二話
広い海の上に、小鳥のような形状の陸地が浮かんでいた。
小鳥の背に位置する海には小さな島が点在しており、その中の一つに、ヒトの横顔にも似た島があった。その島の名はイニアノック島。集落は、ささやかな港町が一つきり。
産業は主に漁業と精油業。一年ほど前までは対岸の港と交流があったが、現在は船の行き来もなく、不気味に静まり返っていた。
「……さま、マ……オーマさま!」
名を呼ぶ声が聞こえて、瞼を開く。
「ん……?」
確かに目を開いたはずだ。しかしどうしたことか、どこへ目を向けても暗闇ばかりで、瞼の裏を見ている景色から変化がない。
「オーマさま、良かった。お目覚めになられたんですね」
オーマと呼ばれた少年が声の聞こえる方向へ手を伸ばすと、ヒトの皮膚に触れる感触がした後、その手を両側から挟むように握られた。
「お前、ニッコ・スーか?」
「はい。体調はいかがでしょう? 少しでもご不調があれば、すぐにおっしゃってください」
「問題ない。それよりも、この場所は安全か? 気配や物音などは」
「僕の耳では聞き取れませんでした」
「ならば、とりあえずは安全だという前提で行動する。お前は何が起こったか覚えているか。覚えている限りのことを報告しろ」
「はっ。ええと……、オーマさまが転移魔法をお使いになられた直後、周囲の景色がグニャグニャと歪んで、星空のような光景に変わって……それで、気づいたらこの暗闇の中に居ました。オーマさまは違うのですか?」
「記憶がない。意識が遠のき、気絶していたらしい。おかげで、転移酔いはせずに済んだが」
「それは何よりです。……あの、ところで、魔法で照明はお出しにならないのですか? こんなに暗い中で行動するのは危険だと思うのですが」
「実を言うと、まだ本調子ではない。この状況での魔法使用は危険を伴う」
「そうなのですか? どうしていつも不調を隠してしまうんです。何かあってからでは遅いんですよ。貴方は――」
「問題ないと言った。本調子でない状態で対応を誤ることを危惧した判断だ」
「……失礼しました。では、これからどうしましょう。何でもお命じください」
「ひとまず明るい場所を探す。壁に沿って移動するぞ」
「では僕が先行します。御身は僕が必ずお守りいたしますので、ご安心くださいね」
周囲を手探りで探索すると、すぐ近くにゴツゴツとした岩の壁があった。
であれば、オーマたちが居るのは洞窟か何かだろうと見当がつく。そう認識した途端、空気に湿った土の匂いが混じった気がした。
壁に右手をつき、十五分は歩いただろうか。オーマは弾む息の合間に前方を歩くニッコを呼ぶ。
「ニッコ・スー……小休憩を取る。止まれ……」
「だ、大丈夫ですか? すみません、僕の歩く速度が速かったでしょうか」
「いつものことだ……少し休めば、また問題なく歩けるようになる……いちいち謝るな」
「は、はい……」
二人分の硬質な足音がなくなると、洞窟内は風の通り抜ける音だけになる。
「オーマさま、一つ聞いてもよろしいですか?」
「許す」
「本当にオーマさまの母君は、この先にいらっしゃるのでしょうか」
「さあな」
「心配ではないのですか?」
「必要なら会うことになるだろうが、そうでなければ影も見せない。無駄を厭う御方だからな」
「会いたくは……なりませんか?」
「そうだな。可能ならお会いしたい」
「……ええ、そうでしょうとも。お可哀想に、オーマさま。突然、母君が行方不明になってしまわれて……さぞ、お寂しい思いを――」
「あの方には聞きたいことが山ほどある。まずは公務に関して。それに、魔法や有事の際の振る舞い……。彼女の後継として、学ぶべきことは尽きない」
「い、いえ、そうではなく。……その、寂しくはないのですか?」
「……」
思いもよらない問いかけに、オーマは虚をつかれて沈黙するが、ひとまず問われたからには思い当たるものを胸中に見出そうと試みる。
「そういったことは……さほど」
「……オーマさま、年相応の子どもらしさを持つことは罪ではないのですよ。貴方はまだ十歳の子どもなのですから」
