回るぅ~、立ち眩みかぁ~?」
ハッと我に返った。
「あっ!マグカップ・・」
手を離したマグカップの行方を考えて恐る恐る足元を見る。
(ああ、割れちゃったかなぁ。杏奈とのお揃いなんだっけ?これ。謝って許してくれるかなあ。)
結論、足元にはマグカップが無かった。
「あれ?マグカップどこ行った?」
人は思いがけない事が起きるとつい、変な行動をしてしまう。
私はテーブルの上にある自分が食べたカレーの皿を持ち上げて、皿の下を確認する。
「ないなぁ~、どこ行った?マグカップ~」
返ってくるはずの無い返事を期待して声を掛ける。
テーブルの下を覗き込んでいたその時、背後で気配を感じた。
幽霊!?!?
キッチンの方を振り返るとそこには落としたはずのマグカップがふわふわと浮いていたのだった。