「驚いた。お前の通う神学校ではお節介焼きの親戚のような振る舞いも習うのか?」
「え? いいえ、習いませんが」
「……大真面目に受け取るな。まあいい。そろそろ行く。お前は問題ないか」
「ええ。お気遣いいただき、ありがとうございます」
再び歩き出そうと、オーマが一歩を踏み出す。
足先が地面を蹴る、カツンと音が響くのに合わせて、オーマの耳が跳ねた。
「――今の、聞こえたか」
「え?」
「向こうだ……確かに聞こえた……」
壁に手をつくまでもなく、オーマは何かに引かれるようにニッコの脇をすり抜けて歩を進める。
「オーマさま? どうなさったので――うっ、いたた……」
ニッコが背後で、あちこち体をぶつける音と悲鳴が聞こえる。
しかし、奇妙なことにオーマは照明の一つも無い暗闇の中でも迷いなく進むことができた。
導かれている。そんな錯覚がオーマの気分を高揚させる。高まる鼓動に合わせて足取りも速まっていき、いつしかオーマは、闇の中を駆けていた。
「オーマさま! お待ちください!」
ニッコの制止の声を振り切り、辿り着いた先は、衝突音と悲鳴が飛び交う混沌とした場だった。
目を凝らせば、小型犬サイズのネズミの魔物の姿が視認できる。
魔物の頭部の上半分は、かすかな光を帯びた魔石で覆われており、それによって薄らと全身の輪郭を浮かび上がらせていた。
(魔物が居るということは、ここは結界の外か)
魔物も暗がりで満足に目が見えていないのか、しきりに地面を嗅いで獲物を探し、位置を特定すると、手当たり次第に体当たりを仕掛けているらしい。
「アンナさん、右に避けて!」
「ん、分かった」
「ミア、しゃがんで!」
「きゃあ! もう嫌! 無理よぉ! わたしたち、きっと助からないんだわ!」
聞こえてくる声から推察するに、この場にはオーマとニッコの他に、三人の人物が居るようだ。一人は周囲に指示を出す人物。声の印象から、まだオーマとそう変わらない年頃の少年のようで、オーマの立ち位置に最も近い場所に居る。少年から少し離れた場所に二人。こちらも子どもの声に聞こえるが、少女の声だ。
「オーマさま、誰かが襲われているようです」
「……」
小声で話しかけてきたニッコに、オーマは何も答えなかった。無言で闇の中を睨み据えたまま、一歩も動かない。
「オーマさま? 助けるんです……よね?」
「なぜだ」
「な、なぜって……。普通、助けるものでしょう? 子どもですよ?」
「罠の可能性がある」
「子どもですよ?」
「警戒心を解かせるのに子どもを使うことは充分考えられる」
「では、見捨てるとおっしゃるんですか?」
「……まあ、いい。この近辺に住む民だろう。道案内をさせることにする」
「良かった……僕たちは始祖神の信徒として、いつでも正しい行いをしなければなりませんからね」
「……。集中している間、余は無防備になる。お前が前に出て盾になれ」
「畏まりました」
ニッコが目の前に立つ気配を確認し、オーマは前方へ向けて右手をかざす。
魔石がはめこまれた指輪が一瞬、光を放ち、指先に収束した魔力が闇の渦となって形を取る。
《影よ、生命を紡ぐ糸となれ》
布から糸がほつれるようにして闇の渦から細い影が伸びる。影は地面を這い、ニッコの足の隙間を縫って走る。標的は、闇の中にあって唯一、ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせるネズミの頭部だ。視覚では捉えられずとも、オーマには伸びた影が鞭のようにネズミの首に巻きついたのが感じ取れた。
なす術なく喉を締め上げられたネズミは、甲高い悲鳴を上げ、数度の痙攣を経て力なく地面に倒れた。魔石が光を失い、完全な闇が戻ってきたことが、魔物の命が失われたことを告げる。
「魔物が……消えた?」
少年の声が呆然と呟きを落とし、それからハッと息を飲む音がする。
「誰か居る!」
「だ、誰かって誰よ?」
「分からない。けど、魔物を倒してくれた……と思う」
「じゃあ、味方なのね? ねえ、返事をして?」
張り詰めた空気が若干和らぎ、三人のうち一人が動く気配がする。
「オレはユウ・アイス。十歳。よろしく」
見えない方向から手が差し出されたのが分かる。オーマには、その気配を頼りに歩み出て、その手に触れる選択肢もあった。しかし、彼は握手には応じず、手があると思しき空間を黙って見下ろすにとどめる。
「あ、見えないか。ごめん。それで、きみが助けてくれたってことでいいんだよね? ありがとう! おかげでオレの友だちが怪我をしないで済んだよ」
「それは何よりです。僕はニッコ・スーと申します。僕は十三歳になります」
「わたしはミアよ。十二歳の絶世の美少女。わたしからも感謝の言葉を贈らせて。もう、死んじゃうかもしれないって思って、八割くらい諦めていたの。けれど、貴方たちが来てくれて助かったわ。本当にありがとう」
「……あたし、アンナ。九歳」
オーマ以外の全員が名乗り終えたところで、場の意識がオーマに向かう。
(あわよくば余の存在を認知されずに優位性を確保できるかと思ったが、さすがにそう上手くはいかないか)
「余の名は――」
「よ?」
「よ……」
「余?」
三つの声が重なる。
「……余の名はオーマ。十歳だ。……何かおかしかったか?」
「いや……、オーマって、もしかして良家のお坊ちゃんだったりする?」
「なぜ、そう思った」
「口調、偉そう」
「アンナさん! 言い方、言い方!」
「余の出自を知ってどうする」
「どうもしないよ。気になっただけ。アンナさんの言う通り、オーマの口調が……その、あんまり聞かないタイプだったから、いいとこの家の子なんじゃないかなって思って」
「……」
「言いたくなかったら言わなくていいよ」
「お前たちは、なぜここに?」
「あ、言わないのね」
「オレたち、ベリーを摘みに森へ入ったら、魔物に追われてこの洞窟に迷い込んだんだ。オーマとニッコは? 町の子どもじゃないよね?」
「え、ええと、それは……」
「親の仕事の都合で、今日、町に着いたばかりでな。土地勘がなく、どこをどう歩いて、この洞窟に辿り着いたのかも分からない。良ければ案内を頼めないか」
「もちろん……って言っても、オレたちも迷ってるんだけどね」
「それでも余よりはマシだ。先導を頼む」
全員で壁際に寄り、慎重に歩き出す。不思議な力に導かれる感覚は、いつの間にかオーマの中から失われていた。
「ねえねえ、提案なんだけど、ここを出たら、オーマたちに町の案内をしてあげるのはどう? どこを案内するのがいいかしら? アンナはどう思う?」
「図書館」
「本当にアンナは図書館が好きねえ」
「あそこ、アカニの町で一番楽しい」
「楽しいと言ったら裏路地も楽しいのよ! 掘り出し物が山ほどある夢のようなスポットなんだから!」
「それ、楽しいのはミアだけじゃないかな」
「そう言うユウはどうなのよ? どこがいいと思う?」
「うーん、買い食いとかお土産を探せるし、市場はどうかな? オーマとニッコはどこがいい?」
「僕は大人にバレる前に早く帰りたいです……」
「あら。ニッコも、お家の人に内緒で脱け出したの?」
「も?」
「何でもない。言い間違いよ。ニッコったら、意外とやんちゃなのね」
「いえ、僕はオーマさまの脱走に巻き込まれて……」
「脱走? オーマが?」
「ええ、そうなんです。僕は何度もお止めしたのですが、聞き入れてくださらず」
「人聞きが悪い。余は見て見ぬふりをした方が身のためだと再三にわたり警告したぞ。強引に随伴したのはお前だろう」
「あんな場面に遭遇して、黙って見過ごすなんてことできません。オーマさま、お母君のことが済んだら、しろ――」
「ニッコ・スー」
言葉で制止するも、遅かったようだ。好奇の視線が突き刺さるのを肌に感じる。
「オーマのママ、どしたの?」
「困りごとかしら? ミアお姉さんが聞いてあげるから、話してごらんなさいよ」
「オレも聞きたい。力になれるかもしれないし。オーマさえ良ければ聞かせてくれないかな」
「……オーマさま、すみません」
「……次に口を滑らせるまでに対策を考えておけ。余の事情について、詳しいことは明かせないが、余は行方不明の母を追って家を出た。彼女の出奔以前から、何かあった時のための指示は受けていたのでな。その言葉に従って、ここへ来た」
「何かって何……? どんな事情?」
「家庭の事情だ」
「踏み込んじゃ駄目なやつ?」
「そうだな」
「まあ、そういうこともあるわよね。それにしても、お母さまが行方不明だなんて、大変ね。オーマのお母さまはどんな人? 特徴を教えてくれたら、わたしたち、きっと助けになれるわ」
「必要ない。万が一、探し出したところで見知らぬ子どもの説得に応じるヒトではない」
「じゃ、説得、オーマに任せる。あたしたち、情報だけ集める。使える子馬、多い方がいい」
「……子馬?」
「アンナ、子馬じゃなくて駒よ」
「こま」
「なるほど、理に適っている。それではお前たちに母の特徴を伝えよう」
母の姿を思い浮かべ、彼女の姿を正確に伝える言葉を探す。
「母の名はシーオン。性別は女性。年齢は四十二。職業は……主に人材の管理」
「ふんふん」
「背丈は成人男性と同程度。職業柄、馬車での移動や机仕事が多いため、下半身が太い」
「……」
「……」
「え?……それだけ?」
「も、もう少し特徴的な箇所はないのかしら? 髪と目の色とか、顔立ちとか」
「外見はオーマさまとそっくりなので、お会いすれば、すぐに分かりますよ」
ニッコは懐かしむような、慈しむような声色でオーマの母について語る。
「僕は数回お言葉を賜ったことがあります。能力、人格ともに秀でた素晴らしい女性で、皆から尊敬を集めておられるんですよ」
「そっか。いい母さんだね。なら、洞窟を出たらオーマの顔をよく見て、似顔絵を描くのはどうだろう。それを町に貼れば、知っているヒトが現れるかも。そうだ。オレの母さんに言って、うちの宿にも貼らせてもらおうよ。そうすれば、町の外から来たお客さんも見てくれるし」
「模写ならミアお姉さんに任せてちょうだい。こう見えて、けっこうなものなの」
「ミア、絵、上手い」
「褒めてくれてありがとう、アンナ。わたしは貴方の絵も好きよ。革新的で、味があって。また一緒にお絵描きして、絵の取り換えっこをしましょうね」
「いいよ」
「うふふ」
「ミア嬢とアンナ嬢は仲がよろしいのですね」
「そうよ。わたしとアンナは親友だもの。ねー?」
「ね」
「いひひひ!」
「ひっ……え? え? 今の、ミア嬢の声ですか?」
「ええ、そうよ。それが、どうかしたかしら?」
「あ……いえ、独創的な笑い方ですね」
「ありがとう。よく褒められるのよね」
「そ、そうでしょうとも……」
そんなことを話しているうちに、前方に薄明かりが見え始めた。
「やったぁ! 早く行きましょう! もう暗いところなんて、うんざりだわ!」
「待って、ミア。走ると危ないよ!」
「だいじょ――きゃっ」
「言わんこっちゃない! どこをぶつけた?」
「ミアお姉さんのキュートなお鼻が……」
「血は出てる?」
「分からないわ……ツーンとする。鼻が曲がっていたらどうしましょう。家族が悲しむわ」
「ミア嬢、僕は簡単な治癒魔法なら心得があります。良ければ治療させてください」
「…………え?」
「ミア嬢、もしかして、自分の体に治癒魔法を施されるのは初めてですか? ご心配には及びません。僕は治癒の技術に限定すれば先生からお墨つきをいただいているんです」
「待て、ニッコ・スー」
「オーマさま? 僕、まだ何か――」
オーマが先行したミアに追いついたところで、いよいよ周囲の輪郭や色味が捉えられるようになってきた。オーマのすぐ近くには、少年が立っている。ニッコとは背丈が異なるため、おそらく彼がユウなのだろう。墨で塗ったような黒い短髪に、インクを流し込んだと言われても信じてしまいそうなほど黒い瞳、頭部にはツノはなく、耳は丸い。その上、下半身はどの動物の特徴とも一致せず、体毛がなく骨も真っ直ぐだった。
「……人間」
生まれて初めて目にする敵国のヒトの姿に、思わず声が漏れる。
またユウの方も、オーマを見て目を丸くしていた。
「ま……魔族?」
オーマは、この時初めて、ユウがその手に太い木の枝を握っていることに気がついた。




